第29話 完璧なトラップ
特命担当室の広々としたフローリングの床で、菊地凛が膝をついて屈み込んでいた。
手には、先端に鮮やかな青と緑の羽飾りがついた真新しい猫じゃらしが握られている。
今日の昼休み、凛が会社の近くにある大きなペットショップまでわざわざ足を延ばして買ってきたものだ。しなやかなカーボンの棒でできており、凛が手首を軽く返すだけで、先端の羽飾りがまるで本物の鳥のように不規則でしなやかな軌道を描いた。
「レオちゃん、こっちですよ。新しいおもちゃ、捕まえられるかな?」
凛が優しく、少し弾むような声で呼びかけると、ソファの陰から茶トラの子猫が身を乗り出した。
生後一ヶ月半を過ぎ、保護された当初に比べて少しだけ体つきがふっくらとし、足取りもしっかりしてきたレオだ。以前に凛が買ってあげた、淡いブルーの布製カラーの中央についている小さな銀色の鈴が、動くたびにチリチリと控えめな音を立てている。
レオはピンと尖った耳を少し後ろに反らし、ピンク色の小さな鼻をヒクヒクと動かした。丸く大きな瞳は、空中を舞う羽の動きに完全にロックオンされている。
短い後ろ足を床に踏ん張り、お尻を小さく振ってから、バネのように勢いよく飛びかかった。
しかし、凛がほんの少しだけ手首を上に持ち上げると、レオの前足はむなしく空を切り、そのまま勢い余ってフローリングにコロンと横へ転がった。
「ああっ、惜しい!」
凛が目を細めて笑うと、レオはすぐに起き上がり、「ミャウ」と不満げな短い声を上げてから、前足で顔を一度洗うような仕草をし、再び羽飾りに向かって突進していく。
ローテーブルを挟んだ向かいのソファで、佐野真二は手元のタブレットからわずかに視線を上げ、その光景を静かに見つめていた。
「よく動くようになったな」
真二の低く落ち着いた声に、凛はパッと顔を上げた。
「はい! 最近はソファの上まで自分でよじ登れるようになったんですよ。このおもちゃも、すごく気に入ってくれたみたいで……」
凛が猫じゃらしを床すれすれで揺らすと、レオが今度は見事に羽を両方の前足で挟み込み、そのまま床に寝転がって得意げな顔でガジガジと噛み始めた。
「お前の選んだものなら、間違いはないだろう」
真二が短く肯定すると、凛は頬を微かに桜色に染め、「ありがとうございます」と照れくさそうに笑い、レオの頭を優しく撫でた。
部屋の奥、三台の大型モニターに囲まれたデスクでは、大西明日香が目にも止まらぬ速さでタイピングを続けていた。カタカタという一定のリズムを刻む硬質な打鍵音が、凛とレオの立てる柔らかな音に混ざって、この部屋特有の心地よい静寂を作り出している。
その流れるようなタイピングが、一瞬だけ止まった。
羽飾りを追いかけて部屋の奥まで走ってきたレオが、明日香の黒いパンツスーツの足元にすり寄ってきたのだ。
明日香はモニターから一切視線を外すことなく、右足のつま先をわずかに動かし、レオの顎の下を撫でるように優しくこすった。レオはゴロゴロと喉を鳴らし、そのまま彼女の革靴の上に体重を預けて座り込んでしまう。
無表情で機械のように働く明日香の口元が、ほんのわずかに、一ミリだけ柔らかく緩む。
真二はそれを見逃さなかったが、あえて何も言わず、手元のタブレットで暗号資産の最新のチャートに視線を戻した。
だが、その穏やかな空気は、明日香のメインモニターから発せられた短い電子音によって破られた。
ピロッ。
明日香の口元から微かな緩みが完全に消え去り、元の氷のような冷徹な仕事の顔へと戻る。
「室長」
抑揚のない、鋭利な声が部屋に響いた。
「社内決裁システムのバックドアに仕掛けていたスクリプトが、ターゲットのアクセスを検知しました」
真二はタブレットを静かにテーブルに置き、ゆっくりとソファの背もたれに身を預けた。
「状況は」
「佐々木主任は現在、自身のアカウントから経理部宛の『緊急精算稟議』の起案画面を開いています。……かなり焦っているようですね。入力時のタイピングエラーとバックスペースの多用が、通常の四倍の頻度で発生しています」
明日香は画面に流れる大量のアクセスログを瞬時に読み解きながら、流れるような手つきで別のウインドウを展開した。
翔太が違約金を払うための資金を動かすには、神宮寺グループの正規の社内システムを経由し、「アペックス社との契約不履行に伴う違約金補填」という名目で、一度自社の口座に金を戻してから再度ダミー会社へ振り込むという、極めて強引なマネーロンダリングの稟議を通すしかなかった。
「彼が今開いている決裁フォーマットは、私が昨晩、システム上に偽装して配置した特注品です」
明日香は一切の感情を交えず、淡々と説明を続けた。
「表向きは通常の『緊急精算稟議』と全く同じ画面遷移、フォント、配色を完璧に模倣していますが、最下段のスクロールしなければ見えない免責事項の欄に、一文を追加しています。――『本決裁において資金の移動元となるアペックス社指定口座は、起案者自身の管理下にある実質的な個人口座であることを宣誓する』と」
真二は小さく息を吐いた。
「それに同意して承認ボタンを押せば、彼自身が裏口座の存在と、会社を欺いて不正な資金操作を行ったことを、自分自身のデジタル署名で完全に認めたことになるわけだ」
「はい。さらに、この偽装稟議の最終承認フローは武藤常務や経理部長ではなく、この特命担当室のローカルサーバーに直接ルーティングされるよう設定してあります。彼がボタンを押した瞬間、言い逃れの不可能な『自白調書』が私たちの手元に完成します。彼がどれだけ急いでも、この稟議が経理部に届くことは永遠にありません」
システムと人間の心理の隙を突いた、完璧で冷酷なトラップだった。
★★★★★★★★★★★
同じ頃。
営業部のフロアでは、金曜の午後特有の少し弛緩した空気が流れていたが、佐々木翔太のデスク周辺だけは、まるで真空地帯のように人が寄り付かず、異様な緊張感に包まれていた。
翔太は自分のデスクに張り付くようにして、眼球が乾くのも忘れたかのようにPCのモニターを睨みつけていた。
画面に表示された『緊急精算稟議』の入力フォーム。
タイピングする指先はキーボードを叩きつけるように荒々しく、エンターキーをターンッ!と不快なほど大きな音で打ち鳴らしている。
何度も入力ミスをしてはバックスペースキーを連打し、画面上のカーソルが行ったり来たりを繰り返していた。
視界は極端に狭窄していた。
周囲の営業部員たちが遠巻きに冷ややかな視線を向けていることにも、自分の立てる騒音が周囲の迷惑になっていることにも、彼は全く気づいていない。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
アペックスにプールしてあるあの数千万の裏資金を動かす許可を、システム上で強引にでも通すこと。
理由付けの文章などどうでもよかった。どんな名目であれ、この画面から起案を完了させ、あとは経理部に怒鳴り込んででも処理を強行させる。それさえできれば、月曜日に迫った違約金の支払い期限を乗り切り、今の窮地を一時的にでも脱することができる。
(俺は悪くない。俺は会社のために、利益を出そうとしただけだ。結果を出せば、誰も文句は言わないはずだったんだ……!)
心の中で同じ言い訳を繰り返しながら、翔太は入力項目をすべて埋め終えた。
残るは、画面の最下部にある長々とした細かい文字で書かれた社内規約の同意事項だけだった。
通常なら、法務の細かいチェックポイントが並んでいるだけの退屈な文章。今の翔太に、それを一文字ずつスクロールして読み込む余裕など一ミリも残されていなかった。
マウスのホイールを勢いよく回し、一番下までスクロールさせる。
規約の末尾にある小さなチェックボックス。
そこにカーソルを合わせ、印を入れる。
そして、一切の躊躇なく、青くハイライトされた『同意して起案する』というボタンを強くクリックした。
画面が短いロードを挟み、『稟議が申請されました。承認者の決裁をお待ちください』という無機質なメッセージが表示される。
翔太は大きく息を吐き出し、椅子の背もたれに深く倒れ込んだ。
マウスから手を離し、モニターを見つめたまま、彼は天井を仰ぎ見ながら歪んだ笑みを浮かべた。
これでいい。あとは月曜の朝一番に経理部へ向かうだけだ。俺はまだ終わっていない。ここから挽回してやる。
★★★★★★★★★★★
「――ターゲットの承認操作を確認」
特命担当室。
明日香の低く冷徹な声と同時に、部屋の隅に置かれたネットワークプリンターが、低い駆動音を立てて稼働し始めた。
ウィーン、という機械音とともに、一枚のA4用紙が静かに吐き出される。
真二はソファからゆっくりと立ち上がり、無駄のない足取りでプリンターに近づいた。
出力されたばかりの、まだ微かな熱を帯びた紙を手に取る。
そこには、翔太が申請した稟議の全容が印字されていた。アペックスの口座が自身の管理下にあることを明確に認める宣誓文。そして何より、改ざんの不可能な社内システムのログに基づく「佐々木翔太」の固有IDによるデジタル署名が、黒々としたインクで刻み込まれている。
真二はその紙面を、氷のように冷ややかな瞳で静かに見つめた。
前世の深夜。
真っ暗なオフィスの中で、この男から押し付けられた理不尽な仕事の山と、鳴り止まない妻からの身勝手なメッセージを前に、ただ絶望と動悸に耐えるしかなかった自分の姿が脳裏をよぎる。
あの時の、呼吸すらまともにできなかった無力感。自分を殺した者たちへの憎悪。
それは今でも真二の胸の奥底で燻り続けているが、手にあるこの一枚の紙が、その業火を完全にコントロールするための強固な鎖となっていた。
「完璧だ。大西、よくやった」
真二の声には、過剰な喜びも、勝利を誇るような昂ぶりもなかった。ただ、冷たく重い事実だけを噛み締めるような響きがあった。
「恐縮です」
明日香はモニターから視線を外し、椅子に座ったまま小さく一礼した。
凛もまた、真二の手にある紙が何を意味するのかを察し、息を呑んで静かに見つめている。レオだけが、何も知らずに再び羽飾りに飛びかかってチリチリと鈴の音を鳴らしていた。
真二は手元の書類を軽く指ではじき、誰にともなく、静かに告げた。
「これで、すべての退路は完全に塞がった。あとは彼らを断頭台へ引きずり出すだけだ」




