第24話 女たちの晩餐
週末の夜。地上40階に位置するエレノア・スペンサーのタワーマンション。
床から天井まで届く巨大なガラス窓の向こうには、東京の夜景が光の海のように広がっていた。赤や白の車のヘッドライトが静かな川のように流れ、ビルの航空障害灯がゆっくりと明滅を繰り返している。普段であれば、分厚いガラスによって完全に遮音されたこの空間には、氷のように冷たく無機質な静寂だけが満ちているはずだった。
しかし今夜ばかりは、その静寂は色鮮やかな喧騒によって完全に塗り潰されていた。
「ほーら、レオ! 新しいプレゼントよ!」
広いリビングの中央で、クロエ・ルルーシュが弾むような声を上げた。彼女が持ち込んだ、大人がすっぽりと入れそうなほど巨大な段ボール箱から取り出されたのは、白木と天然の麻ロープで作られた、まるで現代アートのオブジェか高級家具のようなデザインのキャットタワー兼用の爪とぎだった。
佐野真二がジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げて手際よく数本のボルトを六角レンチで締めていく。金属が擦れる微かな音が響き、最後のパーツが組み上がると、ソファの隅でカシミアのブランケットに包まれていた茶トラの子猫――レオが、丸くなっていた体を解いて警戒するように首を伸ばした。
ピンと尖った耳を小刻みに動かし、ピンク色の小さな鼻をヒクヒクさせながら、レオは未知の物体にゆっくりと近づいていく。新しい木の香りと、麻ロープの独特の匂いを嗅ぎ、前足でチョンと触れる。麻のザラッとした感触が本能の奥底を刺激したのか、レオは突然、短い手足を大きく広げて太い円柱に抱きついた。
「バリッ、バリバリバリッ!」
小さな体からは想像できないほど力強い音を立てて、一心不乱に爪を研ぎ始める。背伸びをして全体重をかけ、麻の繊維に爪がしっかりと食い込む感触を確かめるように、何度も何度もその動作を繰り返した。
「ミャオ!」
一通り満足したのか、レオはクルリと振り返って短く鳴くと、床にしゃがみ込んでいた菊地凛のふわりとしたスカートの膝へと飛び込んだ。
「わあ、レオちゃん、すごく気に入ったみたいですね! 爪を研ぐ姿もとっても凛々しいです。クロエちゃん、わざわざありがとうございます」
凛が目を細めてレオの小さな頭を優しく撫でると、レオはゴロゴロと喉の奥でモーターのような音を鳴らし、気持ちよさそうに目を細めた。
「ふふっ。パパのカードで一番高くて見栄えのするやつを選んで大正解だったわ。あの子、すっかりお気に入りね」
クロエは得意げに笑い、レオの顎の下を指先でくすぐる。
その平和で温かな光景を、大西明日香は数歩離れた場所から無表情に見つめていた。彼女の冷徹な切れ長の目は、レオの動きの軌道や爪の長さを正確に計算しているようにも見えたが、その口元はほんのわずかに、氷が溶けるように柔らかく緩んでいた。
「……ずいぶんと、賑やかな週末になったな」
真二はアイランドキッチンの大理石のカウンターに寄りかかり、手元のペリエのグラスを静かに揺らした。炭酸の気泡がクリスタルガラスの底から立ち上っては消えていく。
本来、今日は来週以降に控えた神宮寺グループの役員定例報告会――佐々木翔太を社会的に抹殺する大舞台に向けた最終確認のため、特命室のメンバーである明日香と凛だけを呼んでいたはずだった。
しかし、クロエが「どうしてもレオに会いたい」と無邪気な顔をして押し入り、それに続くように、かつてない規模のイレギュラーたちがこの部屋に集結してしまっていた。
「本当ですね。私の静かな週末の予定が、完全に破壊されました。これほど他人のパーソナルスペースを軽視する方々だとは」
エレノアが、あからさまな溜息をつきながら真二の隣に並んだ。彼女はシックなブルーグレーのルームワンピース姿だったが、その同色の瞳は、リビングを占拠する「闖入者たち」を鋭く睨みつけている。
「そんな怖い顔しないでよ、お姫様。せっかくの祝杯の夜なんだから」
リビングの広大なダイニングテーブルでは、セレナ・デイヴィスが艶やかな笑みを浮かべていた。彼女が独断で手配した超高級ホテルのケータリングスタッフが、銀色のドームカバーを次々と外していく。トリュフの芳醇な香りが漂うリゾット、クリスタルボウルに盛られたキャビアとブリニ、美しく盛り付けられたオードブルの数々が並べ終えられ、スタッフたちは無言で一礼して退出していくところだった。
深紅のタイトドレスに身を包んだセレナは、よく冷えたシャンパンのボトルを手に取り、グラスに黄金色の液体を注いだ。繊細な泡が弾ける音と共に、彼女は真二に向かって挑発的にグラスを掲げた。
「ねえ、真二。こんな端っこで水なんて飲んでないで、私の隣に来なさいよ。今日のシャンパンは極上のヴィンテージを用意したわ。……それとも、私が直接あなたのグラスに注ぎに行ってあげようか?」
彼女の切れ長のアーモンドアイが、肉食獣が獲物を狙うように真二を舐め回す。
「ご厚意だけ受け取っておきます。今はアルコールを入れる気分じゃない」
真二が淡々と返すより早く、エレノアが一歩前に出た。
「私の部屋で、彼に対するはしたない振る舞いは控えていただきたいですね、デイヴィスさん。彼は私のパートナーです」
エレノアの左手の薬指で、真二が用意したエメラルドカットのダイヤモンドリングが、シャンデリアの光を反射して冷たく光る。
「あら。契約上の『お飾り』のくせに、随分と独占欲が強いのね。私は彼の実力に惚れ込んでるの。形だけの紙切れの契約なんて、ウォール街の資本の前では何の意味も持たないわよ」
「あー、セレナずるい! 私も真二の隣がいい!」
クロエが無邪気に割り込み、真二の空いている右腕にギュッと抱きついた。甘いフローラルの香水が、トリュフの香りに混ざってふわりと漂う。
「……室長のパーソナルスペースをみだりに侵すのは、業務の妨げになります。お離れください」
それまで沈黙していた明日香が、音もなく真二とクロエの間にスッと入り込んだ。彼女は無表情のまま、冷えた白ワインのボトルを布巾で拭くふりをして、物理的な壁を作り出している。
「ちょっと、あっちゃん邪魔! 私の特等席なのに!」
「大西です。馴れ馴れしく呼ばないでください」
火花を散らす女たちの中心で、真二は一切の表情を崩さず、ただ静かにペリエを一口飲んだ。凛だけが、「あわわ……皆さん、落ち着いて……」とオロオロしながら、膝の上のレオを抱きしめて部屋の隅で縮こまっている。
「ふふっ。相変わらず、どこにいても嵐の中心ね。共犯者さん」
カウンターの端で、ルシア・カルヴァーリョがレザージャケットのポケットから手を出し、気怠げに笑った。彼女は氷を入れたグラスにダークラムを注ぎ、その琥珀色の液体を傾けながら、面白そうに女たちの牽制劇を眺めている。
「主役が魅力的だからこそ、これだけ個性的な女優たちが集まるのよ」
窓際の重厚な革張りソファから、優雅に立ち上がったのはアリア・ローランだった。カリブの陽光を思わせる艶やかな肌に、黒のシックなセットアップ。彼女は長い手足を滑らかに動かし、テーブルの中央へと歩み寄った。
「さあ、美しい小競り合いはそこまでにして。私たちは今日、ある三流役者たちの『終幕』をプロデュースするために集まったんでしょう?」
アリアの言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が一瞬にして冷たく、そして鋭利なものへと変わった。
女たちの視線が、一斉にアリア、そして真二へと向けられる。真二を巡る恋の鞘当ては一旦脇に置かれ、彼女たちの奥底に眠る「捕食者」としての冷酷な連帯感が、ありありと顔を出したのだ。
「ルシア。昨日の夜の『泥水』の報告を」
真二の低い声に、ルシアはタブレットをテーブルの上に滑らせた。画面が発する青白い光が、彼女たちの顔を照らし出す。
「昨夜20時。結城麻衣が、佐々木翔太のマンションを訪れたわ。そして約20分後……」
画面が再生される。薄暗いマンションのエントランスの防犯カメラ映像。そこには、ブランドの紙袋を抱え、髪を振り乱して泣きながら飛び出してくる結城麻衣の姿がはっきりと映っていた。画質は荒いが、その顔に浮かぶ絶望と混乱は十分に見て取れた。
「私のちょっとしたお節介が効いたみたいね」
クロエが悪戯っぽく、しかし冷ややかに笑う。
「あの男、麻衣さんが真二の金で着飾ってるって知って、ちっぽけなプライドが粉々になってたもん。余裕がなくなった男なんて、女に八つ当たりするしか能がないわ」
「自業自得ね。他人の金で虚栄心を満たそうとするから、足元をすくわれるのよ」
セレナが吐き捨てるように言い、シャンパンを口に含んだ。彼女はグラスを置き、真二の方へ視線を向けた。
「私のダミー会社からの莫大な違約金請求、たった今、彼のデスクに届いた頃ね。彼に残された資金繰りの逃げ道は、もうどこにもないわ」
「それに合わせて、彼の社内システムへのアクセス権限をすべて凍結しました。もう誰も彼を助けられません」
明日香が、モニターに向かう時と同じ機械的な、一切の感情を交えない声で報告を重ねた。
「これで、彼らは完全に孤立した。頼れる人間も、逃げ込む場所もないわ」
アリアが、まるでオーケストラの指揮者のように両手を広げた。彼女の瞳には、これから始まる残酷なショーへの期待が燃えている。
「……ねえ、真二。このまま彼らを、暗闇の中で首をくくるまで静かに追い詰める? それとも」
アリアの挑戦的な視線に、真二はグラスを置き、氷のような絶対零度の微笑みを浮かべた。
「それは彼ら自身が決めることだ。俺はただ、彼らが積み上げてきた虚栄の塔を、最も見晴らしの良い場所で崩してやるだけだ」
真二の言葉には、前世で彼らに搾取され、過労死の淵で味わった血を吐くような絶望が、冷たく澄み切った虚無へと昇華された、圧倒的な重みがあった。
「あの……」
部屋の隅から、凛の細い声が響いた。
全員の視線が、一斉に凛へと集まる。凛は膝の上のレオを無意識に強く抱きしめ、おどおどと視線を泳がせていた。
「なんだか、少しだけ可哀想な気もします。あんなに、全部なくなっちゃうなんて……」
凛の純粋な善意の言葉に、部屋に一瞬の重く冷たい静寂が落ちた。
「菊地さん」
沈黙を破ったのは、明日香の冷たい声だった。
「彼らは、他人の優しさを喰い物にする寄生虫です。あなたが前の部署で先輩に仕事を押し付けられていたように、彼らは他人の人生を養分にして生きることに何の罪悪感も抱いていない。ここで同情すれば、また誰かが搾取されるだけです」
「……」
凛は言葉を詰まらせ、悲しそうに俯いた。
「大西の言う通りです」
エレノアが、静かに、しかし確かな威厳を持って凛を見た。その声には、巨大な組織の頂点に立つ者としての重圧が込められていた。
「彼らに与えられる罰は、彼ら自身が選んだ選択の結果でしかない。私たちはただ、彼らが犯した不正と欺瞞を、正当な明るみに出すだけ。……準備が整い次第、私が彼らの不正を告発し、武藤常務ごと切り捨てます」
「そう。だから、これは悲劇じゃないの」
アリアが、極上のワインを味わうように目を細めた。
「因果応報という名の、美しい喜劇なのよ。彼らが自分が悲劇のヒロインだと錯覚したまま、大観衆の前で最も滑稽に転げ落ちる。……その瞬間を、私たちが特等席で見届けるの」
真二は、アイランドキッチンのカウンターから、個性も思惑も異なる7人の女たちを静かに見渡した。
前世では持ち得なかった、これ以上ないほど強大で、そして危険な手札たち。
「……乾杯しよう」
真二が静かにペリエのグラスを持ち上げると、女たちもそれぞれのグラスを手に取った。シャンパン、白ワイン、ダークラム。様々な色の液体が、東京の夜景を背景に揺らめく。
「美しい執行のために」
クリスタルグラスが触れ合う、澄んだ冷たい音が、夜のタワーマンションのリビングに高く響き渡った。




