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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第30話 崩壊へのカウントダウン

 金曜日の午後7時。週末を前にした営業フロアの喧騒とは対照的に、特命担当室では張り詰めた静寂が保たれていた。


 革張りのソファに深く腰を沈め、手元のタブレットで暗号資産のチャートを確認していた佐野真二は、ふと視線を上げた。画面上では、彼が密かに運用している資金が順調に桁を増やし、次なる作戦の「弾薬」として十分な額に達している。セレナのファンドやルシアのハッキング費用を賄っても、なお余りある額だ。真二は一切の執着を見せずに画面を消灯し、テーブルの上に置いた。


 奥のデスクで、これまで途切れることなく続いていた大西明日香のタイピング音が、ピタリと止まったのだ。


「室長」


 3台の大型モニターの青白い光に照らされた明日香が、画面から一切目を離さずに声を上げた。その声は普段通り機械のように抑揚のないものだったが、言葉の端に、微かな、しかし確かな緊張感が滲んでいる。


「対象が、トラップを踏み抜きました」


 真二は無言のままゆっくりと立ち上がった。足音を立てずに明日香の背後へと歩み寄り、彼女の肩越しに中央のモニターを見下ろす。


 そこには、社内システムの決裁承認フローが複雑なツリー状に表示されていた。その最下段、たった今追加されたばかりのログが、赤くハイライトされて点滅を繰り返している。


「佐々木主任のアカウントから、新興企業『アペックス』社への特別支払いを求める稟議が起案され、現在進行形でシステム上を流れています」


 明日香の指がマウスを滑り、ログの詳細を展開していく。


「彼がクリックした『同意して起案する』のボタン。それに紐づけられていた長大な社内規約の同意事項には、私が事前に法務部のチェックを迂回して仕込んでおいた特約条項が含まれています。アペックスとの取引における損失、違約金、およびコンプライアンス違反に関する一切の責任を、専任リーダーである佐々木主任個人が負うという内容です。システム上、彼はこの条項を一言一句熟読し、自らの意志で完全に同意したことになります」

「システムの改ざん痕跡は」


 真二の低く静かな問いに、明日香は淀みなく答える。


「ルシアが組んだスクリプトを経由し、完全に不可視化しています。監査部がどれほど深くアクセスログを掘り返しても、佐々木主任自身が時間をかけて規約を読み込み、理解した上で同意ボタンを押したという完璧な記録しか出てきません」


 真二はモニターの光に照らされながら、低く息を吐いた。


 月曜日に迫った巨額の違約金支払い。首の皮一枚で繋がっている状況から逃れるため、翔太は中身も確認せずに承認ボタンに飛びついたのだ。彼が自らの有能さを誇示するためにねじ込んだ契約が、自分の手柄と裏金を守るためだけに、自ら致命的な毒を飲み干したことも知らずに。


「……ご苦労。これで、彼が武藤の庇護を盾に逃げ切る道は完全に消滅した」

「はい。さらに、この稟議は現在、武藤常務の承認待ちステータスで止まっています。常務は自身の派閥への延焼を恐れ、この案件に触れることすら避けている。月曜日の支払い期限まで、この稟議が通ることは絶対にありません」


 明日香はそこで初めて真二の方を振り向いた。常に冷徹な仮面を被っている彼女の顔に、ほんのわずかな、主君の期待に応えた忠犬のような誇らしさが覗いていた。


「室長、大西さん。お茶が入りました」


 部屋の隅にある小さなキッチンから、菊地凛がお盆に二つのマグカップを乗せて歩み寄ってきた。上質なダージリンティーの華やかな香りが、張り詰めていた特命室の空気をわずかに柔らかくする。


「ありがとう、菊地さん」


 真二がマグカップを受け取ると、凛は不安そうにモニターと真二の顔を交互に見た。彼女の大きな黒目がちな瞳が、小刻みに揺らいでいる。


「あの……佐々木主任は、これからどうなるんですか?」


 自分を密室で脅し、無実の罪を着せようとした男への恨みよりも、これから起こるであろう底知れない破滅への恐怖が勝っているような、純粋で怯えた声だった。他人の痛みがわかってしまう彼女のその「人が良すぎる」本質は、この殺伐とした盤面上では致命的な弱点だ。だからこそ、真二は彼女をこの泥沼の核心に触れさせるつもりはなかった。


 真二はマグカップの温もりを掌で感じながら、淡々と答えた。


「自ら首に縄をかけ、自分の足で台を蹴り飛ばした。あとは重力に従って落ちるだけだ。君が心を痛める必要は一切ない」


 凛は小さく息を呑み、それ以上は何も聞かずに深く頭を下げた。真二の横顔から発せられる絶対零度の気配が、それ以上の追及を許さなかった。


★★★★★★★★★★★


 翌日。土曜日の夜。


 東京・丸の内の高層ビルに入るモダンフレンチレストラン。


 黒とシルバーを基調としたシックな内装の店内は、各テーブルに置かれたキャンドルの火だけが頼りの薄暗い空間だ。それが逆に、床から天井まで届く巨大なガラス窓の向こうに広がる、宝石箱をひっくり返したような圧倒的な東京の夜景を際立たせていた。


 真二が奥のプライベート感のあるテーブル席に着くと、ほどなくしてアリア・ローランが現れた。


 深いエメラルドグリーンのシルクドレスは、彼女の艶やかな浅黒い肌と引き締まったしなやかな体を完璧に引き立てている。歩くたびに微かに揺れるナチュラルなカーリーヘアと、洗練された身のこなし。彼女が席に向かって歩いてくるだけで、周囲の客たちの視線が自然と吸い寄せられ、感嘆の吐息が漏れるのがわかった。


「待たせたかしら、真二」


 アリアは真二のエスコートで席に座り、悪戯っぽく微笑んだ。


「いいえ。ちょうど着いたところです」


 ミッドナイトブルーのサマースーツを隙なく着こなした真二は、ソムリエがうやうやしく注ぐシャンパンの泡を静かに見つめた。


「デートの誘いに乗ってくれて嬉しいわ。もっと無下に断られるかと思ったけれど」

「重要な共犯者からの誘いを断る理由はありません。それに、大掛かりな舞台の直前だ。最終確認は直接しておきたかった」


 乾杯のグラスを合わせる。薄いクリスタルグラスが、澄んだ美しい音を立てた。


 アリアはシャンパンを一口含み、満足そうに目を細めた。彼女の纏うスパイシーでエレガントな香水が、キャンドルの熱で微かに立ち上る。


 運ばれてきたアミューズは、雲丹とコンソメのジュレを合わせた繊細な一品だった。真二は一口味わい、その緻密な味の構成に密かに感心した。自身も料理を嗜むからこそ、裏側にある途方もない手間に気づくことができる。


「ルシアから連絡があったわ。武藤常務の裏金プールに関するデータ、完全に解析が終わったそうね」


 アリアはシルバーの小さなスプーンを置き、声を潜めた。


「ええ。ルシアの解析と、昨日の翔太の承認ログが完全に紐づきました。これで、武藤も翔太を『末端の暴走』として切り捨てることは不可能です」


 真二は一切の感情を交えずに事実だけを述べた。


「完璧な包囲網ね。退路はすべて塞がれた。佐々木翔太も、そして武藤常務も」


 アリアは感嘆の溜息を漏らす。


「あなたが彼らを泳がせ、虚栄心を極限まで膨らませた理由がよくわかったわ。自分は特別で有能だと信じて疑わない人間ほど、高く登らせた分だけ、落ちた時の衝撃は大きくなる。……で、私がプロデュースする『ショー』の出番はいつかしら?」

「月曜日の午後1時。エレノアが主催する役員定例報告会です」


 真二はフォークを置き、アリアの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「そこで、俺がすべての証拠を盤上に並べます。武藤常務も出席する。逃げ場のない密室で、彼らに引導を渡す」

「素晴らしいわ」


 アリアの瞳に、演出家としての熱が灯る。彼女は指先でテーブルをトントンとリズミカルに叩いた。


「なら、私が用意した『起爆装置』もそのタイミングで作動させるわ。ただの内部告発じゃつまらない。社内もメディアも巻き込んで、彼らが逃げ隠れできない最高のショーにしてあげる。……とびきり下世話なスパイスも添えてね」


 底知れぬ企みを感じさせる彼女の言葉に、真二は静かにグラスを傾けた。


「……容赦がないですね」

「最高のショーには、最高のクライマックスが必要でしょ? 人ってね、他人の成功には嫉妬するけれど、他人の転落、それも滑稽で惨めな転落には、惜しみない拍手喝采を送るものなのよ。私がそれを、世界で一番美しく残酷な形にデザインしてあげる」


 アリアは悪戯な笑みを深め、テーブル越しに身を乗り出した。


★★★★★★★★★★★


 真鯛のポワレ、そして和牛のローストと見事なコース料理が続き、二人は食後のエスプレッソを楽しんでいた。


 窓の外には、東京タワーのオレンジ色の光が静かに瞬いている。眼下を流れる車のヘッドライトの帯は、夜の静寂の中で音もなく明滅を繰り返していた。


 ふと、アリアがエスプレッソのデミタスカップを置き、真二の顔を真顔で覗き込んだ。


「ねえ、真二。一つ聞いてもいいかしら」

「何の話です」

「結城麻衣よ。彼女、あなたがわざと渡した限度額なしのカードで、今日も私の知り合いのサロンで派手に散財していたわ。……月曜日の告発が終われば、彼女も完全に破滅する。不正な金で買ったブランド品は失い、翔太の横領の共犯に近い形で多額の借金とスキャンダルだけが残るわね」


 アリアは形の良い眉をわずかに寄せた。


「あんな見え透いた嘘であなたに寄生しているだけの底の浅い女に、わざわざ大金をドブに捨ててまで、あそこまで派手に泳がせておく価値はあったの? 最初から切り捨てれば済む話じゃない」


 真二はコーヒーカップをソーサーに静かに戻した。


 脳裏に蘇るのは、前世で過労死の淵に追い込まれた夜の記憶。自分を死に追い込みながら、他人の金で虚栄を満たして嘲笑っていた彼らの姿だ。


 心臓を貫くようなあの激痛も、絶望の中で途切れた意識も、今の真二にとっては冷たく重い氷の塊となって胸の奥底に沈殿している。麻衣が自分の前で流す涙も、翔太が浮かべる人の良さそうな愛想笑いも、すべてがただの張りボテの裏返しに過ぎないと知っている。彼らに向けるべき感情の泉は、あの深夜のオフィスですでに完全に枯れ果てていた。


 真二は視線を窓の外へ移し、冷たく澱んだ暗い瞳で夜の街を見下ろした。


「……価値なら、十分にありましたよ」

「と言うと?」

「彼らは俺を都合の良い養分だと見下し、搾取し尽くそうとした。だから俺も、彼らがすがりつく虚栄を徹底的に膨らませてやる必要があったんです」


 一切の熱を持たない、絶対零度の声だった。怒りすら通り越し、ただ淡々と作業を遂行する死神のような響き。


「自分が特別な存在だと錯覚させ、一番高い場所まで登らせる。そこから突き落とさなければ、本当の絶望は味わえない。……彼らが積み上げてきた薄っぺらい虚栄の塔が根こそぎ崩れ落ちる瞬間を、一番見晴らしの良い特等席で見届ける。ただ、それだけの等価交換です。そこに感情が入り込む余地はありません」


 アリアはその徹底した冷酷さに背筋をゾクッと震わせ、しかし直後に、たまらないといった様子で艶やかな笑みを浮かべた。


「いい目。本当に、ゾクゾクするわ。絶望の底を知っていて、それでも自分の足で立っている人間の目。……あなたはやっぱり、私がプロデュースする最高の主演男優よ。この残酷な舞台に相応しい、完璧な冷徹さだわ」


 アリアはグラスに残ったミネラルウォーターを飲み干し、優雅に立ち上がった。周囲の客たちが再び彼女の洗練された所作に目を奪われる中、彼女は真二に向かって小さくウインクをした。


「準備はすべて整ったわ。あとは幕が上がるのを待つだけね」


 真二も立ち上がり、夜景を背にしたアリアに歩み寄る。


「ええ。崩壊へのカウントダウンは、すでに始まっています」


 真二の口元に、氷のように冷たく、残酷な微笑みが浮かんだ。


「死刑執行は、月曜日の午後。エレノアの盾の裏から、彼らの息の根を止めます」

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