第26話 ルシアのハッキング
静寂に包まれた都内の単身用アパート。
キッチンに立つ佐野真二は、スポンジを持った手を動かし、水流の音だけを響かせていた。先ほどまで温かな湯気を立てていた二つのどんぶりはすでに洗われ、水切りカゴに整然と並べられている。
蛇口を捻って水を止めると、部屋は再び深い静寂を取り戻した。換気扇の低い唸り声だけが、無機質な空間に微かに残っている。
真二は手を清潔なリネンのタオルで丁寧に拭きながら、リビングの奥に視線を向けた。
パーテーションの向こう側に置かれたベッドからは、微かで規則正しい寝息が聞こえてくる。
菊地凛は、深い眠りに落ちていた。
無理もない。今日一日、彼女がどれほどの恐怖と絶望を味わったか。自身に一切の非がないにもかかわらず、密室に呼び出され、キャリアの終わりを意味する書類へのサインを強要されたのだ。翔太の底なしの身勝手さと傲慢さが、彼女の柔らかい心を限界まで追い詰めていた。アパートに連れ帰り、温かいうどんを食べさせた後も、彼女はしばらく小刻みな震えを止められなかった。
どんぶりを抱える白く細い指先が、どれほど怯えていたか。その姿を思い出すだけで、真二の胸の奥底で、冷たく重い怒りがとぐろを巻いた。
だが、もう終わった。
これ以上、彼女を脅かす要素は一つもない。もし再び彼女に理不尽な火の粉が降りかかるようなことがあれば、真二は躊躇うことなくその火元を根絶やしにする。それだけの力と準備が、今の自分にはある。
その時、ローテーブルの上に置いていた真二のスマートフォンが、短く振動した。
ロック画面を解除すると、高度に暗号化されたメッセンジャーアプリに一件の通知が届いていた。
『面白いものが釣れたわ。今夜8時、銀座の『VAMPIRE』。私を退屈させないでね』
送り主は、ルシア・カルヴァーリョ。
真二が密かに雇い入れた、裏社会にも通じる凄腕のセキュリティコンサルタントだ。
時計の針は午後7時を少し回ったところだった。銀座に向かうにはちょうどいい時間だ。
真二はクローゼットから薄手のダークネイビーのサマージャケットを取り出し、静かに袖を通した。眠っている凛を起こさないよう、足音を殺して玄関に向かい、音を立てずにドアを閉めた。
★★★★★★★★★★★
夜の銀座は、昼間とは違う種類の熱気を帯びていた。
メインストリートには磨き上げられた高級車が滑るように行き交い、ショーウィンドウの華やかなネオンが道行く人々の顔を明るく照らしている。すれ違う人々の間からは、上質な香水やアルコールの匂いが微かに漂ってくる。
しかし、そこから一本裏路地に入ると、喧騒は嘘のように遠ざかり、古い雑居ビルが立ち並ぶ静かな空間が広がっていた。
真二はあるビルの前で足を止め、看板のない重厚な鉄扉を開けた。
顔パスで通された地下への階段を降りると、湿度の高い空気とともに、低く響くウッドベースの音が体を震わせた。そこは、紫煙と上質な酒の香りが支配する会員制のシガーバーだった。
極限まで落とされた照明の中、各テーブルに置かれた小さなキャンドルの揺らめく炎だけが、客たちの顔の輪郭を曖昧に照らし出している。他人の詮索を嫌う者たちが集うこの店では、誰もが声を潜め、密やかな会話を楽しんでいる。
真二が迷うことなく奥のVIPブースへ歩みを進めると、革張りのソファに深く身を沈める女の姿があった。
エキゾチックな美貌を引き立てる、大胆なベリーショートの髪。深いスリットの入ったブラックシルクのドレスを纏うルシアのしなやかな肢体は、暗闇に溶け込むような優雅さと、触れれば火傷しそうな危険な色気を放っていた。
彼女は細身のシガーを長い指に挟み、気怠げに煙を吐き出す。紫色の煙がキャンドルの光に透け、ゆっくりと天井へ吸い込まれていく。
「少し遅かったわね。レディを待たせるなんて、日本のサラリーマンはマナーがなってないわ」
ルシアは手元のグラスを揺らしながら、形の良い唇に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「少し、社内の野良犬の相手をしていてね。待たせたな」
真二は対面の席に腰を下ろし、通りかかったボーイにスコッチのロックを注文した。
「野良犬ね……。その割には、ずいぶんと冷たい目をしているわ」
ルシアはシガーを灰皿に置き、テーブルに肘をついて身を乗り出した。胸元の深い谷間が、キャンドルの光に照らされて影を作る。
「獲物の息の根を止める直前の、肉食獣の目。嫌いじゃないわ、そういうの。表の綺麗事ばかり並べる退屈なエリートより、ずっと興奮する」
真二の前に、丸い氷が美しく削られたスコッチが運ばれてくる。グラスの表面にはうっすらと水滴が付き、中の琥珀色の液体が照明を反射して鈍く光った。
「仕事の成果は?」
「焦らないで。まずは乾杯からでしょ。私たちの『共犯関係』に」
ルシアのグラスが、真二のグラスと密やかな音を立てて重なった。
彼女はダークラムを一口含むと、手元の小さな漆黒のタブレットを滑らせ、真二の前に置いた。
「結論から言うわ。佐々木翔太は、自分が甘い汁を吸っていると思い込んでいたようだけど……実際は、もっと巨大な胃袋に繋がれたただの消化器官だったってことね」
タブレットの画面には、複雑なツリー状の資金フロー図が表示されていた。青や赤のラインが幾重にも交差し、膨大なデータが視覚化されている。
「アペックスから、翔太が管理しているペーパーカンパニーの口座へのキックバック。ここまでは私が前回見つけた通りよ。でも、こんな小物の口座にしては不自然なくらい、資金の滞留時間が短かったの。気になって、そのダミー法人の口座をさらに深く監視し続けてみたら、面白い自動送金プログラムが組まれていることに気づいたわ」
ルシアの長い指先が画面をタップし、フロー図の一部を滑らかに拡大する。
「翔太の口座に入ったキックバックの7割は、48時間以内にケイマン諸島にある複数のオフショア口座へ分散して送金される仕組みになっていたの。そこからさらに別のダミー会社を三つ経由して、完全に足取りが追えなくなるようにマネーロンダリングされた後……最終的に、一つの巨大なファンドに行き着く」
ルシアはそこで一度言葉を切り、真二の目を見た。
「そのファンドの実質的オーナーは、神宮寺グループの、武藤常務の関連団体よ」
真二の目が、微かに細められた。
点と点が、完全に線で繋がった瞬間だった。
「翔太は、武藤の集金マシーンとして使われていただけか」
「そういうこと。彼は自分の一存でアペックスをねじ込み、キックバックを独り占めしているつもりだったんでしょうね。でも、彼の手元に残っていたのは全体のわずか3割。残りの7割はすべて、武藤の裏金プールに自動的に吸い上げられていたのよ。彼がサインした契約書が、武藤への上納システムそのものだったってわけ」
ルシアは楽しそうに目を細め、ラムを喉に流し込んだ。
「武藤からすれば、後で不正がバレた時のリスクはすべて下っ端の翔太に背負わせつつ、上がりだけは確実に回収できる完璧なシステムね。これ、構築した人間は相当頭が切れるわ。セキュリティの壁を何枚も抜くのに、久しぶりに本気で燃えたもの」
ルシアは軽く肩をすくめた。
「どう? ターゲットの首を絞めるつもりが、思いがけず大物の尻尾まで踏んづけちゃったわね」
真二はスコッチを一口飲み、喉の奥を焼く強いアルコールの刺激を冷静に味わった。
前世で、自分からすべてを奪い、過労死に追いやった男。その男が、実はさらに上の権力に踊らされていたただの無知なピエロだったという事実。
だが、真二の心に湧き上がったのは同情でも虚無感でもなかった。
より冷酷で、彼らに完全なる破滅を与えるための冷徹な計算だった。
「武藤の動きは」
「さすが、話が早いわね」
ルシアはタブレットを操作し、別のドキュメントを表示させた。無数のメールのヘッダー情報と、暗号化された社内通達のスクリーンショットが並んでいる。
「ここ数日、武藤の秘書室周辺で、きな臭い動きがあるわ。アペックスとの契約プロセスにおける重大な規程違反について、極秘裏に法務のトップと協議を始めているみたいなの」
「……」
「プロジェクトの遅延とアペックスの黒い噂が社内で広がり始めたことで、武藤は自分に火の粉が及ぶ前に、すべてを翔太個人の暴走として処理するための根回しを始めているわ。まだ正式な決定ではないけれど、いざという時のトカゲの尻尾切りの準備ね」
真二は小さく息を吐いた。
真二はタブレットの画面を静かに見つめた。
「完璧だ。助かったよ、ルシア」
真二が視線を上げると、ルシアは至近距離で彼の顔を見つめていた。彼女の香水のスパイシーな香りが、紫煙と混ざり合って濃密に香る。
「私のスキル、安くはないわよ。金銭的な報酬はすでに受け取っているけど……」
ルシアは真二のネクタイに指を絡め、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。シルクのネクタイが擦れる微かな音が鳴る。
「これで私の仕事はコンプリート。……で? 残りの夜は、どうやって私を楽しませてくれるの?」
挑発的な瞳。彼女は、真二という男の底にある冷たい熱を、もっと直接的に味わいたがっていた。
真二は動じることなく、ルシアの絡めた手を優しく、しかし確かな力で解いた。
「俺のショーの特等席を用意してある。お前が愛してやまない、泥臭くて滑稽な人間の転落劇だ。最高のエンターテインメントを約束しよう」
氷のような微笑み。
ルシアは一瞬虚を突かれたように目を丸くし、やがて喉の奥で低く笑った。
「……最高ね。あなたがどんな風に彼らを地獄へ突き落とすのか、見届けさせてもらうわ」
ルシアは再びグラスを掲げた。
二人の共犯者の密やかな祝杯が、地下の静寂に溶けていった。




