第32話 明日香の冷たい視線
「私が指示して調査させたものです」
エレノア・スペンサーの澄んだ、しかし一切の妥協を許さない明確な言葉が、広大な役員会議室に響き渡った。
壁一面を覆う巨大なガラス窓の向こうには、初夏の眩しい陽光に照らされた東京のビル群が地平の彼方まで広がっている。しかし、円卓を囲む神宮寺グループの役員たちは、誰一人としてその美しい景色に目を向けてはいなかった。彼らの視線は、一人残らず佐々木翔太という一人の男に突き刺さっていた。つい数分前まで彼に向けていた好意的で温和な眼差しは、すでに跡形もなく消え失せている。そこに代わって浮かんでいたのは、会社の利益を食い物にしようとした不届き者に向ける、底知れぬ嫌悪と警戒心だった。
翔太の喉が、引き攣ったように上下した。
口をわずかに開け、何かを言いかけようとして、言葉にならずに掠れた息だけが漏れる。仕立ての良いスーツの襟元には脂汗が滲み、室内の強い照明を反射してテカテカと光っていた。
「……エレノア役員」
重苦しい沈黙を破ったのは、武藤常務と対立する派閥の古参役員だった。彼は手元の資料から顔を上げ、不快げに眉をひそめている。
「いくらあなたがプロジェクトの最高責任者とはいえ、一介の社員である彼にそこまでの権限を与え、海外の口座情報まで調査させるのは、少々越権行為ではないかね。我々の預かり知らないところで、特命と称して社員のプライバシーに踏み込むなど……」
「神宮寺グループの利益を著しく損なう、明白な背任行為の兆候を捉えたためです」
エレノアは一切怯むことなく、冷徹に言い放った。背筋を真っ直ぐに伸ばし、威厳に満ちたブルーグレーの瞳で円卓を見渡す。
「プロジェクトの屋台骨を揺るがす異常な資金流出。これを放置することは、役員としての善管注意義務違反に当たると判断し、特命として佐野に動かせました。そして、その懸念は事実として目の前にあります」
翔太は弾かれたように武藤常務へ視線を向けた。
「む、武藤常務! 違います、これは何かの間違いだ! 俺を妬んだ佐野が、適当なデータを作って俺を陥れようとしているんです! 信じてください!」
「証拠は、それだけではありません」
翔太の悲鳴に近い哀れな懇願を遮り、真二の斜め後ろに控えていた大西明日香が一歩前に出た。
黒いパンツスーツに身を包んだ彼女の顔には、一切の感情が浮かんでいない。手元のタブレットの画面を指先で滑らせると、会議室の壁面に設置された大型モニターの表示が瞬時に切り替わった。
「特命担当室、大西です。追加の調査報告を提出します」
抑揚のない、機械のように正確な声が会議室に響く。役員たちの視線が、明日香と巨大なモニターへと移った。
「まず、佐々木主任が起案した新興企業『アペックス』社への特別支払いの稟議。この決裁が下りた日時のタイムスタンプと、先ほどのダミー法人『ブルーオーシャン・コンサルティング』への海外送金記録のタイムラインを照合しました」
モニターに二つの折れ線グラフと、詳細な時刻のログが表示される。
アペックス社へ数千万円の支払いが実行された、わずか数時間後。アペックス社の口座から「コンサルティング名目」として、寸分違わず同額の資金がケイマン諸島に籍を置くダミー口座へと移動している軌跡が、赤くハイライトされていた。複雑な金の流れが、誰の目にも明らかな一本の線として可視化されている。
「これらは完全に連動しています。さらに」
明日香の指が再び画面を滑る。
「稟議を起案し、承認プロセスを進めた際の、社内システムのアクセスログです。接続元のIPアドレス、および使用された端末のMACアドレスを解析しました。結果、これらの操作はすべて、佐々木主任に貸与されている社用スマートフォン、および個人のノートPCから実行されたことが証明されています。『事務担当者のミス』や『第三者による不正アクセス』という主張は、物理的に成立しません」
翔太の唇がわなわなと震え、見開かれた目はモニターと明日香を激しく往復している。スーツの下で膝が小刻みに揺れ、革靴の底がカーペットを擦る嫌な音が響いた。
「ま、待て……大西、お前……! 俺の直属の部下だったくせに、いつから佐野なんかと……!」
追い詰められた翔太の口から飛び出したのは、自身の無実を証明する論理的な反論ではなく、ただの身勝手な逆恨みだった。彼の薄っぺらいプライドが、年下の女性社員に完膚なきまでに論破された事実を受け入れられずに悲鳴を上げている。
「私は現在、特命担当室の所属です。加えて」
明日香は翔太の言葉を完全に無視し、路傍の石を見るような冷ややかな視線で彼を一瞥した。
「アペックス社との基本合意書案において、法務部の正式な審査を迂回するために使用された『武藤常務の特命』という承認ルート。これに関して、武藤常務の電子決裁印が押された書類のログを解析しました」
モニターに、稟議書の末尾に押された武藤常務の決裁印が拡大表示される。
「起案者である佐々木主任の端末のキャッシュ領域から、過去の別の決裁書類の印影画像が切り取られ、今回の合意書に貼り付けられた痕跡が確認されました。解像度の差異と、画像のピクセル配置の不自然な乱れがそれを証明しています。つまり、決裁印の偽造です」
その瞬間、円卓の端に座っていた武藤常務の顔が、怒りと焦燥でどす黒く染まった。額に深いシワが刻まれ、分厚い手が強く握りしめられる。自身の派閥への延焼を恐れた彼の目に、冷酷な光が宿った。
「……佐々木君」
武藤の、地を這うような低い声が響いた。
「君は、私の名前を騙り、あろうことか印章まで偽造して、私腹を肥やしていたというのか」
翔太はビクッと肩を跳ね上がらせ、すがるように武藤を見た。
「ち、違っ……常務が、スピード重視で進めろとおっしゃったから……! 俺はただ、常務の指示通りに、プロジェクトを早く進めるために便宜を図っただけで――」
「私は『適切に、かつ迅速に』と言ったんだ! 不正をして会社の金を横領しろなどと、一言も指示していない!」
武藤は声を荒らげ、机を強く叩いた。手元のコーヒーカップが跳ね、カチャリと鋭い音を立てる。
「まさか、私が期待をかけていた若手が、ここまで卑劣な真似をしていたとは……見損なったよ。君のやったことは完全な背任行為だ。言い逃れができると思うな」
「あ……あぁ……」
頼みの綱だった武藤からの冷酷な宣告を受け、翔太の足から完全に力が抜けた。
会議用の椅子にすがりつくようにして床にへたり込み、焦点の定まらない目で足元のカーペットを見つめている。彼がこれまで必死にしがみついてきたものが、音を立てて崩れ去っていくのが、真二にははっきりとわかった。
真二は無言のまま、冷たい瞳でその無様な姿を見下ろしていた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
都心に位置する真二のサービスアパートメントの広々としたアイランドキッチンには、柔らかな暖色の照明が落ち、静かな調理の音が響いていた。
真二は白いシャツの袖を肘までまくり上げ、人工大理石のワークトップに向かっている。
少し離れたダイニングテーブルでは、菊地凛が温かいほうじ茶の入った湯呑みを両手で包み込むように持ち、ホッとした表情で座っていた。そしてキッチンのすぐ横、カウンター席には、大西明日香が背筋を伸ばして静かに座り、真二の手元をじっと見つめている。
まな板の上には、鮮やかな赤身と分厚い純白の脂身を持つ、見事な合鴨の胸肉があった。
真二は薄刃の包丁を手に取り、鴨の皮目に対して数ミリ間隔で、細かく格子状の切れ目を入れていく。力を入れず、刃の重さだけでスッと引く。脂を抜けやすくし、加熱時の焼き縮みを防ぐための丁寧な下処理だ。
火をつけていない冷たい厚手の鉄フライパンに、鴨肉を皮目を下にして置く。それから、コンロの火を極弱火に点火した。
急激に加熱すると身が硬くなる。じわじわと温度を上げていくことで、皮の下に蓄えられた上質な脂をゆっくりと引き出していくのだ。
やがて、パチパチという小さな音が鳴り始め、鴨肉から透明な脂が溶け出してきた。
真二はキッチンペーパーで余分な脂を丁寧に拭き取りながら、じっくりと時間をかけて皮を焼いていく。換気扇の低い駆動音に混じって、鴨特有の野性味のある、甘く香ばしい匂いが部屋中に立ち込めた。
皮がきつね色にカリッと焼け、十分な香ばしさが出たところで、真二は鴨肉を裏返し、身の側をほんの数十秒だけ焼く。表面の色が変わった瞬間に素早くフライパンから取り出し、あらかじめ二重にして広げておいたアルミホイルに乗せ、しっかりと包み込んだ。
「余熱で、中までゆっくりと火を通す。直接火を入れすぎると、せっかくの肉がパサつくからな」
真二が視線を向けずに短く説明すると、明日香は静かに頷いた。
真二はフライパンに残った鴨の脂をそのまま使い、筒切りにしておいた太い千住ネギを焼く。
強火で一気に焼き付けると、ネギの表面にこんがりとした焦げ目がつき、鴨の極上の旨味をその芯までたっぷりと吸い込んでいく。ジュウッという音とともに、ネギの甘い香りが弾けた。
隣のコンロでは、日高昆布と本枯節で引いた黄金色の一番出汁が小鍋で湯気を立てている。
そこに、寝かせておいた「かえし」――上質な濃口醤油、本みりん、少量の砂糖を合わせて熟成させたもの――を静かに注ぎ入れる。ふわりと、出汁と醤油の芳醇な香りが混ざり合った。真二はそこに、先ほど焼いたネギを投入する。ネギの甘みと鴨の脂が出汁に溶け出し、ツユの味が一段と深く、複雑に変化していく。
背後の大鍋で湯が激しく沸騰しているのを確認し、真二は取り寄せた生蕎麦をパラパラとほぐし入れた。
菜箸で大きく、湯の中で泳がせるように混ぜる。指定された茹で時間きっちりでザルにあけ、氷水で一気に揉み洗いをして表面のぬめりを取る。これにより、蕎麦の角が立ち、強いコシが生まれる。そして、冷えた蕎麦を再び熱湯にさっとくぐらせて芯まで温める「熱盛り」にする。
あらかじめ湯を張って温めておいた深い陶器の丼に、湯切りした蕎麦をふわりと盛り付け、熱々のツユをたっぷりと注ぐ。
アルミホイルから取り出した鴨肉は、見事なロゼ色に仕上がっていた。それを均等な厚さに切り分け、丼の上に扇状に美しく並べる。琥珀色のツユに鴨肉の淡い赤が映える。焦げ目のついたネギを傍らに添え、最後に青柚子の皮をほんの少しだけ削って、香りを散らした。
「できたぞ。鴨南蛮だ」
真二が三つの丼をカウンターに並べた。
立ち上る熱い湯気とともに、柚子の爽やかな香りと鴨の濃厚な旨味が凝縮された香りが、鼻腔を強くくすぐる。
明日香は姿勢を正し、「いただきます」と小さく呟いてから、白木の箸を手に取った。
まずはツユを一口。
それから、蕎麦を手繰り、ロゼ色に輝く鴨肉と一緒に口へと運んだ。
咀嚼した明日香の冷徹な表情がわずかに和らぎ、静かに息を吐いた。
「……美味しいです。鴨の脂の甘みと、出汁の深み、それに柚子の香りが調和しています」
抑揚の少ない彼女の感想には、確かな充実感が滲んでいた。
隣の席に移ってきた凛も、蕎麦をすすって目を丸くしている。
「本当……! お肉がすっごく柔らかくて、ツユにネギの甘さが溶け込んでて……すごく美味しいです、室長!」
真二は自分の分の蕎麦を手繰りながら、静かに二人の様子を見つめていた。
「そうか。しっかり食って休め。明日から、また少し忙しくなるぞ」
「はい。アリア・ローランからの連絡待ちですが、データの準備はすべて整っています」
明日香が居住まいを正し、報告する。
真二は窓の外、暗闇の中に瞬く東京の夜景へ視線を向けた。




