第23話 麻衣の誤算
午後3時。特命担当室の分厚い防音扉の奥では、今日も変わらず大西明日香の正確無比なタイピング音が響いていた。
「室長。アリア・ローランの仕掛けた『噂』は、想定以上の速度で営業部内に浸透しています」
明日香は3台の大型モニターから視線を外さず、淡々と報告した。画面には社内ネットワークから抽出された大量のログと、進行中のプロジェクトの承認フローが複雑なツリー状になって表示されている。
「現在、翔太主任が起案したD地区プロジェクト関連の決裁書は、法務部や経理部を含む関連部署のほぼすべてで意図的な『保留』扱いとなっています。また、彼が関わる定例会議への欠席率が昨日から急増。誰も直接的な非難はしていませんが、今の彼に関われば無用なトラブルに巻き込まれるという暗黙の了解が社内に形成されつつあります」
真二は革張りのソファに深く身を沈め、静かに頷いた。
「武藤常務の動きは」
「依然として沈黙です。翔太主任からの秘書室への架電も、すべてブロックされています。常務自身も、自身の派閥への延焼を防ぐため、翔太主任を切り捨てるタイミングを計っていると見て間違いありません。おそらく、今週末の役員定例報告会がデッドラインになるかと」
「順調だな」
真二は手元のタブレットをテーブルに置いた。
翔太の周囲は、見えない壁によって完全に隔離された。自分が有能であると信じて疑わなかった男が、今は誰も電話に出てくれない、誰も書類にハンコを押してくれないという、組織における真の恐怖を味わっている最中だろう。毒は完全に回り、翔太の周囲は真空地帯となった。あとは彼が酸欠で倒れるのを待つだけだ。
そこへ、給湯室から菊地凛が小走りで戻ってきた。手には小さな小皿と、温かいほうじ茶の乗ったトレイがある。
「佐野室長、大西さん。少し休憩にしませんか。これ、総務部の沖縄出身の方からいただいたお土産のお裾分けなんですけど……」
凛がテーブルに置いた小皿には、ゴツゴツとした茶褐色の塊がいくつか乗っていた。
「波照間島産の、純黒糖だそうです。なんでも、サトウキビの搾り汁をそのまま煮詰めた一番栄養があるやつで、疲れた頭にはチョコレートより効くからって、わざわざ持ってきてくれたんです」
「……ありがとう」
真二は一つ指でつまみ上げ、無造作に口に放り込んだ。
無骨で硬い表面が舌に触れた直後、それはほろりと脆く崩れた。精製された白砂糖にはない、雑味を含んだ濃厚なミネラルのコクと、少し焦がしたような深い甘みが一気に口の中に広がる。噛み砕くと、サリッとした独特の食感と共に、強烈な糖分が疲労した脳髄の奥底まで直接染み渡っていくのがわかった。
「美味しいですか?」
凛が期待を込めた目で見つめてくる。
「ああ。目が覚めるな」
真二はほうじ茶で甘みを流し込み、静かに息を吐いた。脳の疲労が引き、再び冷徹な思考がクリアに回り始める。
★★★★★★★★★★★
同じ頃。
結城麻衣は、銀座の高級カフェのテラス席で、冷めたダージリンティーのカップを苛立たしげに指先で弾いていた。
彼女の足元には、ハイブランドのロゴがでかでかと印字された重厚な紙袋がいくつも置かれている。今季限定のピンヒール、海外から取り寄せた肌触りの良いシルクのストール、そして予約困難な高級エステのVIPコースの領収書。すべて、真二から渡されたあの漆黒のクレジットカードで決済したものだ。
ブティックに入った瞬間、スタッフの態度が明らかに変わる。以前なら見向きもされなかったような奥のVIPルームに案内され、シャンパンを片手に担当者から新作を勧められる。会計時にあの黒いカードを出した時の、店員の恭しい眼差し。すれ違う客も、彼女の身なりを見て「裕福な女性」として道を譲ってくれる。金を使うたびに得られる絶対的な優越感は、間違いなく彼女の虚栄心を限界まで満たしていた。
しかし、彼女の心の中には、数日前から得体の知れない黒い不安が渦巻いていた。
麻衣はテーブルの上のスマートフォンを手に取り、LINEのトーク画面を開いた。
『真二、この靴すっごく可愛かったから買っちゃった! 今度これ履いて、フレンチ行きたいな』
写真付きで送ったそのメッセージに「既読」がついたのは、3時間後だった。
そして返ってきたのは、たった一言。
『似合うと思う。食事は今週時間が取れない。好きに行くといい』
それだけだ。
以前の真二なら、「可愛いね。君に絶対似合うよ。週末、どこか美味しいものでも食べに行こうか」と、スタンプや絵文字付きですぐに返信してきたはずだ。彼が急に羽振りが良くなり、限度額を気にしなくていい魔法のカードを渡してくれてから、確かに物質的な不満は完全に解消された。
しかし、真二の態度は、まるで精巧に作られたロボットのように温度がない。怒っているわけでも、冷たく突き放しているわけでもない。ただ、決定的に「無関心」なのだ。
自分が何を買おうが、何時に帰ろうが、真二は何も言わない。カードの利用明細が、かろうじて二人が繋がっていることを証明する唯一の証拠のような気がして、麻衣は背筋に冷たいものを感じた。
(……どうして? 私は真二のために、こうして綺麗にしてるのに)
自分の都合の良いように記憶を改ざんし、麻衣は唇を噛んだ。
私が綺麗になれば、真二はもっと私を愛してくれるはずだった。周りの男たちが私を見るような熱い視線を、真二も向けてくれるはずだった。それなのに、あの男は私がいくら着飾っても、まるで無機質な壁を見ているような目でしか私を見ない。
真二が離れていくかもしれない。あのブラックカードを取り上げられたら、今のこの贅沢な生活は一瞬で終わってしまう。
その恐怖を打ち消すように、麻衣はもう一つのトーク画面を開いた。
翔太だ。
彼なら、自分の価値を認めてくれる。以前のように甘い言葉で私を褒め称え、不安を埋めてくれるはずだ。最近彼も仕事が忙しいのか連絡が少ないが、直接会いに行けば喜んでくれるに違いない。
『翔太くん、今夜会えない? 翔太くんの家に行ってもいいかな』
送信ボタンを押し、麻衣は紙袋を抱えて立ち上がった。タクシーを拾い、翔太の住むマンションへ向かう。彼に甘え、自分がいかに愛されるべき存在であるかを確認しなければ、どうにかなってしまいそうだった。
★★★★★★★★★★★
午後8時。都内にある翔太のマンション。
玄関のドアが開いた瞬間、麻衣は鼻をつく酒の匂いに思わず顔をしかめた。
「……なんだ、お前か」
ドアから顔を出した翔太は、ネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを開けただらしない格好だった。普段は隙なく整えられている髪は乱れ、目の下には濃い隈ができている。かつて彼が纏っていた「優秀な若手エース」のオーラは微塵もなく、ただ疲労と焦燥感に苛まれた男の顔があった。
「翔太くん、どうしたの? すごいお酒の匂い……」
「別に。仕事でちょっと色々あるんだよ。……で、何の用だ」
翔太は麻衣を中に入れることもせず、ドアの枠に寄りかかったまま冷たく言い放った。
「何の用って……会いたかったからに決まってるじゃない。最近連絡もくれないし」
麻衣は不満げに唇を尖らせ、半ば強引に翔太の脇をすり抜けて部屋に入った。
リビングの惨状に、麻衣は思わず息を呑んだ。以前はモデルルームのように片付いていた部屋のテーブルには、缶ビールの空き缶と、乱雑に散らばった仕事の書類が散乱していた。床には丸められた企画書がいくつも転がり、ノートPCの画面はスリープ状態のまま放置されている。部屋全体に、重く淀んだ空気が漂っていた。
「おい、勝手に入るなよ。今日は疲れてるんだ」
「ちょっとくらい、いいじゃない。……ねえ、翔太くん。聞いてよ。最近、真二がすごく冷たいの。全然私に構ってくれないし、連絡しても適当な返事ばっかりで。私、すごく不安で……」
麻衣は翔太にすがりつくように近づき、その胸元に顔を埋めようとした。
しかし、翔太は麻衣の肩を乱暴に掴み、ドンッと突き飛ばした。
「……っ、痛い! 何するの!」
麻衣はよろけ、手からブランドの紙袋を取り落とした。中から、今日買ったばかりの高級な靴の箱が転がり出る。
翔太の目が、そのロゴを捉え、そして麻衣が着ている新作のワンピースへと向けられた。
彼の脳裏に、数日前のホテルのラウンジでクロエ・ルルーシュが放った言葉が鮮明に蘇る。
『その服もバッグも、翔太さんの金で買ったんじゃないわよね? 自分では買えないようなハイブランドを着込んで、真二の金で着飾って、その真二を裏切って別の男と密会なんて……すっごくスリルあって楽しそうね!』
「……お前、よく俺の前でそんなふざけたことが言えるな」
翔太の声は、低くドス黒い怒りに震えていた。
「え……?」
「その服。その靴。全部、真二の金で買ったんだろ? お前、俺の金じゃないもんで着飾って、それで俺に『真二が冷たい』って愚痴りに来たのか? 舐めるのも大概にしろよ!!」
翔太の怒声が、狭いリビングに響き渡った。
「ち、違うの! これはただ……」
「ただなんだよ! お前、真二が羽振りが良くなった途端にあのカードに群がって、俺のところには都合のいい時だけ来る。ただの寄生虫じゃねえか!」
その言葉は、麻衣の薄っぺらいプライドを鋭く抉った。
「なによそれ……! 翔太くんこそ、最近仕事がうまくいってないからって、私に八つ当たりしないでよ! 前は『俺が幹部になったらお前を一番いい思いさせてやる』って言ってたじゃない! なのに今は何!? ただの余裕のない小物じゃない!」
売り言葉に買い言葉。虚栄心と見栄だけで結びついていた二人の関係が、醜く剥き出しになっていく。
「小物だと……? ふざけるな! 俺が誰のおかげで……!」
「誰のおかげよ!? 真二にいいように使われてるだけじゃない! 真二がいなかったら、企画書一つまともに直せないくせに!」
言ってはいけない一言だった。麻衣自身も自覚のないまま放ったその言葉は、翔太が最も触れられたくない劣等感のど真ん中を貫いた。
翔太は顔を真っ赤にして麻衣に掴みかかろうとしたが、途中で思いとどまり、代わりにテーブルの上の空き缶を壁に向かって思い切り蹴り飛ばした。
ガシャアン!という鈍い音と共に、壁紙に茶色い染みが広がる。
麻衣は短く悲鳴を上げ、後ずさった。
「……出て行け」
翔太は荒い息を吐きながら、玄関の方を指差した。
「俺の視界から消えろ。二度と来るな」
その目は、完全に麻衣を拒絶していた。かつての甘い言葉や、優越感を共有した夜の記憶は、そこには微塵も残っていない。
「……最低」
麻衣は震える手で紙袋を拾い集めると、逃げるように翔太のマンションを飛び出した。
★★★★★★★★★★★
バタン、と背後で重い金属のドアが閉まる音がした。
麻衣はマンションの廊下に立ち尽くし、荒い呼吸を繰り返した。
頭の中が真っ白だった。翔太に拒絶された。あんなにも汚い言葉で罵られた。
エレベーターを降り、夜の冷たい空気が漂う外の通りへ出る。
街灯の光が、彼女の手元にある大量のブランド品の紙袋を照らし出している。
(私、これからどうすればいいの……?)
スマートフォンを握りしめるが、誰に連絡すればいいのかわからない。
麻衣は誰にも見られぬ夜の路地裏で、ブランドの紙袋を抱え込んだまま、ただ力なく立ち尽くすことしかできなかった。




