第33話 アリアのショータイム
役員会議室の重厚なマホガニーの扉が背後で閉まった瞬間、佐々木翔太の膝から力が抜け、彼は分厚い絨毯の上に無様に這いつくばった。
喉の奥からヒュー、ヒューと掠れた音だけが漏れる。仕立ての良かったネイビースーツは脂汗とシワにまみれ、朝には完璧にセットされていた髪は見る影もなく乱れていた。
数分前まで自分の絶対的な後ろ盾であったはずの武藤常務からの、切り捨てるような冷酷な視線。そして、エレノア・スペンサーと佐野真二によって突きつけられた、言い逃れのしようがない裏口座の証拠。
「……あ、ああ……」
這うようにして立ち上がり、壁に手をつきながらふらつく足取りでエレベーターホールへと向かう。頭の中は白く濁り、これからどうやって弁明を組み立てるかという思考すらも完全に麻痺していた。とにかく、自分のデスクに戻り、アペックス社に連絡を取って証拠隠滅の指示を出さなければ。
しかし、営業部のフロアに足を踏み入れた瞬間、翔太は強烈な違和感に足を止めた。
フロアの空気が、異常だった。
キーボードを叩く音も、電話の話し声も、一切ない。数十人の社員たちが一斉にスマートフォンやPCのモニターを見つめ、そして、一様にこちらへ冷ややかな視線を向けていた。
「な、なんだよ……」
その時、翔太のポケットの中でスマートフォンが狂ったように振動を始めた。
震える手で画面を見ると、メッセージアプリに社内の同期たちからの通知が滝のように流れ込んでいる。
『お前、何やったんだよ!』
『会社に報道陣が来てるぞ。最低だな』
『俺たちの部署にも飛び火してるんだけど。どう落とし前つける気だ?』
一番上に表示されたURLを、タップした。
表示されたのは、国内で最も影響力のある経済系ゴシップメディアのWeb版トップ記事だった。
『名門・神宮寺グループの若きエース、数千万の裏金工作と底なしの泥沼略奪愛』
見出しの下には、ホテルのラウンジで女と腕を組んで歩く翔太の写真がデカデカと掲載されていた。目元に薄いモザイクがかけられているが、着ているスーツや時計、そして何よりその横柄な歩き方で、社内の人間なら一目で彼だとわかる。
翔太は震える指で画面を下にスクロールした。そこには、目を背けたくなるような事実が、扇情的な言葉とともに並んでいた。
『将来を嘱望された若手エースの裏の顔。親友を欺き、その婚約者を寝取る卑劣な手口』
『独断で進められた新興企業との不透明な契約と、ペーパーカンパニーを経由した巧妙なキックバック』
『不正な資金は、逢瀬のための高級ホテル代や、女への貢ぎ物へと消えていった』
具体的な数字、日付、さらには黒塗りが施された高級レストランの領収書画像までが、エンターテインメントとして消費しやすいよう完璧な構成で配置されている。記事は、翔太の人間性を糾弾する言葉で埋め尽くされていた。
「ちが……違う……!」
翔太が叫んだ瞬間、フロアの奥から人事部とコンプライアンス委員会の人間が数名、重い足取りでこちらへ向かってくるのが見えた。
★★★★★★★★★★★
同じ頃。銀座の高級カフェのテラス席で、結城麻衣は優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいた。
テーブルの横には、先ほど購入したばかりの海外ハイブランドの紙袋がいくつも並んでいる。翔太から渡された、限度額のない黒いクレジットカード。それが麻衣の虚栄心を限界まで膨張させていた。
「やっぱり、持つべきものは出世する男よね」
美しく盛り付けられたマカロンを口に運びながら、麻衣はスマートフォンを取り出した。
SNSを開くと、何人かの友人から異常な数のメッセージが届いている。怪訝に思いながらトークルームを開くと、そこには一つの記事のリンクが貼られていた。
『これ、麻衣じゃない!? どういうこと!?』
『婚約者の真二君じゃなくて、同僚の男って……これ、やばくない?』
画面に表示されたゴシップ記事のサムネイルが目に入った瞬間、麻衣は息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなる。
モザイク越しでもはっきりとわかる、自分の顔。お気に入りのワンピース。
そして、『搾取した裏金で女に貢ぐ』という大きな見出し。
「嘘……」
手が震え、スマートフォンがテーブルに落ちて甲高い音を立てた。
周囲の客が何事かと視線を向ける。麻衣は呼吸を荒げながら、震える手で再びスマートフォンを拾い上げ、翔太の番号に発信した。しかし、何度かけても無機質なコール音が続くばかりだ。
代わりに、スマートフォンの画面上部に一通のシステム通知がポップアップした。
『カード利用停止のお知らせ』
麻衣が持っていた黒いカード。それは真二が彼女に渡し、泳がせるためだけに裏の資金から一時的に引き落としを設定していたものだ。それが今、完全に凍結された。
足元に置かれたブランド品の袋。支払われていないマンションの家賃。そして、日本中に晒された「裏金で着飾る裏切りの女」という消えない烙印。
麻衣は顔を覆い、テラス席で人目も憚らずにしゃがみ込んだ。
★★★★★★★★★★★
特命担当室の防音扉の奥には、変わらない静寂があった。
「最高のショーだったでしょう?」
スピーカーフォンから聞こえるアリア・ローランの声には、自分の作り上げた作品に対する絶対的な自信と、残酷なほどの歓喜が満ちていた。
「ただの社内不祥事なんて、世間は三日で忘れるわ。でも、『友人を裏切り、他人の金で着飾った愚かな男女』という物語に仕立て上げれば、大衆は正義感という名の娯楽で彼らを死ぬまで叩き続ける。私のプロデュース、満足してくれたかしら」
佐野真二は革張りのソファに深く腰を沈め、手元のタブレットで炎上し続けるSNSのタイムラインを無表情にスクロールしていた。
「完璧です。アリア、あなたの仕事には常に敬意を払いますよ」
「ふふっ、嬉しいわ」
通話が切れると同時に、奥のデスクで3台のモニターを監視していた大西明日香が、カタ、とタイピングの手を止めた。
「室長。メディアの報道を受け、武藤常務の派閥に関連する複数のダミー口座について、監査部が正式に凍結手続きに入りました。また、人事部および法務部が緊急対応チームを立ち上げ、佐々木主任への聴取を開始する動きを見せています」
機械のように淡々とした報告。真二は小さく頷き、タブレットをテーブルに置いた。
足元では、子猫のレオが麻ロープの爪とぎにじゃれつき、チリチリと鈴の音を立てている。
「ご苦労。これで盤上のゴミは片付いた。あとは、彼らが自分の犯した罪の代償をどう清算するか見届けるだけだ」
真二の瞳の奥で、前世から燻り続けていたどす黒い炎が、静かに、しかし確実に一つの区切りを迎えようとしていた。
★★★★★★★★★★★
週末の土曜日。夕暮れ時の神楽坂は、石畳に反射するオレンジ色の光と、料亭から漏れ出す出汁の香りに包まれていた。
細い路地の奥。一見さんお断りの看板がひっそりと掲げられた、古びた、しかし隅々まで手入れの行き届いた洋食屋の前に、真二は立っていた。
「お待たせしました」
背後からの静かな声に振り返る。
エレノア・スペンサーだった。平日の隙のないパンツスーツとは異なり、今日は柔らかいネイビーのシルクのワンピースに、薄手のカシミアのカーディガンを羽織っている。ブルーグレーの瞳が、少しだけ緊張したように伏せられていた。
「いや、俺も今来たところだ」
真二は短く答え、エレノアの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
二人が向かったのは、高級フレンチでも、夜景の見えるイタリアンでもない。真二が前世から通っていた、カウンター数席と小さなテーブルが二つしかない、老舗の洋食屋だった。
「……洋食、ですか」
小さな木製のテーブルに向かい合って座ると、エレノアは珍しそうにレトロな内装を見回した。
「以前、日本のB級グルメや大衆食に興味があると言っていたのを思い出してね。ここのオムライスとエビフライは、俺が知る限り世界一だ」
真二が言うと、エレノアは少しだけ目を丸くし、そして微かに口角を上げた。
「……私のつまらない独り言を、覚えていたのですね」
「あなたの言葉で、聞き流していいものなど一つもない」
やがて運ばれてきたのは、薄焼き卵で美しく包まれたチキンライスに、深い赤褐色のデミグラスソースがたっぷりとかかったオムライス。そして、大ぶりのエビフライだった。立ち上るバターの豊かな香りが、テーブルを包み込む。
エレノアはフォークを手に取り、少し躊躇いながらオムライスを一口食べた。
その瞬間、彼女の張り詰めていた口元が、自然とほころんだ。
「……美味しい」
誰に聞かせるわけでもない、心底からの呟き。何日も煮込まれたソースの複雑な旨味が、彼女の冷え切っていた心を内側から温めていくようだった。
真二は自分のグラスの水を飲みながら、その顔を静かに見つめていた。
「佐野」
食後の熱い紅茶を飲みながら、エレノアがふいに顔を上げた。彼女の左手の薬指には、真二が選んだエメラルドカットのダイヤモンドリングが、店の暖かな照明を反射して静かに光っている。それは、政略結婚を回避するための「ダミーの夫」という契約の証であり、同時に真二が彼女の強力な「盾」を利用するための鎖でもあった。
「なんだ」
「……すべて、終わったのですね」
「ええ。一番厄介な部分は」
「私は、あなたに救われました」
エレノアは紅茶のカップを両手で包み込み、視線を落とした。
「最初は、ただの便利な手駒だと思っていました。でも、あなたは私の想像を遥かに超え、私の前に立つすべての障害を排除してくれた。……この平穏な時間が、永遠に続けばいいのにと、少しだけ思いました」
真二はテーブルの上で、カップを包み込んでいるエレノアの手に、自分の大きな手をそっと重ねた。
氷のように冷たかった彼女の手が、今は確かな熱を持っている。
「永遠という言葉は、ビジネスには不向きです」
真二の低い声に、エレノアがハッと息を呑んで顔を上げる。しかし、真二の顔に浮かんでいたのは、いつもの冷徹な笑みではなく、静かで深い、大人の余裕に満ちた穏やかさだった。
「ですが、俺があなたのパートナーとして隣にいる限り、あなたが望む時間は続きますよ。……約束します、エレノア」
重ねられた手から伝わる確かな体温に、エレノアは小さく息を吐き、そして、誰にも見せたことのないほど美しく、柔らかな微笑みを浮かべた。




