第31話 役員会議での告発
月曜日の朝。
地上40階に位置するエレノア・スペンサーのタワーマンションのリビングには、初夏の澄んだ陽光がたっぷりと降り注いでいた。分厚いガラス窓に切り取られた東京の街は、これから始まる平日の喧騒に向けて静かに動き出している。
室内の空気は、どこまでも穏やかだった。
「ミャッ……ミュー……」
リビングの隅、カシミアのブランケットが敷かれたケージの前に置かれた、木製の小さな3段ステップ。ソファに安全に上り下りできるようにと、先日エレノアが特別に取り寄せたものだ。なめらかな白木で作られており、角はすべて丁寧に丸められている。
その一段目に前足をかけ、生後一ヶ月半を過ぎた茶トラの子猫、レオが必死に格闘していた。
プルプルと震える短い後ろ足をフローリングに踏ん張り、どうにかして自分の背丈ほどある一段目をよじ登ろうとしている。耳を後ろにピタリと反らし、ピンク色の小さな鼻をヒクヒクと動かす様は、本人にとっては真剣そのものだ。爪を立てる音だけが、静かな室内にカリカリと響いている。
「……落ちてしまいそうです。手伝った方が」
淹れたての紅茶が入ったマイセンのカップを持ったまま、エレノアが心配そうに一歩前に出ようとした。その声には、普段の役員としての冷徹な響きは微塵もない。無意識に眉を寄せ、カップを持つ指先に力が入っている。
「待て。自分でやらせろ」
コーヒーカップを片手にソファに深く腰掛けていた佐野真二が、低く落ち着いた声で彼女を制した。
「ですが、まだ足元がおぼつきません。もし転げ落ちて、どこか打ってしまったら……」
「ここで甘やかしても、あいつのためにならない。落ちても怪我をしない高さだ。見守ってやれ」
真二の言葉に、エレノアは少し不満げに唇を噛んだが、それ以上は手を出さずに立ち止まった。ハラハラとした視線を、ステップの上の小さな毛玉に向け続けている。
「ミャァ……ッ!」
レオが小さく鳴き声を上げ、思い切り後ろ足を蹴り出した。前足の爪がステップの布地に引っかかり、ずるずると滑り落ちそうになりながらも、なんとか這い上がる。そして、コロンと一段目の上で丸く転がった。
すぐに体勢を立て直したレオは、自分の力で登り切ったことが誇らしいのか、ピンと尻尾を立てて「ミャウ!」と高く鳴いた。そのまま、短い足でドヤ顔のようにステップの上を練り歩く。
「……やりましたね」
エレノアの冷たいブルーグレーの瞳が、ふわりと細められる。張り詰めていた彼女の肩から力が抜け、紅茶の香りを少しだけ楽しむ余裕が生まれたようだった。
「ああ。これでまた一つ、自分でできることが増えた」
真二は残っていたコーヒーを飲み干し、静かにカップをソーサーに置いた。
膝の上に置いていたダークネイビーのジャケットを手に取り、ゆっくりと立ち上がる。その瞬間、彼の纏っていた穏やかな空気が一変し、氷のような冷たく鋭利なものへと切り替わった。
「さて、行くか」
真二の言葉に、エレノアもまた「氷の令嬢」としての完璧な仮面を被り直した。
「ええ。大掃除の時間です」
★★★★★★★★★★★
午前10時。神宮寺グループ本社、最上階の第1役員会議室。
重厚なマホガニーの円卓を囲むように、数名の役員が等間隔に座っている。室内の照明は少し落とされ、各々の手元と、壁面の巨大なモニターだけが明るく照らし出されていた。
その中には、武藤常務の姿もあった。彼は革張りの椅子に深く背中を預け、手元の資料を退屈そうに指先で弾いている。彼の目には、今日の会議など単なる形式的な報告の場に過ぎないという余裕が窺えた。
円卓の末席には、D地区プロジェクトの専任リーダーとして佐々木翔太が座っていた。
仕立ての良いスーツに身を包み、背筋を伸ばしているが、その目元には薄く隈が浮いている。金曜日の夜から、彼は生きた心地がしていなかったはずだ。資金繰りの当てが外れ、追い詰められた末にシステム上で強行した決裁。それがどう処理されたのか、週末の間ずっと気に病んでいたに違いない。
しかし、彼の顔には必死に虚勢を張った、張り付いたような笑みが浮かんでいた。手元のタブレットを操作する振りをして、しきりに周囲の役員たちの顔色を窺っている。
(大丈夫だ。あの決裁さえ通れば、アペックスから金が入る。俺は会社のために迅速に動いただけだ。結果を出せば、武藤常務が守ってくれる)
彼がそう自分に言い聞かせているのが、真二には手に取るように分かった。
真二はエレノアの斜め後ろ、壁際の補佐席に静かに座り、手元のタブレットに視線を落としていた。
「それでは、D地区プロジェクトの月例進捗報告を始めます」
エレノアの冷たく透き通る声が、会議室の重い空気を切り裂くように響いた。
「事前の共有資料の通り、基礎工事の進捗はオンスケジュール。テナント誘致に関しても、アルカディアをはじめとする主要ブランドとの基本合意が順次完了しつつあります。……しかし、本日はその報告の前に、一つ確認しなければならない事項があります」
エレノアは視線を真っ直ぐに、円卓の末席に座る翔太へと向けた。
「佐々木主任。金曜日の19時、あなたの端末から人事および経理システムに向けて申請された、新興企業『アペックス』社への特別支払いに関する稟議について、説明を求めます」
いきなりの本題。
翔太の肩が微かに跳ね、タブレットに触れていた指がピクリと止まった。しかし、彼はすぐに立ち上がり、用意していた台本通りに口を開いた。
「はい。アペックス社との契約において、先方から週末までの支払い確約があれば、次期フェーズの資材単価を5パーセント引き下げるという打診がありました。法務部の正規ルートを通すと期限に間に合わないため、プロジェクトの総責任者である私の裁量で、暫定的に承認ルートを短縮し、起案させていただきました」
翔太は役員たちを見渡し、堂々と胸を張った。声の震えを隠すためか、少しだけ張りのある声を出している。
「すべては、当グループの利益を最大化し、コストを削減するための迅速な判断です」
数人の役員が、その言葉に小さく頷く。利益やコスト削減という言葉に弱いのは、いつの時代も変わらない。武藤常務もまた、満足げに腕を組んでいた。
「素晴らしいスピード感だ。やはり現場には彼のような決断力のある若手が必要だな。エレノア役員、少し手続きを急いだだけで、結果的に会社の利益になるのなら大目に見るべきではないかね?」
武藤の援護射撃に、翔太の顔に明確な安堵の色が浮かんだ。彼は短く頭を下げ、「ありがとうございます」と小さく口を動かした。
しかし、エレノアの表情はピクリとも動かなかった。彼女は武藤の言葉を完全に無視し、補佐席を振り返った。
「……会社の利益、ですか。佐野」
「はい」
真二は静かに立ち上がり、円卓の中央にある操作パネルに自身のタブレットを接続した。
会議室の壁面を覆う巨大なメインモニターが切り替わり、無機質な数字とグラフの羅列が映し出された。
「これは、アペックス社に対してこれまで支払われた発注履歴と、その後の資金の流れを追跡したものです」
真二の低く落ち着いた声が、静寂の会議室に響く。
「アペックス社への発注は、すべて佐々木主任の裁量で行われています。名目は多岐にわたりますが、いずれも相見積もりの形跡は形式的なものに留まり、相場を大きく上回る単価での発注が繰り返されていました。そして、同社に振り込まれた資金の約30パーセントが、即日、ケイマン諸島に籍を置く『ブルーオーシャン・コンサルティング』という実態のない法人へ送金されています」
「なっ……!」
翔太の喉から、奇妙な音が漏れた。彼は立ち上がったままの姿勢で、モニターに映し出された図表を食い入るように見つめた。
「ブルーオーシャン社の実質的なオーナーを特定するため、海外の信用情報機関と連携し、口座の開設者情報を確認しました。……名義人は、佐々木翔太。あなたですね」
真二は一切の感情を交えず、ただ事実だけを淡々と読み上げた。モニターには、ダミー法人の登記情報と、翔太個人の名前が赤くハイライトされて表示されていた。
会議室にいた役員たちの視線が一斉に翔太に突き刺さる。先程まで好意的に頷いていた者たちの顔から、サッと表情が消え失せていた。
翔太は喉を大きく鳴らし、数歩後ずさった。彼の足が会議用の椅子にぶつかり、鈍い音を立てる。
瞬きが異常な速さになり、視線が宙を泳いでいた。彼は震える手で自身の口元を覆い、何かを言いかけようとして、言葉にならずに息を吐き出す。
「ち、違う! それは捏造だ! 誰かが俺を陥れるために作った偽造データだ!」
裏返った叫び声が、会議室に響き渡った。
翔太は両手で円卓の端を強く掴み、身を乗り出すようにして真二を睨みつけた。
「佐野、お前だな! お前が俺を妬んでこんなふざけたマネを……! だいたい、ただの平社員のお前が、海外の口座情報なんて調べられるわけがないだろうが!」
「私が指示して調査させたものです」
エレノアが冷たく言い放つ。
「プロジェクトの資金が不自然に流出している兆候を捉えたため、特命で佐野に動かせました」
「馬鹿な……こんなのデタラメだ! アペックスは優良企業で、ブルーオーシャンなんて会社、俺は名前も聞いたことがない!」
翔太は必死に否定を続ける。その声は徐々にヒステリックな響きを帯び、会議室内に反響していた。
周囲の役員たちは不快そうに眉をひそめ、互いにヒソヒソと短い言葉を交わし始めている。
「常務!」
翔太はすがるような目で、武藤常務を見た。
「武藤常務、言ってやってください! アペックスの件は、元はと言えば常務が迅速に進めろとおっしゃったから……! このデータは、私と常務を貶めるための罠です!」
名指しされた武藤は、ピクリと片眉を動かした。
彼は革張りの椅子から身を乗り出し、机の上で両手を組んで翔太を鋭く見据えた。
「佐々木主任。私は確かにプロジェクトを迅速に進めろとは言った。だが、その過程で不正を働けと指示した覚えはない。このデータが事実無根であると言うなら、君自身で身の潔白を証明したまえ」
武藤の口調は冷静だった。彼はまだ、この場で完全に翔太を切り捨てる決断は下していない。真二が提示したデータがどこまで確固たる証拠なのか、そして自分の派閥にどこまで延焼する可能性があるのか。老獪な目で、目の前の盤面を見極めようとしていた。
「証明、しますよ……! こんなペラペラの資料一枚で、俺をハメられると思うな!」
翔太は血走った目で真二を指差した。
「俺は有能なんだ! 俺がこのプロジェクトを回してたんだぞ! お前みたいに裏でコソコソ嗅ぎ回るしか能のない奴に、俺の築き上げた実績が壊されてたまるか!」
会議室は、翔太の怒声と役員たちのざわめきで完全に紛糾していた。
誰もが事態の急転直下に戸惑い、口々に意見を交わしている。冷静な議論の場は、すでに崩壊していた。
真二は騒然とする室内の中で、一切の表情を変えることなく真っ直ぐに前を見据えていた。
狂乱し、無様な虚勢を張り続けるかつての親友。
だが、彼を奈落の底へ突き落とすための刃は、まだ鞘に収まったままだ。
(存分に足掻け。お前の用意したその安い言い訳を、完膚なきまでに叩き潰す瞬間は、すぐそこまで来ている)
真二はただ静かに、その時を待っていた。




