第34話 すべてを失う日
神宮寺グループ本社の、陽の光が一切差し込まない冷たいコンクリート壁に囲まれた面談室。普段は内部監査や重大なコンプライアンス違反の聴取に使われるその無機質な空間に、息苦しい沈黙が降り積もっていた。
たった数時間前まで、佐々木翔太は自分がこの会社の頂点へと続く階段を上っていると信じて疑わなかった。武藤常務という強大な後ろ盾を得て、同年代の誰よりも早く出世街道を驀進しているはずだった。
しかし今、パイプ椅子に座らされた彼の目の前には、人事部長と法務部の担当者が能面のような無表情で並んでいる。分厚いテーブルの上には、数枚の書面が整然と置かれていた。
「就業規則第64条および第65条の規定に基づき、本日付けで君を懲戒解雇処分とする」
人事部長の声はひどく事務的で、一切の感情の揺らぎを含んでいなかった。ただ業務手続きの一つをこなしているだけ、という冷徹な響きが、翔太の耳の奥で不協和音のように響く。
翔太は焦点の合わない濁った目で、目の前の書面に並ぶ文字をなぞった。活字の羅列が脳内でうまく結像しない。
「……懲戒、解雇。ちょっと待ってください。これは武藤常務の指示で……俺は会社のために、利益を追求しただけで……」
「武藤常務からは、君のような背任行為を行った社員とは一切関わりがないとの言質をすでに得ている」
すがるような翔太の言葉を、法務の担当者が氷のような声で一刀両断した。
「常務は、君が報告を怠り、自身の私腹を肥やすために会社を騙したと激怒しておられたよ。当然だろう」
「そんな……! 俺は常務のために、裏金を……!」
「君が独断でアペックス社と結んだ不当な契約により、会社が被る損害は甚大だ」
法務担当者は翔太の弁解を完全に遮り、手元の資料を一枚めくった。
「違約金、および関連会社を経由して着服した資金の返還請求。総額で一億二千万円。全額、君個人に賠償してもらう」
「一億……ふざけるな! 俺の口座にはそんな金……!」
翔太は弾かれたように立ち上がろうとしたが、膝に力が全く入らず、そのままパイプ椅子に無様に崩れ落ちた。椅子の脚が床を擦り、嫌な音を立てる。
裏口座にプールしていたはずの金は、ルシアのハッキング調査が示していた通り、その大部分が武藤常務の関連ファンドへ自動的に吸い上げられていた。今の翔太の手元に残っているのは、麻衣への見栄のために使った残りの端金だけで、賠償額には到底届かない。自分が武藤常務の懐刀だと思い上がっていたのは自分だけで、最初からただの集金マシーンとして、切り捨てられる前提で使われていただけだったのだ。
幹部候補という甘い言葉に踊らされ、会社の正規のルールを平気で踏み躙ってきた代償。彼が有能だと思っていた自分の力は、単に真二や明日香に実務を押し付け、常務の権威を笠に着ていただけで、彼自身の足元には何も積み上がっていなかった。
「弁済計画については、後日我々の代理人弁護士を通じて連絡する。私物はすでに段ボールにまとめてある。警備員に同行させ、速やかに退館したまえ」
面談室のドアが開き、屈強な警備員が2名、無言で入ってきた。
翔太は両脇を抱えられるようにして、半ば引きずられるように立ち上がらされた。
「離せ……俺は、俺はこんなところで終わる人間じゃない……! 俺は幹部候補なんだぞ! 武藤常務に電話させろ!」
廊下に出た翔太が掠れた声で叫んだが、その声は虚しく壁に反響するだけだった。
つい先日まで、自分はこの廊下を我が物顔で歩いていた。すれ違う社員たちは皆、自分に道を譲り、愛想笑いを浮かべていた。だが今はどうだ。遠巻きに見ていた社員たちは一斉に目を逸らしている。かつては彼に媚びへつらっていた同期も、彼を「敏腕主任」とおだてていた部下たちも、今はただ汚物を見るような、あるいは厄介事に関わりたくないという明確な拒絶の目で彼を見送っていた。
誰一人として、彼を助けようとする者はいなかった。
翔太がこれまで利用し、見下し、踏み台にしてきた人間たちの冷ややかな視線が、彼の背中に突き刺さる。彼は自分が今まで立っていた場所が、虚栄という極めて脆い足場の上だったことを、完全に崩落した今になって初めて理解した。
★★★★★★★★★★★
同時刻。表参道の高級カフェ、緑に囲まれたテラス席。
結城麻衣は、大理石の床に転がった自身のスマートフォンを、まるで信じられない恐ろしい生き物でも見るかのように見下ろしていた。
先ほどまで、彼女はこのお気に入りの特等席で、限定の季節のフルーツタルトの写真を撮り、SNSにアップする優雅な午後を満喫していた。しかし、たった数秒前に画面に表示された通知が、彼女の完璧な世界を粉々に打ち砕いていた。
『カード利用停止のお知らせ』
そして、それに続いて流れてきたネットニュースのゴシップ記事。
『神宮寺グループ若手エースの裏の顔。関連企業を使った数千万のキックバック疑惑。そして、裏口座の金で囲っていた愛人は――親友の元妻』
麻衣は震える指でスマートフォンを拾い上げ、画面を何度もスクロールした。
そこには、目線こそ隠されているものの、服装や背格好から間違いなく自分と翔太だとわかる二人が、ホテルに入っていく後ろ姿の写真が掲載されていた。記事はすでにSNSで爆発的な勢いで拡散され、コメント欄には無数の非難と嘲笑が書き込まれている。
「嘘、嘘よ……なんでこんな……」
急速に冷えていく手先とは対照的に、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
何かの間違いだ。真二が渡してくれた、あの限度額のない魔法のブラックカード。あれが急に使えなくなるなんてありえない。真二に言えば、すぐに解決してくれるはずだ。この悪質な記事のことも、彼ならどうにかしてくれる。
麻衣はパニックに陥りながら、すぐさま真二の番号をタップした。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
無機質なアナウンスが耳の奥に響く。
「なんで……どうしてよ!」
嫌な予感が、冷たい蛇のように背筋を這い上がった。真二が電話を解約した? いや、そんなはずはない。あの男は私に完全に惚れ込んでいるはずだ。私が何をしても許してくれる、都合のいい男だったはずだ。つい先日だって、私のためにあのカードを差し出したじゃないか。
麻衣は祈るような気持ちで、今度は翔太の番号をタップした。
数回の長いコールの後、電話は繋がった。
『……なんだよ』
「翔太君! よかった、真二のカードが急に使えなくなって、電話も繋がらないの! それに変な記事がネットに出てて……ねぇ、どういうこと……」
『カード? 記事? ふざけんな! お前のその頭の中には自分のことしかないのか!』
電話越しに、翔太の異様な怒声が鼓膜を打った。普段の余裕ぶった声とは違う、獣の咆哮のような絶望の響きだった。
「え……翔太君?」
『終わったんだよ! 会社をクビになった! 一億の借金だ! 俺たちが会ってたことも、裏金作ってたことも、全部真二の野郎に筒抜けだったんだよ! あいつはずっと俺たちをハメるタイミングを計ってたんだ! もう二度と俺に連絡してくるな! この疫病神が!』
通話が一方的に叩き切られた。
「……えっ?」
麻衣はスマートフォンを持ったまま、凍りついた。
周囲のテラス席に座っている客たちが、ヒソヒソと声を潜めてスマートフォンを覗き込み、チラリとこちらへ視線を向けているような気がした。誰も彼もが、ゴシップ記事の『強欲な愛人』がここにいると気づき始めている。被害妄想にも似た感覚が、麻衣の肌を粟立たせた。
麻衣はテーブルに千円札を数枚乱暴に投げ出すと、逃げるようにカフェを飛び出した。
夏の強い西日が彼女の視界を白く飛ばし、アスファルトの熱気が彼女の息を詰まらせる。行き交う人々が彼女の肩にぶつかり、舌打ちをして通り過ぎていく。
自分が着ている数十万円のワンピースも、腕にかけている新作のバッグも、突然、他人のもののようにひどく重く感じられた。
帰る家はない。真二と住んでいたアパートは引き払われている。頼みの綱だった翔太も破滅した。実家とは縁を切るようにして家を出てきたため、今さら頼れるはずもない。自分の手元にあるのは、見栄のために買ったブランド品の山と、真二に完全に遊ばれ、愛想を尽かされたという取り返しのつかない現実だけ。
麻衣は足元がふらつき、表参道の人混みの脇で、力なくその場にへたり込んだ。高価なハイヒールのアスファルトに擦れる乾いた音が、人波に飲み込まれて消えた。
★★★★★★★★★★★
午後3時。
神宮寺グループ本社の特命担当室。部屋の奥、エレノアの配慮で目隠しのパーティションが立てられた一角から、高く澄んだ鳴き声が上がった。
外部で起きている熾烈な人間模様や絶望など一切存在しないかのように、この部屋はどこまでも穏やかで静謐な空気に包まれていた。
「……にゃあー」
菊地凛が、小さなスティック状のパッケージを手にフローリングの床にしゃがみ込んでいる。
「レオちゃん、おやつですよー。今日はお利口にしてましたからね」
凛がパッケージの封を切った瞬間、濃厚な魚と出汁の香りがふわりと漂った。
ケージの中で上質なカシミアのブランケットに丸まっていた茶トラの子猫、レオが、その匂いに弾かれたように飛び出してきた。
「ミャッ! ミャウッ!」
短い手足をばたつかせ、フローリングのワックスでツルッと滑りながら、凛の足元に転がり込んでくる。
「ふふっ、そんなに急がなくても逃げませんよ」
凛がスティックの先端を少しだけ押し出し、レオの鼻先に近づける。
レオは小さな前足で凛の手首をガシッとホールドし、一心不乱にペロペロと舐め始めた。ピンク色のザラザラとした舌が高速で動き、美味しさに夢中になっているのか、ピンと尖った耳がピコピコと前後に動いている。
「可愛い……本当にちゅーるが好きなんですね」
凛は目を細め、空いている手でレオの柔らかな背中を優しく撫でた。レオは喉をゴロゴロと鳴らしながら、スティックから目を離すことなく必死に舐め続けている。
革張りのソファに深く腰掛け、タブレットで暗号資産のチャートを確認していた佐野真二は、その様子を静かに見つめていた。
「あまり与えすぎるな。夕飯のミルクを飲まなくなる」
「はい。今日はこれで半分だけにしておきますね」
凛がスティックをそっと遠ざけようとすると、レオは「ミャーッ!」と不満げな抗議の声を上げ、前足のホールドにさらに力を込めてしがみついた。その愛らしい執着心に、真二の口角がわずかに上がる。
「室長」
3台のモニターから視線を外さず、大西明日香が抑揚のない声を上げた。
「先ほど、人事部より全社通達が出ました。対象の佐々木翔太、本日午後2時をもって懲戒解雇処分。社内システムへのアクセス権限、および入退室IDはすべて完全に無効化されました」
「……そうか」
真二はタブレットをローテーブルに置き、コーヒーカップを手に取った。
「会社側からの損害賠償請求は一億二千万円。武藤常務の関連ファンドはすでに資金をオフショアに移動させており、佐々木個人の資産では到底賄えない額です。意図的な不正による損害賠償は免責されない可能性が高いため、自己破産の手続きを取ることも難しいでしょう」
明日香の報告は、極めて事務的で一切の感情を交えていない。ただ事実の羅列だけが、静かな部屋に落ちていく。
「結城麻衣の動向は」
「アリア・ローランからの報告によれば、彼女が使用していたダミー会社のブラックカードの利用停止処理が完了しました。先ほど、表参道のカフェで記事と通知を見てパニックに陥り、店を飛び出す様子が確認されています。現在、彼女名義の居住先や実質的な資産は存在しません。実家との関係も悪化しており、連絡が取れていないとのことです」
真二はブラックコーヒーを一口飲み、静かに息を吐いた。
胸の中にあるのは、勝利の喜びでも、復讐を成し遂げた高揚感でもなかった。
ただ、長年背負い続けてきた泥のように重い負債を、ようやく帳簿から消し去った時のような、ひどく冷たくて静かな虚無感だけだった。
前世の深夜のオフィス。心臓を鷲掴みにされるような激痛の中で、薄れゆく意識の端に浮かんでいたのは、自分を裏切って笑い合う彼らの姿だった。あの日から今日まで、自分を突き動かしてきた真っ黒な憎悪の炎が、彼らの社会的な死をもってフッと温度を下げ、あとに冷たい灰だけが残ったのがわかる。
前世で、自分からすべてを奪い、過労死の淵に追い込んだ二人の人間。
「室長。……これで、よかったんですか」
明日香が、タイピングの手を止めて真二の方を振り返った。
彼女の涼しげな目元には、ほんのわずかな、しかし確かな気遣いの色が浮かんでいた。
真二はカップをソーサーに戻し、足元で凛に甘えているレオに視線を向けた。
「俺は、あるべき場所にゴミを捨てただけだ。それ以上でも、以下でもない」
真二の低く落ち着いた声は、特命担当室の静かな空気に吸い込まれていった。
「次のフェーズへ移行する。武藤常務のファンドと、その後ろにいる本丸への切り崩しだ。セレナとルシアに連絡を取れ」
「承知しました」
明日香は短く答え、再びモニターへと向き直った。
「ああっ、レオちゃん、それは私の指です! ご飯じゃありませんよ!」
凛の困ったような、それでいて楽しげな声が響く。
真二は深くソファに身を沈め、目を閉じた。




