第36話 クロエの嘲笑、ルシアの美酒
金曜日の午後8時。
表参道のメインストリートから一本裏に入った、閑静な路地に面した高級ラウンジのテラス席。心地よい初夏の夜風が、テーブル上に置かれた小さなキャンドルの炎を微かに揺らしていた。
佐野真二は、薄いクリスタルグラスに注がれた冷えたペリエを手に取り、無言で喉を潤した。周囲には、週末の夜を楽しむ洗練された大人たちの控えめな談笑と、遠くを走る車のエンジン音が穏やかに溶け合って満ちている。
対面に座るクロエ・ルルーシュは、数時間前に真二が買い与えたばかりの、小ぶりなパールのピアスを耳元で揺らしていた。彼女は手元のスマートフォンを食い入るように見つめ、その形の良い唇には、隠しきれない残酷な笑みが浮かんでいる。
「……ねえ、真二。これ、見た?」
クロエがテーブルの滑らかな天板越しに、スマートフォンの画面をこちらへ滑らせてきた。
画面に映し出されていたのは、神宮寺グループ本社の1階エントランスだった。西日が差し込む大理石の床の上で、数人の警備員に囲まれながら、甲高い声で泣き叫ぶ女の姿がある。
結城麻衣。
綺麗にセットされていたはずの髪を振り乱し、高級なシルクの新作ワンピースを無残に皺だらけにして、すでに社内に存在しない佐々木翔太の名前を叫び続けている。周囲を通り過ぎる社員たちが向ける、軽蔑と憐憫の入り混じった冷ややかな視線にも気づかない。ただひたすらに、自分が失った「虚栄の供給源」を取り戻そうと、床にすがりつくようにして足掻く姿。
アリア・ローランが社内のゴシップネットワークに意図的に流したであろうその動画は、すでに一部のSNSでも拡散され始めていた。
「お人形の糸が、完全にプツンって切れちゃったみたい」
クロエは楽しそうにクスクスと笑い、手元に引き寄せたノンアルコールのカクテルにストローを挿した。
「あんなに見栄張って、人の金で着飾って自分を高く見せようとしてたのに。お金っていう糸が切れた瞬間、ただの惨めな操り人形になっちゃうんだから。傑作ね」
クロエは柑橘系の香りが漂うグラスからゆっくりと一口吸い上げ、満足げに喉を鳴らした。グラスの中で透明な氷がカラリと涼やかな音を立てる。
真二はスマートフォンの画面を指で弾くように裏返し、静かに視線を外した。
「自分の足で立てない人間は、他人の歩幅に合わせるしかない」
真二の声に、昂りは一切なかった。ただの物理法則を述べるように、淡々としていた。
「歩幅を合わせてくれていた人間が消えれば、当然バランスを崩して倒れる。そして、自分の力で歩く筋力すらない者は、一度転べば二度と立ち上がることはできない。……それだけのことだ」
「冷たいのね」
クロエは頬杖をつき、上目遣いで真二を見た。
「でも、私そういうの好きよ。中途半端に優しくされるより、ずっと誠実だもの」
クロエはサファイアの石を否定された際に真二が選んだパールのピアスにそっと触れ、小さく微笑んだ。
「今日はありがとう、真二。このピアス、大切にするわ。……私のパパには、また別のものを買ってもらうことにする」
小悪魔のようにウインクをして席を立つ彼女の後ろ姿を見送りながら、真二は再びペリエのグラスを口に運んだ。グラスの底で氷が溶け、小さく澄んだ音を立てた。
★★★★★★★★★★★
日付が変わる直前。
都内の雑居ビルの一室に構えられた、ルシア・カルヴァーリョのアジト。
壁一面を覆う大型モニターの群れが放つ青白い光が、無機質な部屋を照らし出している。絶えず流れるコードの羅列と、複雑なグラフ。電子機器のファンが排熱のために唸る低い駆動音が、部屋のBGMだった。
「お疲れ様。見事な手際だったわね」
革張りのキャスターチェアを回転させ、ルシアが真二の方を向いた。彼女の手には、年代物の赤ワインのボトルと、二つの大ぶりなグラスが握られている。
「シャトー・ラトゥール。あなたが用意してくれたハッキングの成功報酬の一部で、こっそり手配しておいたのよ」
ルシアは手慣れた手つきでコルクを抜き、グラスに深いルビー色の液体を注いだ。豊潤で重厚な香りが、機材の匂いが染み付いた部屋の空気を一瞬で上書きする。
「飲むでしょ?」
差し出されたグラスを受け取り、真二は背後のモニターに目を向けた。
中央の画面に表示されているのは、佐々木翔太の個人口座と、彼が裏金のプールに使用していたダミー法人の口座の現在状況だった。どちらの残高も、無慈悲なゼロ、あるいは赤いマイナスの数字を示して点滅を繰り返している。
「武藤のトカゲの尻尾切り。会社からの損害賠償請求、一億二千万」
ルシアは自身のグラスを軽く揺らしながら、面白そうに目を細めた。
「今頃彼は、消費者金融のアプリを端から叩いて、弁護士の着手金すら工面できずに頭を抱えている頃ね。自分のプライドの源泉だった『金』と『地位』を同時に失って、どんな顔をしてるのかしら」
「……」
「乾杯しましょ、共犯者さん」
ルシアがグラスを掲げる。
真二は無言のままグラスを合わせ、微かな甲高い音を響かせた。ワインを一口含む。力強いタンニンと、土や黒果実を思わせる複雑な風味が、喉の奥に重く残った。
「極上の美酒、って顔じゃないわね」
ルシアが呆れたように肩をすくめた。
真二はグラスをデスクの端に置き、モニターに映る翔太の口座情報を冷徹な目で見つめた。そこに達成感や悦びは微塵もなかった。あるのは、ただ一つのタスクを処理したという事実の確認だけだ。
「まだ終わっていない」
真二の低い声が、部屋の空気を一段冷たくした。
「翔太はあくまで末端の集金マシーンに過ぎない。この腐敗の根源である武藤常務の首を取り、神宮寺グループのボードメンバーから引きずり下ろさなければ、エレノアの安全は確保できない」
「堅い男ねえ。今日くらいは、自分が勝者になった余韻に浸ればいいのに」
ルシアはため息をつき、ワインを深く飲み込んだ。
「まあいいわ。武藤の隠し資産の動きは、引き続き私が24時間体制で監視しておく。彼がこの損失を埋めるために不用意な資金移動をした瞬間、完璧なログを抜いてあげるわ」
「頼む」
真二は短く答え、再びモニター群へと視線を戻した。
★★★★★★★★★★★
翌日の土曜日。午後2時。
都心の外資系高級ホテル、その最上階に位置するプライベートプール併設のレストラン。
初夏の強い日差しを和らげる白いパラソルの下で、真二は氷の入ったミネラルウォーターのグラスを静かに傾けていた。プールの水面が陽光を反射し、涼しげな光の模様を天井に幾重にも描いている。時折、水しぶきの音と客たちの穏やかな笑い声が風に乗って届いた。
「佐々木翔太の解雇。そして、彼をトカゲの尻尾切りにしたことで生じた、武藤常務の派閥内での急激な求心力低下。……見事な手際だったわ、真二」
対面に座るセレナ・デイヴィスが、細いステムのシャンパングラスを指先でもてあそびながら微笑んだ。
彼女は深いスリットの入った鮮やかなオレンジのサマードレスを着こなしていた。健康的なブロンズ肌が太陽の光を浴びて艶めき、周囲の客たちの視線を否応なしに引きつけている。しかし彼女の目は、目の前の真二ただ一人に向けられていた。
「俺がやったわけではない。彼らが自ら掘った墓穴に、少しだけ入りやすくしてやっただけだ」
真二は仕立ての良いリネンのシャツの袖をわずかにまくりながら、淡々と答えた。
「謙遜は嫌いよ、って言ったはずだけど」
セレナは目元を覆っていたティアドロップ型のサングラスをゆっくりと外し、テーブルに置いた。挑戦的なアーモンドアイが真二を真っ直ぐに射抜く。彼女の身体から、甘くスパイシーな香水の香りが初夏の風に乗って漂い、プールの塩素の匂いを鮮やかに打ち消した。
「うちのファンドの動き、気づいているんでしょ?」
「神宮寺グループの株式の、市場外での断続的な買い集めだな。ダミーファンドをいくつか経由しているようだが、最終的な資金の出所はあなたのところだ」
真二が即答すると、セレナの口角がさらに深く上がった。
「ええ。アペックス社の一件で、武藤の息のかかった事業部門の不正がメディアにリークされれば、株価は一時的に必ず下落する。そこが、私たちが一気に買いに走る絶好のタイミングよ」
セレナの瞳に、狩猟者のような冷酷で熱い光が宿る。
「今回の件で、あなたの手腕はよく分かったわ。ウォール街のトッププレイヤーたちにも引けを取らない。……ねえ、真二。私と一緒に来ない?」
セレナは真二の手に、自身の熱を帯びた手をゆっくりと重ねた。長く美しい指先が、真二の無骨な手の甲をなぞる。
「神宮寺という古い檻の中で飼われているより、私がもっと広い、本当の資本の世界を見せてあげる。あなたになら、うちのファンドで最高のポジションを用意できるわ」
真二の表情は一切動かなかった。
彼は重ねられたセレナの手を乱暴に振り払うことはせず、ただ自然な動作で自身のグラスを持ち上げることで、その接触を静かに断ち切った。
「魅力的な提案だが、お断りする。俺は誰の手駒にもなるつもりはない」
持ち上げたグラスから落ちた水滴が、テーブルの表面に小さな染みを作る。
「それに、俺にはまだこの会社でやらなければならない『大掃除』が残っている。外の景色を見るのは、中のゴミをすべて処分してからでも遅くはない」
セレナは空を切った手を手元に戻し、不快感を示すどころか、喉の奥でくすくすと笑い声を上げた。
「……本当に、手強いわね」
セレナはシャンパングラスを掲げ、真二に向かって小さくウインクをした。
「でも、そこがあなたのたまらない魅力よ。焦らないわ。あなたがその大掃除を終えて、ふと上を見た時、そこに私が用意した最高の特等席があることを忘れさせないようにするだけ」
真二はミネラルウォーターを無言で飲み干した。
プールサイドに吹き抜ける風が、パラソルを小さく揺らす。盤面はまだ終わっていない。翔太と麻衣という末端の駒を排除した今、真の標的である武藤を完全に追い詰めるための最終フェーズが、静かに始まろうとしていた。




