第38話 エレノアの告白
土曜日の午後10時。六本木交差点の喧騒から少し離れた、雑居ビルの地下深く。
重厚なオーク材の扉の奥にある会員制のシガーバーは、煙草と古い革の匂いが染み付いた、ひどく排他的で心地よい静寂に包まれていた。
壁一面に並ぶ琥珀色のボトルが、薄暗い間接照明を鈍く反射している。週末の夜であっても、この店に集うのは限られた少数の常連客のみであり、彼らは皆、自分たちのテリトリーを守るように声を潜めてグラスを傾けていた。
カウンター席の最も奥まった場所で、ルシア・カルヴァーリョはダークラムのグラスを気怠げに弄んでいた。彼女のシャープなピクシーカットが、微かな光を捉えて艶やかに光る。体のラインに沿った黒いシルクのシャツは、胸元のボタンが大胆に開けられており、彼女のエキゾチックな肌と華奢な鎖骨を惜しげもなく晒していた。
「で? 復讐の炎で対象を焼き尽くした気分はどう? 佐々木翔太は自己破産まっしぐら、あの女も地獄の底。完璧なゲームだったわね」
ルシアは長い指に挟んだ細身のシガーをくゆらせながら、隣に座る男に視線を向けた。
佐野真二は、シングルモルトのスコッチが入ったロックグラスを見つめたまま、微かに口角を上げた。仕立ての良いネイビースーツはネクタイが外され、第一ボタンが開けられている。その姿には、特命担当室で見せるような研ぎ澄まされた刃のような緊張感はなく、どこか深い海の底に沈んでいるような静けさがあった。
「ゲームではない。ただの清算だ。それに、お前の情報収集能力がなければ、あの速度で首を絞めることはできなかった。これは今回の追加報酬分だ」
真二は内ポケットからスマートフォンのような薄いハードウェアウォレットを取り出し、カウンターの大理石の上に滑らせた。ルシアが要求した非合法なハッキングに対する、足のつかない仮想通貨での支払いだ。
ルシアはそれには触れず、面白そうに目を細めて真二の横顔を覗き込んだ。
「手際がいいこと。神宮寺グループの役員たちも、まさか自分たちの足元で、一介の社員がこんな見事な爆弾を起爆させたなんて夢にも思ってないでしょうね。アリアの仕掛けたリークのタイミングも最高だった。不正な裏口座の存在と、社内不倫の証拠写真。あれを役員会議の真っ最中に全社員へ一斉送信するなんて、本当に悪趣味」
「彼らが自ら撒いた種が、最もふさわしい場所で芽吹いただけだ」
「相変わらず可愛げのない男ね。でも、今のあなた、すごく退屈そうな顔をしてるわ。復讐というガソリンを使い果たして、ガス欠になったビンテージカーみたい」
「否定はしない。少し、毒を抜きすぎたかもしれないな」
真二はグラスを持ち上げ、冷たい液体を喉に流し込んだ。アルコールの熱が喉を焼くが、心の中にある空洞を埋めるには至らない。翔太と麻衣を完全に破滅させた瞬間、確かな達成感はあった。だが、その後に残ったのは、目的を一時的に失った凪のような静寂だけだった。
「気をつけなさい。目的を失った男の目は、暗闇でとても目立つ。セレナ・デイヴィスやアリア・ローランみたいな肉食獣が、その隙を狙ってあなたの首元に食らいつこうと狙ってるわよ。……もちろん、私も含めてね」
ルシアは身を乗り出し、真二の顔にシガーの甘い煙をふわりと吹きかけた。彼女の挑発的な体温と、スパイシーな香水が鼻腔をくすぐる。
「ご忠告痛み入る。だが、俺は誰の飼い犬にもなるつもりはない」
「知ってるわ。だから面白いんじゃない」
ルシアは小さく笑い、ラムを飲み干した。
「でも、あなたにはもう、逃げられない首輪が付いているんじゃないかしら。あのお姫様が、あなたを手放すとは思えないけど」
真二は何も答えず、ただ静かにグラスの氷を揺らした。ルシアの吐き出した紫煙が、二人の間の空間でゆっくりと形を変え、やがて換気扇に吸い込まれて消えていった。
★★★★★★★★★★★
翌日の日曜日、午後8時。
エレノア・スペンサーのタワーマンションの前に到着した真二は、エントランスのセキュリティを抜け、専用エレベーターに乗り込んだ。
ここ数ヶ月、特命担当室の室長として、あるいは彼女のダミーの婚約者として、この場所には何度も足を運んでいる。しかし、復讐という大きな目的を一つ終えた今、このタワーマンションの最上階に向かう足取りには、以前とは違う種類の奇妙な重さがあった。
暗証番号を入力して重厚なドアを開けると、微かなフローラル系のルームフレグランスの香りが迎えてくれた。
広いリビングでは、間接照明の柔らかな光の中、エレノアがソファに腰を下ろしていた。彼女の膝の上では、茶トラの子猫のレオが丸くなり、規則正しい寝息を立てている。
エレノアは休日のリラックスした装い――上質なグレーのカシミアのニットに、細身の黒いパンツ姿だった。しかし、その背筋はいつも通りピンと伸び、どこか張り詰めたような空気を纏っていた。
「……お帰りなさい」
真二の足音に気づいたエレノアが、レオを起こさないように静かに顔を上げた。
「遅くなった」
真二はジャケットを脱ぎ、ソファの対面にある一人掛けのチェアに腰を下ろした。
「昨夜は、ルシア・カルヴァーリョと会っていたそうですね。大西から報告がありました」
エレノアのブルーグレーの瞳が、真二を真っ直ぐに射抜く。声のトーンは平坦だったが、その奥に微かな揺らぎがあるのを真二は見逃さなかった。
「彼女には翔太の一件で大きく動いてもらったからな。情報ルートの秘匿と、今後のためのパイプ維持を兼ねての席だ」
「……そうですか」
エレノアは短く答え、視線を膝の上のレオに落とした。白い指先が、レオの柔らかな背中をゆっくりと撫でている。
二人の間に、冷たく重い沈黙が落ちた。
「エレノア」
真二が静寂を破った。
「武藤常務の派閥は、翔太の件で大きなダメージを受けた。自身の関連ファンドへの中抜きが露呈するのを恐れ、彼らは現在完全に動きを止めている。あなたが主導するD地区プロジェクトに対する社内での妨害工作も、当面は鳴りを潜めるだろう」
「ええ。あなたと大西が構築した完璧なトラップのおかげです」
「つまり、俺があなたの『盾』として機能する最大の理由は、これで一つ片付いたことになる」
真二が事実を淡々と述べた瞬間、エレノアの手がピタリと止まった。
不意に撫でるのをやめられたレオが、不満げに小さく寝返りを打つ。
「特命担当室の今後の運用だが、大西には通常業務に戻るよう指示する。俺も、あなたの直轄のままでいるよりも、一度別の部署で権限を拡大する足場を――」
「佐野」
エレノアが、真二の言葉を鋭く遮った。
彼女は膝の上のレオをそっと隣のクッションに下ろし、ゆっくりと立ち上がった。そして、真二の目の前まで歩み寄り、見下ろすように立った。
「……契約の件ですが」
エレノアの声は、微かに震えていた。
「見直しが必要なら、条件を提示してくれ。俺は――」
「破棄したいのです」
真二は言葉を切り、静かにエレノアの顔を見上げた。
彼女の透き通るような白い頬は微かに紅潮し、常に感情を押し殺してきたブルーグレーの瞳が、これまでにないほど強く、熱く揺らいでいた。
「建前としての『契約結婚』は、もう必要ありません」
エレノアは両手を強く握りしめ、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「あなたは十分に、私を守ってくれました。私のプロジェクトを、そして私自身の立場を、誰よりも完璧な形で。……もう、十分です」
「なら、俺は」
「最後まで聞きなさい」
エレノアは一歩踏み出し、真二の座るチェアの肘掛けに両手を突いた。真二の顔が、彼女の顔と数十センチの距離に近づく。彼女の纏う、清潔で冷ややかな香りが真二の鼻腔をくすぐった。
「合理的な理由など、もう探せません。社内政治も、武藤常務への対抗策も、今はどうでもいい」
エレノアは言葉を絞り出すように言った。
「あなたが別の部署に行くことも、私の手の届かない場所で誰かと会うことも。……それがどれだけ会社の利益に繋がるのだとしても、私は、耐えられない」
彼女の冷たかった手が、チェアの肘掛けから滑り落ち、真二のシャツの胸元を不器用に、しかし強い力で掴んだ。シャツの生地が限界まで引き攣り、微かな音を立てる。
「あなたが淹れるコーヒーも。あなたが作る和食も。あなたがレオを撫でるその手も。……他の誰かに向けられることなど、想像するだけで吐き気がする」
「契約という建前は捨てます。私は、あなたを手放したくない。私の側にいてほしい。ただ、それだけです」
エレノアの瞳から、一筋の涙が溢れ落ち、彼女自身の白い頬を伝って真二の手にポツリと落ちた。その雫は、驚くほど熱かった。
真二は胸ぐらを掴むエレノアの震える両手に、自分の大きな手を重ねた。
冷たかった彼女の指先が、今は火のように熱を帯びている。
「……随分と、一方的で身勝手な要求だな」
真二は低く静かな声で言った。
エレノアは息を呑み、怯えたように目を伏せようとした。しかし、真二は彼女の手を掴んだまま、ゆっくりと立ち上がった。身長差により、今度は真二が彼女を見下ろす形になる。
「だが」
真二は空いた片手で、エレノアの頬に残る涙の痕を親指で静かに拭った。
「その要求を呑まないと言った覚えはない」
エレノアの瞳が、驚きに見開かれる。
真二は一切の感情を隠すことなく、深く暗い、しかし確かな熱を帯びた瞳で彼女を見つめ返した。
「契約は破棄だ。ここからは、俺の意思であなたの側にいる」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの表情から張り詰めていた糸が完全に切れ、彼女は崩れ落ちるように真二の胸に顔を埋めた。
真二は彼女の華奢な背中に腕を回し、その不器用で愛おしい熱を、静かに、そして力強く抱きとめた。




