第21話 美しきプロデューサー
特命担当室の分厚い防音扉の奥は、今日も神宮寺グループ本社の殺伐とした空気から完全に隔絶されていた。空調の低く一定な駆動音に混じって、小さな鈴の音が「チリッ、チリン」と不規則なリズムを刻んでいる。
「ほーら、レオちゃん、こっちですよ」
部屋の隅、応接用のソファの前で、菊地凛が床に膝をつき、フェルトで作られた小さなボールを転がしていた。
生後1ヶ月を過ぎ、少しだけ足取りがしっかりしてきた茶トラの子猫――レオは、ピンと尖った耳を小刻みに動かし、丸い瞳でボールの軌道を追っている。そして、短い後ろ足をバネにして勢いよく飛びかかった。
しかし、勢い余ってフローリングのワックスでツルッと滑り、「ミャッ!」と短く鳴きながらそのまま部屋の奥へと滑っていく。
「ああっ、危ない!」
凛が慌てて声を上げるが、レオは器用に体勢を立て直し、デスク群の方へと転がっていったボールを素早く追いかけた。
ボールがコツンと靴のつま先に当たり、止まる。
レオはそこにそびえ立つ黒いパンツスーツの足を見上げ、「ミャウ」と小さく鳴いた。
3台の大型モニターを前に、目にも止まらぬ速さでタイピングをしていた大西明日香が、カタ、と手を止めた。画面上には膨大な数字の羅列と社内システムのアクセスログが、滝のように流れている。
彼女は視線を下げ、足元でボールを前足でチョイチョイとつついているレオを見つめた。氷のように無表情な彼女の顔からは、何を考えているのか読み取れない。
凛がオロオロしながら駆け寄ろうとしたその時。
明日香は無言のままスッと手を伸ばし、ボールをつまみ上げた。レオがそれに合わせて首を上に反らす。
明日香は手首のスナップだけを使い、正確無比な直線軌道で、凛の足元へとボールを弾き返した。
「ミャァ!」
レオが機敏に方向転換し、再びボールを追いかけて凛の胸元へと飛び込んだ。
「あはは、捕まえました! ……あっちゃん、コントロール抜群ですね」
凛がレオを抱き上げながら顔をほころばせると、明日香はすでにモニターへと視線を戻していた。
「入射角と摩擦係数を計算しただけです。業務の妨げにはなりません」
抑揚のない冷たい声だったが、その声色には微かな柔らかさが混じっているのを、凛は聞き逃さなかった。
少し離れたデスクでタブレット端末を見ていたエレノア・スペンサーも、その光景を横目で見つめ、フッと微かに口角を上げていた。
異国の地で、常に気を張り詰め、周囲のすべてを敵だと警戒してきたエレノアにとって、この特命室の穏やかな日常は、いつしか手放しがたいオアシスになりつつあった。
その時、重厚な防音扉が開いた。
「少し、遊びすぎだぞ」
入ってきた佐野真二は、咎めるような言葉とは裏腹に、極めて静かで落ち着いた声を出した。仕立ての良いダークスーツのジャケットを片手に持ち、もう一方の手で軽くネクタイを緩めている。
「あ、佐野室長、おかえりなさい! すみません、レオちゃんが元気いっぱいで」
凛が慌てて立ち上がる。
「構わない。大西の集中力が切れない程度にしておけ」
真二はソファにジャケットを置き、エレノアのデスクへと歩み寄った。
「予定通り、羽田に着いたそうです」
その言葉に、エレノアの瞳から安堵の光が消え、経営を担う役員としての鋭い光が戻った。
「そう。予定より早いわね。手配していたハイヤーには乗せたの?」
「ええ。直接、本社のエグゼクティブラウンジへ案内させています。あと20分ほどで到着するでしょう」
真二は腕時計を一瞥し、淡々と報告した。
翔太を社会的に抹殺し、逃げ場のない地獄へと突き落とすための包囲網。社内の証拠は明日香が固め、裏の金の流れはルシアが完全に把握した。そして今日、その材料を最も残酷な形で世間に晒すための「最後のピース」が盤面に加わる。
「行きましょう。彼女を待たせるわけにはいかない」
エレノアは立ち上がり、ジャケットを羽織った。
★★★★★★★★★★★
神宮寺グループ本社ビル、最上階。
限られた役員とVIPのみが立ち入りを許されるエグゼクティブラウンジは、眼下に東京の摩天楼を見下ろす豪奢な空間だった。分厚いペルシャ絨毯が足音を吸い込み、壁には本物の名画が飾られている。
真二とエレノアがラウンジの奥にあるプライベートルームに足を踏み入れると、そこにはすでに、周囲の空気を完全に支配している女が座っていた。
「久しぶりね、エレノア。相変わらず、少し肩に力が入りすぎているけれど」
アリア・ローラン。
フランスから招聘された、国際的なPRストラテジスト。
カリブ海の陽光を思わせる艶やかな浅黒い肌に、美しく手入れされたナチュラルなカーリーヘア。驚異的な小顔と長い手足は、まるでランウェイから抜け出してきたトップモデルのようだった。前衛的でありながらシックな黒のセットアップを涼しい顔で着こなし、テーブルの上に組まれた両手には、シルバーの無骨なリングが鈍く光っている。彼女が微笑むだけで、重厚なラウンジの空気が華やかで知的なものへと塗り替えられる。
「長旅お疲れ様、アリア。急な依頼を引き受けてくれて感謝するわ」
エレノアが席につきながら応じると、アリアは柔らかな微笑みを浮かべたまま、エレノアの左手に視線を落とした。
「お堅い氷のお姫様が、ずいぶんと急に結婚を決めたと聞いた時は驚いたけれど……とても美しい指輪ね。エメラルドカット。あなたの理知的で透き通った雰囲気にぴったりだわ。見立てた人のセンスの良さがわかる」
アリアの言葉は、単なるお世辞ではなく、相手が最も心地よく感じる音色とタイミングで放たれていた。警戒心の強いエレノアでさえ、その言葉にわずかに目元を和らげる。
「ありがとう。……今日あなたを呼んだのは、私が進めているD地区のプロジェクト、そして神宮寺グループ全体のPRとブランディング戦略を根本から見直すためよ。古い企業の埃を払い、世間にどう見せるべきか、あなたの力が必要なの」
「ええ、任せて。真実なんてものは、光の当て方1つでどうとでも変わる。世界がどう見るべきか、新しい物語を作ってあげるわ」
アリアは優雅に紅茶のカップを置き、エレノアの背後に静かに立っていた真二へと視線を移した。
「……そちらの方は?」
「私の特命担当室の室長、佐野です。今後の実務の窓口は彼が担当します」
「佐野真二です。よろしくお願いいたします」
真二が一礼すると、アリアの瞳の奥で、値踏みするような鋭い光が微かに瞬いた。
「……佐野真二さんね。ええ、よろしく」
しばらく事業の表向きな方向性について話した後、エレノアのスマートフォンが振動した。本社の専務からの呼び出しだった。
「申し訳ないけれど、少し席を外すわ。アリア、詳細なデータや現在の社内状況については、佐野から聞いてちょうだい」
エレノアが部屋を出て行き、重厚なドアが静かに閉まる。
ラウンジの個室には、真二とアリアの2人だけが残された。
沈黙が降りた瞬間、アリアの纏う空気がわずかに変化した。
社交的なコンサルタントの顔から、他人の人生を冷酷に切り貼りする「演出家」の顔へ。
「……ルシアから話は聞いてるわ」
アリアは足を組み替え、真二の顔を真っ直ぐに見つめた。
「あの子、最近すごく楽しそうに『泥水』を集めてるじゃない。ブラジルの裏社会で荒事をこなしてきたあの子が、日本のしがない営業マンの裏口座探しに夢中になるなんて、珍しいことよ。……あなたがどれだけ面白い男なのか、実際に見てみたかったの」
「彼女の仕事の早さには助かっていますよ。おかげで、ターゲットの足元は完全に掘り崩すことができた」
真二は表情を変えることなく、淡々と返した。
「泥水は集まった。でもね、真二。それをそのままぶちまけるだけじゃ、ただの汚いスキャンダルで終わっちゃうわよ」
アリアは指先でテーブルをトントンと叩く。
「大企業ってものは、臭いものに蓋をするのが得意なの。佐々木翔太の裏金も、結城麻衣との不倫も、そのまま暴露すれば会社が適当に処理して、彼らは末端でこっそり切り捨てられるだけ。少し経てば、誰も彼らのことなんて覚えていない。……あなたの望みは、そんな退屈な結末じゃないんでしょ?」
アリアは身を乗り出し、真二の深く淀みのない暗い瞳を覗き込んだ。
「いい目をしてるわ。絶望の底を知っていて、それでも自分の足で立っている人間の目。……あなたこそ、私が求めていた最高の被写体よ」
「俺は裏方です。被写体になる気はない」
真二は冷たいコーヒーを一口飲み、静かに拒絶した。
「ふふっ。主役じゃなくてもいいわ。でも、あなたの描く復讐劇、私が『最高のショー』としてプロデュースしてあげる」
アリアの瞳が、劇的な展開を思い描いて熱を帯びる。
「佐々木翔太と結城麻衣。あの三流役者たちが、自分は悲劇のヒロインだと錯覚したまま、大観衆の前で最も滑稽に転げ落ちるシナリオを、私が書いてあげる。……ただ破滅させるだけじゃない。社会的信用も、彼らがすがっている虚栄心も、完膚なきまでに破壊するのよ」
「具体的には、どう動くつもりですか」
真二の低い声に、アリアは満足げに微笑んだ。
「まずは、彼がまとっている『有能な若手』というメッキを少しずつ剥がしていくわ」
アリアは空中で見えない糸を操るように、細い指先を優雅に動かした。
「彼は今、自分が周囲から称賛され、期待されていると信じ込んでいる。その足元の絨毯を、ゆっくりと引き抜くの。小さな疑惑の種を蒔いて、気づいた頃には社内中の人間が彼を遠巻きにしているようにね」
「疑心暗鬼を生むわけか」
「ええ。武藤常務だって、周囲の疑念が深まった人間をいつまでも自分の神輿には乗せておけない。外堀を埋め、彼から『信用』という武器を完全に奪い取る。そして彼が最も高い場所でスポットライトを浴びた瞬間……その光が、彼の醜い不正だけを照らし出すように仕掛けるの」
真二の脳内で、盤面が完全に組み上がっていくのを感じた。
これまで個別に動かしてきた無数の刃が、アリアという指揮者を迎えたことで、ターゲットの喉元へと寸分違わず収束していく。
「……悪くない」
真二はグラスをテーブルに置き、初めて口角をわずかに上げて、氷のような微笑みを見せた。
「武藤常務にも言い逃れを許さず、翔太と麻衣を完全に孤立無援の死地へと誘導する。彼らが頼りにしていた全てのものが、彼らを嘲笑いながら離れていくように」
「そういうこと。ルシアが集めた証拠は、最高のタイミングで私が最も美しい花火にして打ち上げてあげる。……どう? 私のプロデュース、受けてみる?」
アリアは挑戦的に、右手をテーブルの上に差し出した。
真二は躊躇なくその手を取り、しっかりと握り返した。
「歓迎します、ローランさん。最高の舞台を用意しましょう」
「アリアでいいわ、真二。これから私たちは、共犯者なんだから」
アリアはカリブの太陽のように鮮やかに、そして背筋が凍るほど冷酷に笑った。
ラウンジの窓の外では、東京の街が白々とした昼の光に照らされている。
翔太と麻衣が、自分たちの足元がすでに完全に崩れ去っていることに気づく日は、もうすぐそこまで迫っていた。




