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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第39話 セレナの野望

 金曜日の午後9時。

 虎ノ門にある外資系高級ホテルの最上階に位置するラウンジバー。


 窓際に設えられた特等席からは、東京タワーのオレンジ色の光が、ガラス越しに巨大なオブジェのように迫ってくる。眼下には車のヘッドライトが川のように流れ、眠らない首都の脈動を伝えていた。床に敷き詰められた毛足の長い絨毯が、エグゼクティブたちの靴音を完全に吸い込み、空間の中央で奏でられる弦楽四重奏の生演奏だけが、心地よい静寂の中に溶け込んでいる。週末の夜を楽しむ洗練された大人たちの控えめな談笑と、グラスが触れ合う澄んだ音が、空間に心地よいリズムを刻んでいた。


 真二は、クリスタルグラスに注がれたペリエの気泡が、底から水面へとゆっくり立ち昇るのを無表情で見つめていた。薄暗い間接照明の下、彼のダークスーツは夜の闇に同化するように輪郭を曖昧にしている。


 向かいの席では、セレナ・デイヴィスがシャンパングラスの細いステムを指先で弄りながら、唇に挑発的な笑みを浮かべている。深く開いたホルターネックの真紅のドレスから覗く彼女のブロンズ肌が、キャンドルの光を浴びて滑らかに艶めいていた。耳元で揺れるダイヤモンドのピアスが、彼女が動くたびに鋭い光を放つ。


「見事だったわ。佐々木翔太も、結城麻衣も。跡形もなく消え去った」


 セレナはグラスをわずかに傾け、楽しそうに目を細めた。


「武藤常務も、自分の身を守るために派閥の若手エースを容赦なく切り捨てた。おかげで彼の求心力は地に落ち、神宮寺グループの役員会は今、見えない疑心暗鬼に包まれている。誰もが隣の人間を疑い、自分の足元が崩れないか怯えているわ」

「俺が手を下すまでもありません。彼らが自分の欲望の重みで勝手に自滅しただけです」


 真二はペリエを一口飲み、静かにグラスをコースターに置いた。氷がカランと微かな音を立てる。


「謙遜は嫌いよ」


 セレナは身を乗り出し、テーブル越しに顔を近づけてきた。彼女の纏う、甘くスパイシーな香水の匂いがふわりと真二の鼻腔をくすぐる。


「あなたの完璧な包囲網があったからこそよ。でも、私が聞きたいのは終わった復讐の話じゃない。……あなたの口座で眠っている、莫大な資金のこと」


 真二の目が、微かに細められた。

 仮想通貨の暴騰を正確に読み切り、さらにセレナが提供したダミー会社を通じたショートセルによって得た莫大な資金。それはすでに、一個人が手にする額を遥かに超え、ちょっとした企業の買収すら可能な規模に膨れ上がっている。


「暗号資産市場のボラティリティを的確に突いたあのトレード。そして神宮寺の株価下落を見越した見事な空売り。あなた個人のウォレットに入った金額は、もはや個人投資家の遊びの範疇じゃないわ。……あの資金、どうするつもり? このまま銀行口座の数字の羅列にしておくなんて、退屈すぎるわ」

「弾薬は、使うべき時が来るまで手入れをして置いておくものです」

「なら、最高の標的を教えてあげる」


 セレナは瞳の奥に、肉食獣特有の飢えた光を宿した。


「次は、神宮寺グループそのものを乗っ取るわよ」


 弦楽の音色が、一瞬だけ遠のいたように感じた。

 真二は表情を一切変えず、ただ静かにセレナのアーモンドアイを見据えた。


「武藤常務の失脚で生じた権力の空白。それを埋めようと、今、役員たちは水面下で足の引っ張り合いをしている。エレノア・スペンサーが頭角を現しているとはいえ、彼女一人でこの巨大な老舗企業の腐敗をすぐに浄化できるわけじゃない。……むしろ、ガバナンスが揺らいでいる今こそ、外資がTOBを仕掛ける絶好のタイミングよ」


 セレナの声は低く、熱を帯びていた。


「神宮寺の時価総額は、現在の資産価値に対してあまりにも割安です」


 真二はグラスの縁を指でなぞりながら、淡々と応じた。


「特に非中核事業である不動産部門と、旧態依然とした物流部門。そこを切り離すだけでも莫大なキャッシュが生まれる。ですが、外から力技で買い進めれば、必ず経営陣は防衛策を発動させるか、ホワイトナイトを呼ぶ。内部からの同調者、つまり『トロイの木馬』が必要不可欠になる」


 セレナは満足そうに深く頷いた。


「その通りよ。だからこそ、あなたが内部で権力を握り、私たちが外から圧力をかける。完璧な挟撃体制が作れるわ。無駄な部門を切り捨てて再編すれば、莫大な利益を生み出せる。あなたにとっても、あの古臭い会社に一社員として飼い殺しにされるより、ずっと魅力的な提案でしょ?」

「エレノアを敵に回すことになりますよ」


 真二の短い言葉に、セレナは口角を上げた。


「彼女は優秀よ。でも、日本の組織に義理立てする必要なんてないわ。私たちが会社を解体した後、彼女には相応のポジションを用意してあげればいい。……それとも、あのお姫様への個人的な情でも湧いた?」

「俺は、誰の手駒にもなるつもりはありません」


 真二は冷たく言い放った。


「ですが、盤面が広がるのは歓迎です。あなたのファンドがどう動こうが勝手ですが、俺の資金と情報網を使うなら、主導権は俺が握ります」


 セレナは一瞬だけ目を丸くし、そして、堪えきれないように喉の奥で笑い声を上げた。


「……ああ、本当に。あなたって男は、底が知れないわね。ますます欲しくなったわ」


 セレナはテーブルの下で、ハイヒールのつま先を真二の足にすっと這わせた。


「いいわ。このゲーム、あなたがどう踊るか見せてもらう。でも、最後に勝つのは私よ」


 真二は足元の感触を完全に無視し、残りのペリエを飲み干した。


★★★★★★★★★★★


 翌日の土曜日。午後6時。

 表参道のメインストリートから一本路地に入った場所にある、看板のない和食店。


 周囲の華やかなブティックや行き交う人々の喧騒から完全に隔絶されたように、その店はひっそりと佇んでいる。打ち水がされた石畳の奥に、控えめな麻の暖簾が風に揺れていた。引き戸を開けると、凛とした白木の香りが鼻腔をくすぐる。


 真二は白木のカウンター席の奥で、冷酒のグラスを静かに傾けていた。

 清潔に磨き上げられた厨房では、職人が手際よく魚を捌き、炭火で炙る心地よい音が静かな店内に響いている。出汁の繊細な香りが、空腹を静かに刺激した。


「お待たせいたしました」


 背後から聞こえた声に振り返ると、大西明日香が立っていた。


 普段のオフィスでの、一切の隙がないタイトなパンツスーツ姿とは違う。上質なカシミアの薄手ニットに、シルエットの美しいミモレ丈のスカート。首元には華奢なシルバーのネックレスが光っている。化粧も普段より少しだけ柔らかく、彼女の切れ長で涼しげな目元に、ほんのりとした温かみを与えていた。


「座れ」


 真二が隣の席を促すと、明日香は小さく一礼して腰を下ろした。手にした小ぶりなバッグを膝の上に置き、背筋をピンと伸ばしている。


「休日にわざわざ呼び出して、すみませんね。それに、このような立派なお店に……」


 明日香は無表情のまま、どこか落ち着かない様子でカウンターを見回した。彼女の視線が、美しく並べられた和食器や職人の無駄のない動きを捉えている。


「気にするな。特命担当室での一連の作業が片付いた。その労いだ。今日は業務の話はしない。ただ、美味いものを食う時間だ」


 真二が板前に目配せすると、最初の品が運ばれてきた。

 炙った金目鯛に、すりおろしたカラスミを散らした一品。見た目にも鮮やかで、食欲をそそる香りが漂う。


「遠慮せずに食べてくれ」


 真二の言葉に、明日香は箸を取り、「いただきます」と小さく呟いてから金目鯛を口に運んだ。


 咀嚼した瞬間。

 明日香の冷徹な表情に、ふわりと柔らかな波紋が広がった。美味しいものを前にした時の彼女特有の、年相応のあどけない笑みがこぼれる。


「……っ、美味しい……」


 誰に聞かせるでもない、心底からの感嘆の吐息。


 真二はその顔を横目で見ながら、冷酒を一口含んだ。


「香ばしさと脂の甘みが絶妙だろう。ここは、素材に余計な手は加えないが、一番美味い瞬間を逃さない」


 真二の声に、明日香は小さく瞬きをして、居住まいを正した。しかし、一度緩んだ頬はすぐには戻らず、声も普段より一段高くなっていた。


「はい。……火入れのタイミングが完璧です。それに、カラスミの塩気が魚の甘みを最大限に引き出しています」

「そう硬くなるな。誰も報告書など求めていない」


 真二の言葉に、明日香は少しだけ恥ずかしそうに俯き、残りの金目鯛を口に運んだ。


 その後も、松茸の土瓶蒸し、伊勢海老の洗い、和牛の炭火焼きと、絶品の料理が続く。


 松茸の土瓶蒸しは、お猪口に注いだ瞬間に秋の森を思わせる芳醇な香りが広がり、澄み切った一番出汁が五臓六腑に染み渡る。伊勢海老の洗いは、氷でキュッと締められた身が弾けるような食感を生み出し、濃厚な甘みが舌の上に残った。メインの和牛の炭火焼きは、備長炭の遠赤外線でじっくりと火を入れられ、表面は香ばしく、中は美しいロゼ色に仕上がっている。添えられた本わさびと粗塩が、肉本来の旨味を極限まで引き出していた。


 そのたびに明日香は無表情を装おうとしながらも、一口食べるごとに至福の表情を隠しきれずにいた。美味しいものを味わう喜びに、彼女の周囲だけ空気が少しだけ柔らかくなっている。その可愛らしいギャップに、真二は小さく息を吐いて口角を上げた。


 空になった小鉢が下げられた後、明日香が改まった様子で真二を見据えた。


「室長。佐々木主任の件が片付き、特命担当室の本来の役割は終了しました。私は来週から、元の部署に戻るのでしょうか」


 その声には、微かな、しかし確かな不安が滲んでいた。


 真二は冷酒のグラスをカウンターに置き、真っ直ぐに明日香の瞳を見据えた。


「元の部署に戻って、また無能な上司の尻拭いをするつもりか?」

「……いいえ。ですが、私に与えられる次の任務がなければ」

「任務ならある」


 真二の低い声に、明日香は背筋を伸ばした。グラスを持つ手が微かに止まる。


「神宮寺グループは今、大きな過渡期を迎える。外部のファンドが本格的に動き出し、内部の権力闘争も激化するだろう。これまでのような個人的な復讐とは次元の違う、巨大な盤面での戦いになる。俺は、この組織の腐敗を根本から利用し、すべてを再編する」


 真二は明日香の目を見つめ返した。


「これまで以上に泥臭く、複雑な実務と情報処理が必要になる。大西、お前の実務能力は、俺の計画に不可欠だ。……右腕として、ついてこられるか」


 明日香の瞳の奥で、静かな、しかし強烈な炎が灯った。


「私が、室長の期待を裏切ったことが一度でもありますか」


 抑揚のない、しかし一切の迷いがない声。彼女の視線は、一切の揺らぎなく真二を捉え続けている。


「ないな」


 真二は短く答え、板前に会計の合図を送った。


 店を出ると、夜風が少し冷たかった。

 並んで歩く明日香の横顔は、先ほどまでの無防備な笑顔は消え、すでに有能な右腕としての引き締まった表情に戻っていた。しかし、真二の少し後ろを歩くその足取りは、どこか軽やかだった。


「明日香」


 不意に名前で呼ばれ、彼女の肩がビクッと跳ねた。


「はい」

「今夜の食事は、経費では落ちない。俺の個人的な奢りだ」

「……承知いたしました」


 街灯の光に照らされた彼女の耳が、ほんの少しだけ赤く染まっているのを、真二は見逃さなかった。


 真二は夜の街を見つめながら、静かに息を吐いた。

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