第25話 凛の涙
週明けの月曜日。神宮寺グループ本社の営業フロアには、目に見えない異様な緊張感が張り詰めていた。
午前11時。
特命担当室の分厚い防音扉の奥で、大西明日香のキーボードを叩く手がピタリと止まった。
「室長」
明日香が抑揚のない声を上げた。
「佐々木主任が、自身の端末から人事部のコンプライアンス窓口に向けて、緊急の報告書のドラフトを作成しています。内容は……『アペックスとの契約における、事務担当者の重大な過失について』。彼が作成した稟議書の最終確認とシステムへの入力を、元営業サポート部の菊地凛が怠り、独断で別ルートに回したという虚偽の主張です。現在、添付する裏付け資料として、過去の菊地さんのログイン履歴や、営業サポート部時代の決裁ミスなどのログを強引に抽出・改ざんしようとしている痕跡があります」
ソファに座り、タブレットに目を通していた佐野真二の指が、ピクリと止まった。
「同時に、佐々木主任が菊地さんを第4会議室に呼び出しました。菊地さんは先ほど、総務部への書類提出で部屋を出たまま戻っていません。おそらく、廊下かエレベーターホールで待ち伏せされ、途中で捕まったかと。第4会議室の入退室ログに、たった今、佐々木主任と菊地さんのIDが記録されました」
真二の瞳から、スッと一切の光が消えた。
深い海の底のように冷たく、そして静かな、絶対零度の怒り。特命担当室の温度が、物理的に数度下がったかのような錯覚さえ覚えるほどの、強烈な殺気だった。
「……大西」
真二の声は、普段よりもさらに一段低く、恐ろしいほどの重量を持っていた。
「そのドラフトの作成ログと、彼の端末からのアクセス記録、すべての改ざんの痕跡を完全に保存しておけ。一文字たりとも逃すな」
「了解しました。並行して、第4会議室周辺の監視カメラ映像も録画領域にバックアップしておきます」
真二は立ち上がり、ジャケットを羽織ることもなく特命室を出た。その足取りに焦りはなかったが、周囲の空気を凍りつかせるような圧倒的なプレッシャーが漂っていた。すれ違う社員たちが、真二の放つ異様な気配に息を呑み、無意識に道を空けていく。
★★★★★★★★★★★
第4会議室。
ブラインドが下ろされた薄暗い室内で、翔太は血走った目で菊地凛を壁際に追い詰めていた。彼のネクタイは乱雑に緩められ、ワイシャツの首元には脂汗が滲んでいる。貧乏ゆすりの振動が、床を伝わって凛の足元まで響いていた。
「いいか、お前が先月、俺の机にあった書類の処理を間違えたんだ! お前が法務部のチェックを飛ばしてシステムに入力したから、こんなことになったんだろうが! お前のポンコツな仕事のせいで、俺のキャリアがめちゃくちゃだ!」
「ち、違います……! 私は、そんな書類見ていませんし、システムの入力権限なんて持っていません……! そもそも、アペックスなんて会社のお名前、一度も……」
凛は両手を胸の前で強く握りしめ、ガタガタと震えながら必死に首を振った。
「嘘をつけ! お前はいつも俺の仕事を適当に処理してただろ! 自分のミスを俺になすりつける気か! この前だって、お前がコピーの部数を間違えたせいで……!」
翔太はヒステリックに怒鳴り散らし、手元のバインダーを机に叩きつけた。パーンッという乾いた破裂音が狭い会議室に響き、凛はビクッと肩を跳ねさせた。
バインダーの中には、凛に責任を被せるための虚偽の始末書が挟まれている。翔太は自身の胸ポケットから万年筆を乱暴に引き抜き、凛の目の前に突きつけた。
「ここにサインしろ。お前がミスを認めれば、俺がなんとか上に掛け合ってやる。お前みたいな無能でも、俺の温情で穏便に済ませてやるって言ってるんだ。だがこのままじゃ、お前は会社に億単位の損害を与えたとして懲戒解雇だぞ! 損害賠償だって請求される! お前の安い給料じゃ、一生かかっても払いきれない額だぞ!」
「いやです……私、やってません……! 助けて……」
凛の大きな目から、大粒の涙が溢れ落ちた。恐怖で声がひっくり返り、膝から力が抜けそうになる。背中が冷たい壁に押し付けられ、逃げ場はどこにもない。目の前に迫る翔太の歪んだ顔が、モンスターのように恐ろしかった。
その時。
重厚な会議室のドアが、音を立てて開かれた。
「そこまでだ」
低く、地を這うような声が室内に響いた。
翔太がビクッと肩を跳ねさせて振り返る。そこには、感情を完全に削ぎ落とした冷徹な顔で立つ、真二の姿があった。ドアノブを握る彼の手の甲には、青筋が微かに浮き出ている。
「さ、佐野……! お前には関係ない! こいつは俺の……」
「俺の直属の部下だ」
真二はゆっくりと歩み寄り、翔太と凛の間に立った。その圧倒的な長身から見下ろす冷ややかな視線は、翔太の薄っぺらいプライドを物理的に押し潰すほどの圧力を持っていた。真二の広い背中が、震える凛を翔太の狂気から完全に遮断する。
「自分の無能と傲慢が招いた結果を、立場の弱い人間に押し付ける。……見苦しいぞ、翔太」
「無能だと……? ふざけるな! お前が裏で糸を引いてるんだろ! 俺を陥れるために、全部お前が仕組んだんだ! お前が俺の足を引っ張らなけりゃ、俺は今頃……!」
翔太は顔を真っ赤にして喚き散らしたが、真二は薄く笑っただけだった。
「陥れる? 誰が誰をだ? お前が自ら武藤常務の特命ルートを使い、電子サインをしたアクセスログがすべてを証明している。菊地凛のIDログに、その契約書に触れた痕跡は1ビットも残っていない。お前が今やろうとしていることは、単なる責任転嫁と文書偽造の強要だ。……人事部のコンプライアンス窓口に向けて作成中の、あの見え透いたドラフトのことなら、すでにこちらの管理下にある」
翔太の顔から、さっと血の気が引いた。喉の奥でヒュッと奇妙な音が鳴る。
真二は一歩、翔太に詰め寄った。
「これ以上、彼女に近づくな。お前のその浅ましい手で、彼女に触れるな」
低く静かな、しかし確かな殺気を孕んだ声。
翔太は真二の瞳の奥にある絶対的な虚無に恐怖し、無意識に後ずさった。足がもつれて会議室の椅子にぶつかり、無様な音を立てる。口をパクパクと動かしたが言葉は出ず、バインダーも万年筆も放り出したまま、逃げるように会議室から走り去っていった。
静寂が戻った室内で、凛は床に膝をつき、両手で顔を覆って声を殺して泣いていた。恐怖の余韻と、安堵感が入り混じり、細い肩が小刻みに震え続けている。
真二はゆっくりとしゃがみ込み、彼女の視線の高さに合わせると、その震える肩にそっと手を置いた。
「……もう大丈夫だ」
「佐野さん……私、私……」
「何も言うな。立てるか」
真二は凛をゆっくりと立たせると、特命室には戻らず、地下駐車場へと向かった。彼女の張り詰めた神経を、この淀んだ会社の空気の中に置いたままにするべきではないと判断したのだ。
★★★★★★★★★★★
午後2時。
都心にある真二のサービスアパートメント。
広々としたリビングのアイランドキッチンに、真二は立っていた。
ダイニングテーブルには、泣き疲れて少し目の赤い凛が座り、出された温かいほうじ茶を両手で包み込んでいる。
「すみません……業務時間中なのに、こんなところまで」
「気にするな。午後のスケジュールは大西に調整させてある。エレノアにも話は通してあるから、今日はこのまま休めばいい」
真二はワイシャツの袖をまくり上げ、静かに調理の準備を進めていた。
大きなステンレスの鍋にたっぷりの水を張り、強火にかける。
隣のコンロでは、別の小鍋に水を入れ、上質な羅臼昆布と、頭と腹ワタを丁寧に取り除いた伊吹島産のいりこを浸しておく。じっくりと弱火にかけ、沸騰直前で昆布を引き上げる。いりこの香ばしくも上品な香りが立ち上ったところで火を止め、薄口醤油と本みりん、少量の塩で味を調える。透き通った黄金色のつゆの完成だ。キッチン全体に、心を落ち着かせるような深い海の香りが広がっていく。
次に、常温に戻しておいた卵を、沸騰した別の鍋に静かに沈める。タイマーを正確に6分30秒にセットする。
まな板の上には、瑞々しい京都産の九条ネギ。
真二は薄刃の包丁を手に取り、一切の力みを捨ててリズミカルに刃を落としていく。トントン、という心地よい音が静かな部屋に響く。ネギの繊維を絶対に潰さないよう、包丁の重さだけで引くように切る。切り口が鮮やかな緑色の輪となり、小鉢に山のように積まれていった。
タイマーが鳴る。真二は卵を素早く網杓子で掬い上げ、用意しておいた氷水に落として急冷する。温度差で殻に微かなヒビが入り、流水に当てながら剥くと、つるりとした美しい白い肌が現れた。
大鍋の湯が激しく沸き立つのを確認し、真二は取り寄せた讃岐の半生うどんを投入した。
麺が鍋の中でくっつかないよう、菜箸で大きく、泳がせるように混ぜる。指定された茹で時間きっちりでザルにあけ、流水で一気に粗熱を取る。両手で優しく揉み洗いし、小麦のぬめりを落とすことで、麺の表面がキュッと引き締まり、強いコシが生まれる。
そこから、再び熱湯にくぐらせて芯まで温める。「あつあつ」と呼ばれる、本場の讃岐うどんの食べ方だ。
水気をしっかりと切り、熱く熱した深い陶器の丼に麺を移す。
黄金色の出汁をたっぷりとかけ、先ほど切った九条ネギを中央に乗せる。最後に、半分に割ったゆで卵を添える。白身はプリッと弾力を持ち、黄身はトロリと濃厚なオレンジ色に輝いていた。
「食べなさい」
真二は、湯気を立てる丼を凛の前にそっと置いた。
いりこ出汁の深く優しい香りが、凛の鼻腔をくすぐる。
彼女は「いただきます」と小さく呟き、白木の箸を取った。
透き通ったつゆを一口すする。
いりこの力強い旨味と、昆布の丸みのある甘みが、冷え切っていた胃の奥底までじんわりと染み渡っていく。麺を啜れば、滑らかな舌触りの後に、押し返すような強いコシが歯を喜ばせる。シャキシャキとした九条ネギの香りが、完璧なアクセントになっていた。黄身を少しずつつゆに溶かすと、まろやかなコクが加わり、味に奥行きが出る。
理屈ではない。ただ純粋に、心と体を温めるためだけに計算し尽くされた、完璧な一杯だった。
「……美味しい」
凛の口から、微かな声が漏れた。
同時に、彼女の大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私、本当に、何も間違ったことはしてないのに……。ただ、言われた通りに一生懸命やってきただけなのに……どうして、あんな酷いことを言われないといけないんですか……」
美味しいものを食べ、真二の無言の優しさに触れたことで、張り詰めていた感情の糸が完全に切れたのだ。凛は箸を持ったまま、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
他人の痛みに敏感で、自分が我慢すれば丸く収まると信じて生きてきた純粋な魂。その善意を貪り食い、最後にはゴミのように捨てようとした翔太の醜悪さ。
真二は何も言わず、ただ静かに彼女の向かいの席に腰を下ろし、温かいほうじ茶を淹れた。彼女を抱きしめたり、安っぽい慰めの言葉をかけたりはしない。それは真二のやり方ではない。ただ彼女が食べ終わり、涙が枯れるまで、同じ空間で静かに寄り添うこと。それが彼なりの、最大の優しさだった。
(……許さない)
真二は、ほうじ茶の湯気の向こうで泣きじゃくる凛を見つめながら、自身の胸の奥で燃え盛る冷たい炎を確認していた。
すべてを奪い尽くす。彼らがすがりつく社会的地位、虚栄心、そして未来への希望。そのすべてを、最も残酷で滑稽な形で粉砕してやる。
真二の瞳に、すべてを凍りつかせるような死神の眼差しが戻った。




