第28話 エレノアの盾
木曜日の午後2時。
神宮寺グループ本社の奥深くに位置する特命担当室の静寂は、不意に破られた。
「室長」
大西明日香が、3台のモニターから視線を外すことなく抑揚のない声を上げた。彼女の目の前にある中央の画面には、赤い警告のポップアップが静かに点滅を繰り返している。
「入退室管理システムのログに異常。当フロアのセキュリティゲートが、武藤常務のマスター権限によって強制解除されました。現在、監査部の人間と思われる4名が、この部屋に向かって真っ直ぐに接近中です。足取りからして、穏やかな用件ではありません」
タブレットで暗号資産の口座状況を確認していた佐野真二は、画面をスワイプする指を止め、静かに顔を上げた。その瞳には、驚きも焦りもない。ただ、冷たく暗い海の底のような静けさがあった。手元の画面には、彼が密かに運用している資金が順調に桁を増やし続けていることが示されていたが、彼は一切の執着を見せずに画面を消灯し、テーブルの上に置いた。
「武藤も、いよいよ後がなくなったか」
真二が小さく息を吐いた直後、ノックもなしに重厚な防音扉が乱暴に開け放たれた。分厚い扉が壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
踏み込んできたのは、監査部長の山脇をはじめとする4名の男たちだった。先頭に立つ山脇は恰幅の良い体格に白髪交じりのオールバックという威圧的な風貌だが、その神経質そうな細い目には、隠しきれない焦燥と、権力を笠に着た傲慢さが張り付いていた。着ている高級なスーツは皺が寄り、額にはうっすらと脂汗が滲んでいる。いずれも武藤常務の息がかかった、社内の汚れ仕事を引き受ける派閥の人間だ。彼らは土足で他人の領域に踏み込むことに何の躊躇いも持たない、組織の寄生虫特有の傲岸不遜さを漂わせている。
「佐野真二室長。監査部だ」
山脇は真二を見下ろし、怒声に近い高圧的な声を張り上げた。彼の太い声が、防音仕様の室内で不快に反響する。
「営業部時代における経費の不正受給、および現在の特命担当室における権限逸脱行為の疑いで、特別監査を実施する。ただちにPCから離れ、室内のすべてのデータ端末とファイルを押収する。抵抗すれば、就業規則違反として即刻懲戒委員会にかけるぞ」
真二は無言のまま、ソファから立ち上がることもせず山脇の神経質そうな目を見据えた。相手の焦りが手に取るようにわかる。
明日香はタイピングの手をピタリと止め、ゆっくりと立ち上がった。彼女の切れ長な目は、山脇たちを冷徹に観察している。
「就業規則第15条。役員単独の権限による特定部署の抜き打ち監査は、対象部署の直属役員の同意、あるいは社長決裁が必要です。令状、または同意書は」
明日香の氷のような声に、山脇は忌々しげに顔をしかめた。
「これは武藤常務の『特命』だ。お前のような下っ端が口を出していい案件じゃない。どけ!」
山脇が強引に明日香のデスクに手を伸ばそうと踏み出した、その時だった。
「――私の部屋で、野蛮な真似はお辞めなさい」
開け放たれた扉の向こうから、静かだが、絶対に逆らうことの許されない絶対零度の声が響いた。
山脇たちの動きが、まるで凍りついたように止まる。
廊下から姿を現したのは、ダークネイビーのパンツスーツに身を包んだエレノア・スペンサーだった。透き通るような白い肌と、憂いを帯びたブルーグレーの瞳。ハイヒールが厚い絨毯を踏む音が、静寂な部屋にコツン、コツンと冷酷なリズムを刻む。しかし今の彼女の瞳には、一切の憂いはない。そこにあるのは、自らの領域を侵す者への明確な怒りだった。
「エ、エレノア役員……これは、武藤常務からの正式な指示で……」
「黙りなさい」
エレノアは歩みを止めず、山脇たちの前を通り過ぎて真二の傍らに立った。そして、手に持っていた一枚のクリアファイルを、ローテーブルの上に無造作に投げ出した。パサリという軽い音が、山脇たちにとっては死刑宣告のように響いた。ファイルの中には、英語で書かれた厳格なフォーマットの書類が透けて見える。用紙の右上には、ロンドン本社の監査委員会が用いる正式なエンボス印が押されていた。
「それは、今朝ロンドン本社の監査委員会から発行された、武藤常務に対する『不透明な資金運用に関する内部調査』の正式な通達書です。彼は現在、本国の直接的な監査対象であり、他部署への監査を命じる権限は一時的に凍結されています」
「な……っ」
山脇の顔から、一瞬にして血の気が引いた。恰幅の良かった体が一回り小さくなったかのように萎縮する。
「この特命担当室は、私の直轄です。ここにある紙切れ一枚、データの一バイトに至るまで、私の許可なく触れることは許されません」
エレノアは山脇を真っ直ぐに見据え、一語一語、氷の刃を突き立てるように告げた。
「彼は、私のパートナーであり、私の盾です。彼に牙を剥くということは、私への――ひいては本国スペンサー家への明確な宣戦布告と見なします。……武藤常務にそうお伝えなさい。お引き取りを」
圧倒的な権力と、一切の隙のない論理武装。
山脇たちはもはや反論の言葉すら見つけられず、額に脂汗を浮かべ、青ざめた顔で互いに顔を見合わせた後、逃げるように部屋から退散していった。彼らの慌ただしい足音が廊下の奥へと消えていく。
扉が静かに閉まる。
特命室に、再び元の静寂が戻った。
明日香は無言のまま自席に戻り、何事もなかったかのように再びキーボードを叩き始める。
「見事な手際でした」
真二は立ち上がり、エレノアに短く礼を述べた。
「武藤も、まさか本国から直接刺されるとは思っていなかったでしょう。これで彼も、翔太を庇う余裕は完全になくなりました」
「ええ」
エレノアは小さく息を吐き、張り詰めていた肩の力をわずかに抜いた。彼女は真二の方へ向き直り、その広い肩越しに真二の深い瞳を見上げた。彼女の青い瞳の奥に、ほんの少しだけ安堵の色が混じる。
「あなたが私の盾であるように、私もあなたの盾ですから。……私に守られるのは、不服ですか?」
「とんでもない」
真二は、わずかに口角を上げて微笑んだ。前世では決して見せることのなかった、大人の余裕を纏った極上の微笑みだった。
「最高の盾です。これほど心強いものはない」
その言葉に、エレノアはブルーグレーの瞳を微かに揺らし、そっぽを向くようにして自身のデスクへと歩いていった。しかし、その白い耳の先が、ほんのりと桜色に染まっているのを、真二は見逃さなかった。
★★★★★★★★★★★
金曜の夜。
真二は、大西明日香を伴って神楽坂の石畳の路地を歩いていた。
打ち水がされた黒塀の料亭や、仄かな灯りを漏らす小料理屋が軒を連ねる静かな裏通り。週末の喧騒から切り離されたその空間を、二人は無言のまま歩調を合わせて進んでいく。湿り気を帯びた夜気が、ほんのりと線香や出汁の香りを運んできた。遠くからは、どこかの座敷から漏れ聞こえる微かな三味線の音が風に乗って届く。
明日香はいつもの無機質なパンツスーツではなく、身体のラインを美しく見せる黒のシンプルなノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。装飾は一切ないが、普段は隠されている鎖骨のラインや、華奢だが引き締まった腕が、彼女の無駄のないしなやかなスタイルと、凛としたミステリアスな顔立ちを完璧に引き立てている。歩くたびに、少しだけヒールの音が夜の路地に響いた。
「室長。次のミッションの打ち合わせでしょうか。それにしては、場所が少々不適切かと存じますが」
明日香が、前を向いたまま抑揚のない声で尋ねた。彼女の視線は周囲の景色を楽しむでもなく、ただ目的地を探るように鋭く前方を捉えている。仕事以外の時間をどう過ごせばいいのか、彼女自身が戸惑っているようにも見えた。
「いや。ただの食事だ。いわゆる、デートというやつだな」
真二が淡々と答えると、明日香の歩みがピタリと止まった。
彼女は数回瞬きをし、切れ長な目を少しだけ見開いて真二を見た。
「……デート。私が、ですか。菊地さんや、エレノア役員ではなく」
「お前が一番、この数週間で異常な量の過酷な実務をこなしている。翔太の不正の証拠固めから、武藤の裏金の流れの解析まで。お前の処理能力がなければ、俺の盤面はとっくに崩壊していた。たまには労わらせろ」
真二はそう言うと、看板のない古い一軒家の前で足を止めた。一見さんお断りの、カウンター8席だけの極上の天ぷら屋だ。暖簾をくぐると、胡麻油の香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
白木のカウンター席に並んで座る。
大将が熟練の手つきで、目の前の銅鍋で天ぷらを揚げていく。パチパチという心地よい油の音が響く中、真二は冷酒を注文した。切子グラスに注がれた透明な液体が、照明を反射して美しく光る。
「まずは、才巻海老です。お塩でどうぞ」
大将が、薄い衣を纏った小ぶりの海老を、明日香の前の懐紙に静かに置いた。湯気が微かに立ち上っている。
明日香は無表情のまま「いただきます」と小さく呟き、箸で海老を挟んで塩の結晶を少しだけつけ、口に運んだ。
サクッ。
軽やかな音が響いた瞬間。
明日香の張り詰めていた無表情が、魔法が解けたように崩れた。彼女は少しだけ目を細め、口元を綻ばせる。頬に微かな赤みが差し、誰にも見せない無防備で幸せそうな笑みをこぼした。
真二は冷酒のグラスを傾けながら、その顔を静かに見つめた。
「美味いか」
真二の声にハッとした明日香は、慌てて元の無表情に戻ろうと軽く咳払いをした。しかし、その声は普段よりも少しだけ弾んでいた。
「……はい。非常に。衣の軽さと、海老の甘みが……完璧です」
「ならよかった。遠慮せずに食え」
その後も、雲丹の大葉巻き、肉厚な鱚、瑞々しいアスパラガスと、絶妙なタイミングで揚げたての天ぷらが提供された。さらに、江戸前ならではの肉厚な穴子が一本丸ごと揚げられ、サクッとした衣の中からふんわりと湯気を立てる白身が顔を覗かせる。明日香はその度に微かに表情を緩め、至福の時を味わっていた。彼女がこれほどまでに食べ物に対して素直な反応を示すことは、特命室での姿からは想像もつかない。
食事が終盤に差し掛かった頃、明日香が温かいほうじ茶の湯呑みを両手で包み込みながら、静かに口を開いた。その瞳には、再び冷徹な実務担当者としての鋭い光が戻っていた。
「……室長。アペックスとの契約書にコンプライアンス条項のトラップを仕込む準備が、最終段階に入っています。現在、法務部のチェックをすり抜けるための文言調整を行っており、近日中に完了する見込みです」
「ああ。だが急げ。彼が役員会議で自身の成果として報告を行う前に、完全に外堀を埋める必要がある。彼に一切の逃げ道を与えないためには、完璧な書類が必要だ」
真二は冷酒を飲み干し、静かに頷いた。
「最後の一押しは、彼自身にやらせる。追い詰められた人間が、どれほど滑稽で醜悪な選択をするか。俺たちは、彼自身の肥大化したプライドを利用して、自ら引鉄を引くための完璧な舞台を用意するだけでいい」
「はい。逃げ道は確実に塞ぎます」
明日香は湯呑みから手を離し、真二の方へ真っ直ぐに向き直った。その目は、天ぷらを食べていた時の柔らかいものではなく、絶対の忠誠を誓う「忠犬」のそれだった。
「……私を、あの泥沼から引き上げてくださって、ありがとうございます」
絞り出すような、切実な声だった。
「お前の実力だ」
「いえ。あのまま営業部で、彼らの虚栄心を満たすための道具として消費され続けていたら、私は完全に壊れていた。……室長のためなら、私はどんな泥でも被ります。それが私の、生きる意味ですから」
真二は無言のまま、自分のグラスと、明日香の小さなグラスに冷酒を注いだ。透明な液体が、かすかな音を立てて満たされていく。
「泥は俺が被る。お前はただ、その完璧な実務で俺の背中を守れ。それだけでいい」
真二の言葉に、明日香は小さく、しかし力強く頷いた。
そして、最後に大将から出された小さなかき揚げ丼を口に運び、再び目を細めて柔らかな笑顔を咲かせた。




