第37話 真二の虚無感
金曜日の午後3時。神宮寺グループ本社の特命担当室は、いつにも増して深い静寂に包まれていた。
先週までこの部屋を満たしていた、佐々木翔太と結城麻衣を社会的に抹殺するための、張り詰めたような熱はもうない。翔太の懲戒解雇と多額の損害賠償、そして麻衣の完全な破滅。真二が前世から持ち越した暗く重い復讐の炎は、対象を灰も残さず焼き尽くし、静かに鎮火した。
外部の喧騒を分厚い防音扉が完全に遮断し、空調の低い駆動音だけが単調に響いている。本来なら役員専用の応接室として作られたこの部屋は、今や目的を果たし、主を失った戦場跡のような空虚さを漂わせていた。
革張りのソファに深く身を沈め、佐野真二は手元のタブレットに視線を落としていた。
画面には、セレナのファンドの動向や、暗号資産のチャートが表示されている。赤と緑の折れ線が入り乱れ、数字は彼が想定した通りに動き、次なる展開への十分すぎるほどの資金を生み出し続けている。だが、以前のようにその数字の羅列から「武器」や「弾薬」の匂いを感じ取ることはなくなっていた。ただの無機質なピクセルの集まりにしか見えない。
親指で画面をスクロールする速度が、無意識のうちに落ちていく。
「室長」
3台のモニターの青白い光に照らされた大西明日香が、タイピングの速度を落とすことなく静かに声を上げた。
「なんだ」
「本日のタスクはすべて完了しました。武藤常務の派閥の関連企業のリスト化と、経理部への監査要請のドラフトも、エレノア役員の承認待ちです。承認が下り次第、システム経由で一斉送信する準備が整っています」
「ご苦労。少し休め」
真二が短く返すと、明日香はタイピングを止め、椅子を回して真二の方を向いた。その冷たくミステリアスな切れ長の目が、真二の顔をじっと観察している。彼女の黒髪のボブが、微かな動きに合わせてさらりと揺れた。
「……何か気になることでもあるのか」
「室長の指示出しのペースが、先週比で20パーセント低下しています。また、モニターやタブレットを見つめる際の視線の滞留時間が長く、次の行動への移行に平均1.5秒の遅れが見られます」
明日香はモニターから視線を外すことなく、客観的な事実だけを提示した。
「疲労、あるいは目的達成に伴う一時的なモチベーションの低下と推測します。私の処理能力に問題があるのであれば、直ちに改善しますが」
「お前の処理能力は完璧だ。……少し、考え事をしていただけだ」
真二はタブレットをローテーブルに置き、小さく息を吐きながら背もたれに体重を預けた。
明日香の言う通りだった。
復讐が終わった。前世で自分を過労死に追いやり、すべてを搾取した者たちを地獄の底へ叩き落とした。自分の尊厳を踏みにじった代償は、一切の妥協なく、完璧な形で支払わせた。
だが、その後に訪れたのは、圧倒的な解放感や歓喜ではなかった。
ただ、果てしなく広がる白い空白。
自分を突き動かしていた強烈な憎悪という燃料が尽き、巨大なエンジンがアイドリング状態のまま、どこへ向かえばいいのかわからなくなっている。手元に残ったのは莫大な資金と、会社を動かすための人脈だけ。それらをどう使うか、明確なビジョンがすっぽりと抜け落ちていた。
「……佐野室長」
ソファの斜め前、デスクで資料の整理をしていた菊地凛が、遠慮がちに声をかけてきた。
彼女の足元に置かれたケージの中では、茶トラの子猫のレオが丸くなって小さな寝息を立てている。時折、夢でも見ているのか、ピンク色の肉球がピクピクと空を掻くように動いていた。
「どうかしましたか」
「いえ……その」
凛は不安げに瞳を揺らし、少し言い淀んだ。彼女の真っ直ぐで不器用な性質は、他人の感情の機微を敏感に察知する。真二の纏う空気が、以前のような張り詰めた冷徹なものから、どこか輪郭のぼやけた空虚なものに変わっていることに気づいているのだろう。彼女の白い指先が、持っていたクリアファイルの端をきつく握りしめている。
凛は小さく深呼吸をすると、真っ直ぐに真二を見た。
「明日の土曜日、もし……もし室長のお時間が許せば、私に半日だけ、お時間をいただけませんか」
真二は少しだけ目を細めた。
「業務の延長か?」
「い、いえ! プライベートです」
凛は慌てて首を振り、雪のように白い顔をほんのりと赤く染めた。
「あの、すごく美味しいお茶屋さんを見つけたんです。日本茶の専門店なんですけど、一人じゃ少し入りづらくて……。もし室長がよろしければ、ご一緒していただけないかと思って」
彼女の嘘は、絶望的に下手だった。
普段から節約のために手作りのお弁当を持参している彼女が、一人で入りづらいような高級な和カフェを自ら探すはずがない。
真二は、彼女の不器用で真っ直ぐな気遣いを無下にすることはできなかった。
自分に向けられたその不格好な嘘が、ひどく温かいものに感じられたからだ。
「わかった。明日の午後、空けておく」
「ほんとですか……! ありがとうございます。時間と場所、後でメッセージに送りますね」
凛はパッと顔を輝かせ、深く頭を下げた。安堵したように胸をなでおろす姿は、隠し事ができない彼女の性格そのものだった。
その隣で、明日香が再びキーボードに向かいながら「室長の心拍数が通常値に戻りつつあります」と小さく呟いたのを、真二はあえて聞こえないふりをした。
★★★★★★★★★★★
土曜日の午後1時。
真二が指定された神楽坂の駅前に到着すると、凛はすでに待ち合わせ場所の石畳の上に立っていた。初夏の眩しい日差しが、街路樹の葉を透過して路面にまだらな影を落としている。
淡いミントグリーンのサマーワンピースに、白いカーディガン。足元は歩きやすそうなローヒールのサンダルだ。派手な装飾は一切なく、ブランド物のバッグを持っているわけでもない。だが、彼女の透き通るような白い肌と艶やかな黒髪に初夏の日差しが反射し、周囲の風景から浮き上がるほどの清らかな透明感を放っている。
すれ違う人々の何人かが、思わず振り返って彼女を見ていたが、本人は全く気づいていないようだった。彼女の視線は、ただ駅の出口を熱心に探し続けている。
「待たせたか」
真二が声をかけると、凛は弾かれたように振り返り、ふわりと笑った。
「あっ、佐野室長! いえ、私も今来たところです」
少し早口になるのは、彼女が緊張している証拠だ。真二の前でプライベートの時間を過ごすことへの戸惑いが見え隠れしている。
真二は仕立ての良いネイビーのリネンシャツに薄いグレーのスラックスという、休日らしいが崩しすぎない出で立ちだった。時計も、普段のビジネス用の金属ベルトのものではなく、シンプルな革ベルトのクラシックなものに変えている。
「で、そのお茶屋というのはどこだ」
「あ、はい。こっちです。少し歩くんですけど、風情があってすごくいい場所みたいで」
凛は少し前を歩き、時折振り返りながら真二を案内した。真二は彼女の歩幅に合わせ、焦らすことなくゆったりとした足取りで続く。
メインストリートの喧騒から一本裏路地に入ると、黒塀や石畳が残る静かな空間が広がっていた。遠くの車の音もここではくぐもって聞こえ、どこかの庭先から微かに初夏の緑の香りが漂ってくる。やがて二人が辿り着いたのは、古い日本家屋を改装した、ひっそりとした佇まいの和カフェだった。木製の引き戸には、藍色の暖簾がかかっている。
店内に入ると、ほのかに香ばしいほうじ茶と、い草の香りが漂ってきた。
ガラス戸越しに手入れの行き届いた中庭が見える、窓際の落ち着いた席に通される。外の暑さが嘘のように、室内は涼やかな空気に満ちていた。
「ここは……」
「室長、最近ずっとお忙しそうだったから。こういう静かな場所なら、少しは息抜きになるかなって思って」
凛はメニューを両手で持ちながら、少し照れくさそうに言った。視線が泳ぎ、自分の気遣いがお節介ではないかと探っている。
「お前が気を遣う必要はない。俺は自分のペースで動いているだけだ」
真二は淡々と返したが、その声に棘はなかった。
二人は、冷たい抹茶と、季節の和菓子のセットを注文した。
運ばれてきたのは、薄いガラスの器に入った濃緑の抹茶と、初夏の青葉を模した美しい練り切りだ。和三盆の上品な甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
真二はガラスの器を手に取り、抹茶を一口含んだ。
深い苦味の奥に、確かな甘みと涼やかな香りが広がる。氷が唇に触れる冷たさが心地よい。特命担当室で常に飲んでいた、カフェインを摂取して神経を尖らせるためだけのブラックコーヒーとは違う。時間をかけて味わい、心を満たすための飲み物だ。
「……美味しいな」
真二がぽつりとこぼすと、凛は嬉しそうに目を細めた。
「よかったです。私、室長にはいつも助けてもらってばかりで……。だから、今日は少しでも室長に休んでもらいたくて」
凛は自分の和菓子に添えられた小さな黒文字を手に取りながら、言葉を探すように俯いた。長いまつ毛が、白い頬に淡い影を落としている。
「室長は、いつも遠くを見ていました。誰も気づかないような会社の裏側や、すごく遠い未来を見据えて、一人で重い荷物を背負っているみたいに」
彼女は顔を上げ、真二の目を真っ直ぐに見た。
その純粋で黒目がちな瞳には、真二の心の奥底にある空洞すらも見透かしているような、不思議な光があった。
「でも、その重い荷物を下ろす時が来たんじゃないですか? 佐々木さんたちのことは、もう終わりましたよね」
真二はガラスの器をテーブルに置いた。
氷が微かに溶け、カランと静かな音を立てる。
「……そうだな。一つの区切りはついた」
「だったら、これからは……もっとご自身のために時間を使ってほしいんです。室長が頑張ってきたことは、私が一番よく知っています。だから、たまにはこうして、何も考えずに立ち止まってもいいと思うんです」
前世で過労死する直前、自分が本当に欲しかったものは何だったのか。
金か、地位か、復讐の完了か。
違う。ただ、自分の努力を認めて、労ってくれる誰かの温かい言葉だったはずだ。深夜のオフィスで心臓が痙攣し、意識が途絶えようとしたあの瞬間、暗闇の中で一人きりだった自分に、「もう休んでいい」と言ってもらいたかった。
目の前の少女は、真二が最も渇望していた言葉を、何の計算もなく差し出している。
「……お前は、本当に不器用だな」
真二は短く息を吐き、口角をわずかに上げた。
冷徹な「室長」としての仮面が外れた、ただの佐野真二としての、穏やかな微笑みだった。
「えっ……」
凛は一瞬目を丸くし、そして顔を真っ赤にして俯いた。手元の黒文字を持ったまま、小さく身を縮める。
「す、すみません。私、偉そうなことを……。ただの部下なのに、出過ぎた真似をしました」
「いや。悪くない」
真二は視線を窓の外の中庭に向けた。
青々としたもみじの葉が、初夏の風に揺れてサラサラと音を立てている。木漏れ日が石灯籠の苔を優しく照らしていた。
「お前の言う通りだ。少し、ペースを落としてみるのも悪くないかもしれないな」
「はい……!」
凛は顔を上げ、花が咲いたような心からの笑顔を見せた。その笑顔は、どんな高価な宝石よりも純粋に輝いて見えた。
その笑顔を見ながら、真二は自分の中の空洞が、少しずつ確かな温度で満たされていくのを感じていた。
復讐は終わった。だが、二度目の人生はまだ終わっていない。
彼を頼り、彼のために純粋な思いを向けてくれる人間が、今は確実に存在している。自分が守るべき日常がここにあると、はっきりと実感できた。
「和菓子、もう一つ頼むか。お前の分は俺が出す」
「えっ、いいんですか? じゃあ、あの……メニューを見てからずっと、わらび餅も気になってて……」
「好きにしろ。その代わり、仕事の話は抜きだ」
「はいっ!」
静かな和カフェの片隅で、穏やかな時間が流れていく。
微かな風鈴の音と、氷が器に触れる涼やかな音だけが、二人の間を優しく満たしていた。




