第35話 鏡に映る醜悪
金曜日の午後6時。
神宮寺グループ本社の1階エントランスは、週末の解放感と足早に帰路につく社員たちの喧騒に包まれていた。西日が巨大なガラス窓から差し込み、磨き上げられた大理石の床に長い影の格子を落としている。ゲートを抜ける電子音や、談笑しながら歩くグループの足音が、高い天井に幾重にも反響していた。
佐野真二は、外部の法律事務所へ向かうため、菊地凛を伴ってエレベーターホールから歩み出ていた。凛の腕には、週明けに必要な契約関連の分厚いファイルがしっかりと抱えられている。
自動ドアへ向かおうとした真二の足が、ふと止まった。
エントランスの隅で、数人の警備員が一人の女を取り囲んで押し問答をしている。行き交う社員たちが足を止め、遠巻きに奇異の視線を向けていた。ひそひそと囁き合う声が周囲から漏れ聞こえてくる。
「通してよ! 彼氏が、佐野真二が上で働いてるの! 呼んできてちょうだい!」
ヒステリックな甲高い声。
真二の鼓膜にへばりついていた、前世の忌まわしい記憶を呼び覚ます声だった。
結城麻衣。
数週間前に真二が渡したブラックカードで買い漁ったはずの、今季最新のシルクのワンピースは無残な皺が寄り、肩のラインが引き攣っていた。足元のルブタンのピンヒールは片方の踵が不自然に削れ、踏み出すたびに不格好に傾いている。手入れを怠ったのか、綺麗に整えられていたはずのジェルネイルは数本が剥げ落ちていた。
髪は乱れ、化粧の下から血走った目がギラギラと周囲を威嚇している。
「室長……あの人」
凛が不安げに見上げ、真二のスーツの袖を小さく引いた。
真二は無言のまま、冷ややかな視線を麻衣に向けた。
真二の姿を認めた瞬間、麻衣の顔に狂喜の色が浮かんだ。彼女は警備員の制止を強引に振り切り、大理石の床にヒールの耳障りな音を響かせながら駆け寄ってきた。
「真二っ! 真二!」
真二の目の前で立ち止まった麻衣は、荒い息を吐きながら彼を見上げた。その瞳には、切羽詰まった焦燥と、身勝手な安堵が入り混じっていた。高級な香水の匂いと、脂汗の不快な匂いが混ざり合って真二の鼻腔を突く。
「……何の用だ。ここは部外者が立ち入る場所ではない」
真二の声は、一切の感情を排した酷薄な響きを持っていた。
「何言ってるのよ、部外者って! 私よ、麻衣よ! お願い、助けて! 翔太が、翔太が会社をクビになったの! 私のカードも使えなくなってて……電話にも出ないし、アパートの家賃も払えない! このままじゃ私……!」
麻衣は涙と鼻水で化粧をドロドロに崩しながら、真二の腕にすがりつこうと両手を伸ばした。
真二は半歩だけ後退し、その手を静かに躱す。空を切った麻衣の手が、虚しく宙を掻き、力なく垂れ下がった。
「翔太の解雇は全社通達で知っている。当然の結果だ。そして、君に渡していたカードは利用停止にした。君の浪費は、単なる交際相手が負担する範疇をとうに超えている。弁護士を通じて、不正利用分の返還と、関係解消の通知を送ったはずだが」
「そんなの払えるわけないじゃない! 私たち、恋人でしょ!? いつか結婚して私を幸せにするって、ずっと守ってくれるって言ったじゃない! 私が悪かったわ、翔太なんかと浮気して……でも、あなたなら許してくれるでしょ!? いつもみたいに、私が謝れば、また最初から……!」
真二は、氷のような微笑を浮かべた。
「君の言う通り、かつての俺なら許したかもしれないな。君の笑顔を見るためなら、這いつくばってでも金を稼いだ」
麻衣の顔に一瞬、救いの光を見たような安堵が差す。
「だが、あの佐野真二はもう死んだんだ。君と翔太が殺した」
低く、淀みなく放たれた真二の言葉が、エントランスの喧騒を切り裂いて麻衣の鼓膜を打った。
真二の瞳の奥にある、底なしの暗い淵。そこには、かつて彼女に向けられていた温かな愛情など一欠片も残っていなかった。あるのは、道端の塵を見るような完全なる無関心だけだ。
自分は完全に切り捨てられたのだと、麻衣の本能がようやく理解した。
絶望に顔を歪めた麻衣の視線が、真二の斜め後ろへ向いた。
そこに立っている菊地凛。派手な装飾は一切ないが、そこにいるだけで空気が浄化されるような、圧倒的で無垢な透明感を放つ若い女。
麻衣の顔に、どす黒い劣等感と嫉妬が這い上がった。
「……なによ、こいつ! 私を捨てて、こんな小娘に乗り換えたの!?」
麻衣の声がヒステリックに裏返った。
「あなたも結局、若い女がいいだけじゃない! 偉そうなこと言って、私を罠に嵌めて、裏でこいつと笑い合ってたわけ!? この泥棒猫!」
麻衣が発狂したように手を振り上げ、凛の頬をめがけて飛びかかろうとした。
真二が冷酷にその手首をねじり上げようと右手を動かした瞬間。
凛は、逃げなかった。
真二の背後に隠れることもなく、しっかりと足を踏ん張り、麻衣の目を真っ直ぐに見据えた。
その黒目がちな瞳には、麻衣に対する怒りも、軽蔑もなかった。
ただ、純粋な悲哀と、深い哀れみだけが静かに揺らいでいた。凛の持つ「他者の痛みを理解する力」が、麻衣の攻撃的な態度の裏にある底知れぬ空虚さと怯えを、本能的に見抜いていた。
「……違うんですか」
凛の、微かに震えるけれど、透き通った声が響いた。
「何がよ!」
「あなたは、自分の心が空っぽなのを、お金や服や、他人の愛情で埋めようとしているだけです。……全部他人のせいにして、自分を満たしてくれる人を探しているだけ」
凛は抱えていたファイルを強く胸に抱きしめ、言葉を紡いだ。
「そんな風に生きているなら……真二さんの隣でも、翔太さんの隣でも、誰の隣にいても。あなたは一生、満たされることはないと思います。……可哀想な人」
凛の言葉には、計算も悪意も一切なかった。
ただ、目の前にいる女の取り繕いようのない空虚さを、無垢な刃として真っ直ぐに突き立てたのだ。
麻衣の動きが、ピタリと止まった。
「あ……ぁ……」
麻衣は振り上げていた手を力なく下ろし、そのままその場に力なくへたり込んだ。
大理石の床に膝をつき、嗚咽を漏らすことすらできず、ただ虚ろな目で自身の削れたヒールを見つめている。プライドを粉々に砕かれ、完全に心が折れた人間の姿だった。
真二は無言のまま、近づいてきた警備員に顎でしゃくり、麻衣の排除を指示した。
「行くぞ」
真二が短く促すと、凛は「はい」と小さく頷き、真二の後を追って歩き出した。
背後から、麻衣の声はもう二度と聞こえなかった。
★★★★★★★★★★★
翌日の土曜日。午前11時。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける、表参道のけやき並木。
木漏れ日が揺れるオープンカフェのテラス席で、真二は冷たいアイスコーヒーのグラスを傾けていた。通りを走る高級車のエンジン音や、休日の買い物を楽しむ人々の話し声が、穏やかなBGMのように流れている。
向かいの席には、クロエ・ルルーシュが座っている。
白を基調とした上質なリネンのサマードレスを着こなし、頭には大きなサングラス。17歳という年齢特有の瑞々しさと、生まれ持ったハイソサエティの洗練が同居し、通りを行き交う人々の視線を否応なしに集めていた。
「……で? あの後、麻衣さんはどうなったの?」
クロエはアイスレモネードのストローを噛みながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出した。グラスの表面についた結露が、太陽の光を反射してきらきらと光っている。
「弁護士にはすでに、不正利用分の返還請求の手続きを任せている。あの様子なら実家に泣きつくしかないだろうが、親に見放されれば、翔太が抱えた莫大な損害賠償の巻き添えを食って、いずれ自己破産に追い込まれるだろうな」
真二はグラスについた水滴をペーパーナプキンで拭き取りながら、淡々と答えた。
「ふーん。あっけないわね。あんなに見栄っ張りだったのに、お金がなくなったら一瞬でペシャンコじゃない。アリアの仕掛けたリーク、最高に面白かったわ」
クロエはつまらなそうに唇を尖らせた後、運ばれてきたシトラスのタルトにフォークを入れた。
「美味しい。これ、レモンじゃないわね」
「シチリア産のベルガモットの皮を削って香りを移している。酸味よりも芳醇な香りが先に立つように計算されているな」
真二が視線を向けずにさらりと答えると、クロエは少しだけ目を丸くし、そして満足そうに微笑んだ。
「真二って、料理人もマフィアも投資家もできそうね。……ねえ、今日は私のショッピングに付き合ってくれる約束よね? 真二がパトロンになってくれるなんて、嬉しいわ」
「勘違いするな。君が俺の資金調達のルート構築に協力してくれたことへの、正当な対価だ。予算は決まっている」
「わかってるわよ。ケチね」
カフェを出た二人は、青山周辺のハイブランドのブティックをいくつか巡った。
クロエは次々と服やジュエリーを手に取っては、真二に意見を求める。
「ねえ、このサファイアのピアス、どう思う?」
ショーケースの前でクロエが耳元に青い石を当てた。
「君の瞳の色とは喧嘩するな。選ぶなら、そっちの小ぶりなパールの方だ。若さに甘えない品の良さが際立つ」
真二の的確な指摘に、クロエは鏡を覗き込み、「本当だ」と楽しそうに笑った。
買い物を終え、二人は美術館の併設された静かな庭園を歩いていた。
都市の喧騒から完全に隔絶された、手入れの行き届いた植栽の緑。柔らかな陽光が、クロエのブロンドヘアをきらきらと輝かせている。
ふと、クロエが立ち止まり、真二を見上げた。
「ねえ、真二。翔太さんと麻衣さんが片付いて、次は武藤常務……そして神宮寺グループそのものをどうにかするんでしょ?」
「そうだ」
「それが全部終わったら、真二はどうするの?」
クロエの直感的な問い。彼女の青い瞳は、無邪気さを装いながらも、真二の心の奥底を見透かそうとしていた。
真二は少しの間、無言で木々の緑を見つめた。
前世で彼を縛り付けていた鎖は、すでに半分断ち切られている。しかし、すべてを焼き尽くした後に何が残るのか、彼自身にも分かっていなかった。
「……さあな。まだ先のことは考えていない」
「嘘ばっかり」
クロエは一歩近づき、真二のシャツの胸元にそっと指先を這わせた。
「真二の目は、時々すごく空っぽになるわ。全部を壊した後の焼け野原に、自分一人だけポツンと立っているような、そんな目」
真二は動かず、彼女の瞳を見下ろした。
「退屈なら、私がその空っぽの場所、埋めてあげようか?」
小悪魔的な、しかしどこか切実な響きを帯びた声。
真二は彼女の指先をそっと掴み、ゆっくりと離した。
「子供は火遊びをするもんじゃない。火傷するぞ」
「子供扱いしないでよ。私、真二が思っているよりずっと大人よ」
クロエは不満げに頬を膨らませたが、それ以上踏み込むことはしなかった。彼女はすぐにいつもの天真爛漫な笑顔に戻り、踵を返した。
「まあいいわ。真二の『最高のショー』の続き、特等席で見せてもらうから」
弾むような足取りで歩き出すクロエの後ろ姿を、真二は静かに見つめていた。
盤面のコントロールは完璧だ。しかし、彼女のようなイレギュラーな存在が、自分の氷のように冷たい決意を時折不規則に揺さぶるのを感じていた。




