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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第27話 セレナの無慈悲な買収劇

 火曜日の午後3時。神宮寺グループ本社の薄暗い非常階段に、翔太の荒い呼吸音が反響していた。


 冷え切ったコンクリートの壁に囲まれた密閉空間は、彼の肺から吐き出される熱気で僅かに湿り気を帯びているように感じられる。仕立ての良かったネイビースーツは無残な皺が寄り、朝のうちは完璧に結ばれていたはずのシルクのネクタイは、息苦しさを逃れるようにだらしなく首元に引き下げられていた。

 額から脂汗が滲み落ちているが、それを拭う余裕すら今の彼にはない。血走った目でスマートフォンの画面を睨みつけながら、翔太は震える親指で、通話履歴の最上段にある番号への発信ボタンを二度、三度と乱暴にタップした。


「クソッ、出ろ……出ろよ……!」


 耳に押し当てた端末からは、無機質で単調な呼び出し音が繰り返されるだけだ。その一定のリズムが、彼の脳味噌をヤスリで削っていくかのように神経を苛立てる。


 翔太の焦燥は限界に達していた。彼が今すがれるのは、独断で契約をねじ込んだ新興企業『アペックス』側にプールさせている、数千万円にのぼるキックバックの裏金だけだった。それさえ引き出せれば、今の首の皮一枚繋がった状況から抜け出し、一時的にでも破滅を先延ばしにすることができる。


 十数回の長いコールの後、不意に呼び出し音が途切れ、通話が繋がった。


「もしもし!? おい、お前今まで何やってたんだ! 電話くらいすぐに出ろ!」


 翔太は挨拶もそこそこに、非常階段に響き渡る声で怒鳴り散らした。しかし、スピーカーの向こうから聞こえてきたアペックスの担当者の声は、かつての愛想の良さなど微塵もなく、まるで生気を失った幽霊のように掠れていた。


『……佐々木さん。もう、無理です』

「は? 何が無理だ! 契約通りに例の口座の金、今すぐ指定のオフショアに振り込め!」

『終わったんです。今朝、突然……うちの親会社が、外資系の投資ファンドに買収されました』

「……買収? なんだそれ、俺は何も聞いてないぞ!」

『市場外で過半数の株式を握られ、今朝の臨時株主総会で既存の役員は全員解任されました。圧倒的な資本力でした……抵抗する隙すら無かった』


 担当者の声が微かに震え、その背後から、複数の男女が英語と日本語を交えて鋭く指示を飛ばす騒がしい声が漏れ聞こえてくる。


『今、オフィスの入り口にはファンドが送り込んできた弁護士と監査法人が立ち塞がっています。サーバーのログから帳簿、金庫の中身まで、すべて差し押さえられました。あなたがプールしていたあの裏口座も、不透明な資金として完全に凍結されています。もう、1円も動かせません』

「ふざけるな! あれは俺の金だぞ! なんとかして引き出せ! お前らが責任を持って……!」

『俺の知ったことか! こっちだって今から横領の共犯で事情聴取なんだよ! もう二度とかけてくるな!』


 ツーツー、という切断音が、非常階段に虚しく響いた。

 翔太はスマートフォンを耳に当てたまま、コンクリートの壁に背中を預け、ずるずるとへたり込んだ。


 ファンドの買収。資産の凍結。

 あまりにも手際が良すぎる。まるで、最初から彼がそこに逃げ込むことを予測し、退路に巨大な落とし穴を掘って待っていたかのような、完璧な包囲網。


「誰だ……誰が、こんなことを……」


 暗闇の中で首に巻き付いた見えない縄が、ギリギリと音を立てて締まっていくのを、翔太はただ冷たい床に座り込み、全身を震わせながら感じるしかなかった。


★★★★★★★★★★★


 同日の午後6時。

 佐野真二は特命担当室を早めに退出させ、自身のアパートのキッチンに立っていた。

 パーテーションの向こう側、リビングのソファでは、昨日の疲労から会社を休ませていた菊地凛が、カシミアのブランケットに包まって静かに座っている。顔色は幾分戻っていたが、まだ少しだけ所在なげに真二の背中を見つめていた。


「室長……あの、私、手伝います」

「座っていろ。病み上がりに包丁は握らせない。それに、もうすぐ終わる」


 真二は振り返らずに短く告げ、手元の作業に集中した。

 まな板の上には、大ぶりのブラックタイガーが並んでいる。真二は薄刃の包丁を手に取り、殻を剥いた海老の背に浅く刃を入れ、竹串を使って黒い背わたを傷つけないよう丁寧に掬い取った。続いて腹側に数カ所の斜め切り込みを入れ、海老をまな板に押し付けるようにしてブチブチと筋を断ち切る。こうすることで、揚げた時に丸まらず、ピンと真っ直ぐな美しい形に仕上がる。最後に尾の先の水分を包丁の背でしごき出し、油跳ねの原因を完全に絶った。


 塩と少量の片栗粉で優しく揉み洗いし、流水で臭みと汚れを完全に洗い流してから、厚手のキッチンペーパーで水気を徹底的に拭き取る。

 卵、小麦粉、少量の水と油をボウルで乳化させたバッター液に海老をくぐらせ、バットに広げた粗めの生パン粉の海へ。パン粉は決して手で押し付けず、ふんわりと纏わせるだけにする。それがサクサクの食感を生む絶対条件だった。


 隣のコンロでは、付け合わせの準備が同時進行している。

 面取りした人参は、バターと砂糖、少量の塩を加えたひたひたのスープで、水分が飛び美しい照りが出るまでじっくりと煮詰め、グラッセに。インゲンとヤングコーンは、沸騰した塩湯で秒数を計って色鮮やかに茹で上げ、直後に氷水に取って色止めをする。


 別の鍋で皮ごと茹でていたメークインに竹串がスッと通るのを確認し、熱いうちにふきんを使って皮を剥いて裏ごし器にかけた。細かく滑らかになったポテトを鍋に戻し、ごく弱火にかけながら温めた生クリームと、たっぷりの無塩バターを数回に分けて木べらで練り込んでいく。塩と白胡椒で味を整えれば、絹のようになめらかで濃厚なマッシュポテトの完成だ。


 厚手の揚げ鍋にたっぷりの油を注ぎ、170度に熱する。

 パン粉を一つまみ落とし、中ほどまで沈んでからすぐに浮かび上がるのを確認すると、真二は海老の尾を持ち、油の海へ静かに滑り込ませた。


 パチパチという軽快で小気味よい音がキッチンに弾ける。

 数分後。衣が黄金色に変わり、油の泡が小さくなって海老の甘く香ばしい匂いが立ち上った完璧なタイミングで素早く引き上げ、しっかりと油を切る。


 温めておいた平皿に、マッシュポテトをスプーンで波打つように美しく敷き、その横にインゲンの鮮やかな緑、ヤングコーンの黄色、人参のグラッセのオレンジを彩りよく添える。そして主役である特大の海老フライを二本、立体的に立てかけるように盛り付け、ゆで卵とピクルスを粗く刻んだ自家製のタルタルソースをたっぷりと添えた。


「できたぞ」


 テーブルに置かれた洋食屋顔負けの一皿に、凛は目を丸くして息を呑んだ。


「すごい……これ、室長が一人で全部作ったんですか?」

「食べるのが仕事だ。冷めないうちに手を動かせ」


 真二は対面の席に腰を下ろし、淡々と促した。

 凛は「いただきます」と小さく手を合わせ、フォークとナイフを手に取る。海老フライにナイフを入れた瞬間、サクッ、という心地よい音が響き、中から閉じ込められていた熱い湯気がふわりと立ち上った。


 タルタルソースをたっぷりと絡めて一口食べた凛の顔に、パッと明るい光が灯る。


「……美味しい! 衣がすごくサクサクで、中の海老が甘くてプリプリです。このマッシュポテトも、お店みたいに滑らかで……」

「そうか。ならよかった」


 真二は自身の皿に向かいながら、静かに答えた。


★★★★★★★★★★★


 食後。

 真二は手動のコーヒーミルで、浅煎りのエチオピア産の豆を静かに挽いていた。ガリガリという心地よい音が止むと、細口のポットからハンドドリップでゆっくりと湯を落とす。粉がふっくらとドーム状に膨らみ、華やかでフルーティーな香りが部屋の空気を柔らかく満たしていく。


 二つのカップにコーヒーを注ぎ分けた直後、テーブルの上に置いていた真二のスマートフォンが短く震えた。

 画面には、セレナ・デイヴィスの名前。

 真二は凛にカップを差し出してから、通話ボタンを押した。


「俺だ」

『極上のニュースよ、真二』


 電話の向こうから、セレナの艶やかで自信に満ちた声が響いた。背後からは微かに、クラシック音楽とグラスの触れ合う音が聞こえる。どこか高級なラウンジにでもいるのだろう。


『アペックスの買収、完了したわ。役員会の承認から株式の取得、資産の完全凍結まで、予定通り半日で終わらせてやった。あの底の浅い男がプールしていた裏金ごと、ファンドの胃袋の中よ。今頃、自分がどこから撃たれたのかも分からずに震え上がってるはずね』

「迅速な仕事だ。感謝する」

『ふふっ。お礼は後でたっぷりもらうわ。……これで、彼の退路は完全に消えたわね』

「ああ。あとは、彼が最後にすがる本丸を引きずり出し、舞台の上で踊らせるだけだ」


 真二は一切の感情を交えずに答え、通話を切った。

 スマートフォンをテーブルに置き、コーヒーを一口飲む。完璧な温度で抽出された酸味とコクが、舌の上を滑り落ちていく。


「室長……」


 両手でカップを包み込むように持った凛が、上目遣いで真二を見た。


「何か、あったんですか?」

「いや。ただの、ゴミ出しの確認だ」


 真二は小さく首を振り、凛の黒目がちな瞳を真っ直ぐに見据えた。


「凛。明日から、少し盤面が荒れる。無理はしなくていいが……俺の側を離れるな」

「……はいっ!」


 凛は背筋を伸ばし、力強く頷いた。

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