第20話 役者は揃った
バスルームに響くシャワーの低い水音が、換気扇の一定の駆動音と混ざり合い、密室の空気を白く染め上げている。
温度を高めに設定したシャワーヘッドから降り注ぐ熱い湯が、佐野真二の広く厚い背中を容赦なく打ち据え、疲労した筋肉の強張りを少しずつ解していく。特命担当室での張り詰めた空気、冷徹な盤面を動かし続ける神経のすり減り、そして何より、自分を陥れた者たちへのどす黒い憎悪を常に理性で押さえつける重圧。それらが、流れ落ちる湯とともにわずかに洗い流されていくような感覚があった。
大きく息を吐き出す。前世で死の直前に味わったあの胸を貫くような激痛の記憶は、今でも時折、真二の心臓を冷たく鷲掴みにする。だが、その恐怖すらも、今の彼には復讐という業火を絶やさぬための上質な薪でしかなかった。
その時、すりガラスのドアの向こうで、微かな音がした。
カリカリ、カリカリ。小さな爪でドアの表面を引っ掻く、リズミカルな音。それに続いて、細く高い声が響く。
「……ミャ……ミィ……」
真二はシャワーを止め、濡れた髪を無造作に後ろに掻き上げた。水音が消えると、そのか細い声はより鮮明に、どこか切迫した調子で聞こえた。
ドアのノブに手をかけ、少しだけ隙間を開ける。
足元の脱衣所のマットの上に、数日前に拾ったばかりの茶トラの子猫――レオが、ちょこんと行儀良くお座りをしていた。
ドアが開いて流れ出た白い湯気に驚いたのか、ピンと尖った耳を後ろに反らし、大きな丸い瞳を瞬かせている。しかし、真二の大きなシルエットを認めると、短い尻尾をピンと立てて「ミャッ」と短く鳴き、トコトコと浴室の濡れたタイルに足を踏み入れようとした。
「こっちは濡れるぞ。やめておけ」
真二が低い声で窘めるが、レオは意に介さない。ピンク色の小さな鼻をヒクヒクさせながら、真二の濡れた足首にすり寄ろうと前進を続ける。だが、タイルの上の水たまりに前足が深く入った瞬間、「ミャッ!?」と驚いたように短く鳴き、慌てて足をブルブルと振って後ずさった。
その不器用で愛らしい仕草に、真二の口元が自然と緩んだ。
「だから言っただろう」
真二はしゃがみ込み、濡れていない大きな手のひらでレオの柔らかな腹の下をそっとすくい上げ、脱衣所の乾いたマットの上に戻してやった。レオは不満そうに真二の指先に短い爪を立てて甘噛みするふりをしたが、すぐに喉をゴロゴロと鳴らし、真二の手のひらに小さな頭を擦り付け始めた。
「……佐野。いい加減に出ないと、湯冷めしますよ」
リビングの方から、少し硬い声が響いた。
真二は腰にバスタオルを巻き、手早く髪を拭きながらリビングへと足を踏み入れた。
エレノア・スペンサーは、ダイニングテーブルでタブレット端末を前にしていた。画面を見つめるふりをしているが、その視線は明らかに宙を泳いでおり、真二が歩み寄ると微かに肩を強張らせた。
「レオの夜泣きの原因が、俺の不在だと聞いたものでね。少し長居しすぎたか」
真二は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、静かに言った。
「……別に、構いません。あなたがいないとこの子が落ち着かないのは事実ですし」
エレノアは視線をタブレットに向けたまま、早口で返した。
「それにしても、あなたのその無防備な格好は……ここは私の部屋だと理解していますか」
「すまない。着替えを洗面所に置き忘れた」
真二は一切の動揺を見せず、グラスに水を注いだ。その冷静な態度に、エレノアは小さく息を吐き出し、ようやく視線を真二に向けた。
「……セレナ・デイヴィスからのオファーは、どうするのですか。彼女の資金力があれば、あなたが私という盾に頼る必要すらなくなるのでは」
彼女の声の奥底には、隠しきれない不安が微かに滲んでいた。
真二はグラスをテーブルに置き、彼女のブルーグレーの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「俺は誰の手駒にもならないと言ったはずだ。彼女の資本は利用するが、俺の盤面の中心はここだ。……あなたの左手の薬指が空かない限りはね」
エレノアは無意識に、左手の薬指で冷ややかな光を放つダイヤモンドリングに右手を添えた。真二の低い声と、その瞳の奥にある確かな温度が、彼女の張り詰めていた警戒心を静かに溶かしていく。
足元で、レオが「ミュー」と鳴いてエレノアのストッキングにすり寄った。
「……本当に、調子のいい男ですね」
エレノアはそう呟き、レオの小さな頭を撫でるために視線を落とした。その口元には、安堵の入り混じった微かな微笑みが浮かんでいた。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。
特命担当室の分厚い防音扉の奥では、大西明日香の正確無比なタイピング音が、冷徹なリズムを刻んでいた。
「室長。佐々木主任が先ほど、例の新興物流企業『アペックス』との基本合意書に電子サインを行いました」
モニターから一切目を離さず、明日香が抑揚のない声で報告した。彼女の瞳には、画面のコードの羅列だけが冷たく反射している。
「法務部の正式な承認プロセスを迂回する、武藤常務の『特命決裁ルート』を使用しています。予想通り、彼は自身の功績を急ぐあまり、安全確認を完全に怠りました」
ソファに深く腰を下ろしていた真二は、手元のタブレットをテーブルに置いた。
「ログの隔離は」
「完了しています。彼が承認ボタンを押した瞬間のシステムログ、アクセス元のIP、そして彼個人のID認証記録を確保しました。このデータはすでに本社側の基幹システムから完全に切り離され、不可逆の暗号化を施した別階層のサーバーに保存されています。これにより、この契約の責任がプロジェクト本体やエレノア役員に及ぶことは、システム上あり得ません。言い逃れは不可能です」
「完璧だ」
真二が短く応じた直後、内ポケットのスマートフォンが短く振動した。
暗号化されたメッセンジャーアプリ。送信者はルシア・カルヴァーリョだった。
送られてきたのは、数個の圧縮ファイルと短いメッセージ。
『お待ちかねの泥水よ。佐々木翔太の隠し口座の全容、それに武藤常務の派閥が裏で使っているペーパーカンパニーの送金履歴。すべて紐付けたわ。あの男、思ったより小賢しい手を使っていたけど、私の前じゃガラス張りの金庫と同じね』
真二はすぐにファイルをダウンロードし、手元のタブレットで展開した。
画面に表示されたのは、海外の銀行口座を経由した複雑な資金洗浄のルートと、佐々木翔太の個人口座へと流れ込んでいるキックバックの明細だった。
「大西。ルシアからのデータを受信しろ。お前が社内システムから抽出したアペックスへの異常な発注記録と、この裏口座の入金タイミングを照合するんだ」
「了解しました」
明日香のモニターに新たなデータが流れ込む。彼女の指先がキーボードの上で目にも止まらぬ速さで踊り、数千行に及ぶデータが瞬時にソートされ、グラフ化されていく。
「……見事な一致です」
数分後、明日香が静かに報告した。
「アペックスへの発注書の起案日と、翔太主任の裏口座への入金日が、完全に連動しています。社内の発注記録と、社外の金の流れ。この二つが物理的に結びついたことで、彼が私腹を肥やすために会社に不利益な契約を独断で結んだという『動かぬ証拠』が完成しました」
「これで、武藤常務も彼をトカゲの尻尾切りにはできない。言い逃れの余地はないな」
真二の瞳の奥で、冷たい炎が静かに燃え上がった。
さらに、スマートフォンの画面が再び点灯した。今度は、セレナ・デイヴィスからの着信だった。
「俺だ」
『……随分と素っ気ないのね。せっかく私が極上のニュースを持ってきたっていうのに』
電話の向こうから、セレナの艶やかな笑い声が聞こえる。
「翔太がサインした契約のことか」
『ええ。あの底の浅い男、焦って飛びついた先のアペックスが、うちのファンドが裏で出資してるダミー会社だとも気づかずにハンコを押したわ。違約金条項には、神宮寺の法務が絶対に見抜けないような毒をたっぷりと盛ってある。彼が契約を破棄しようとすれば莫大な賠償金が発生し、履行すればするほど赤字が膨らむ仕組みよ』
セレナの言葉には、圧倒的な資本力を背景にした無慈悲な余裕があった。
『これで、彼の退路は完全に断たれた。資金面での逃げ道はもう一つも残っていないわよ。……私への感謝は、どういう形で表してくれるのかしら?』
「感謝する。あなたの完璧な包囲網のおかげで、彼の被害額が確定した」
真二は彼女の挑発的な言葉をあっさりと受け流し、通話を切った。
「佐野室長、お茶が入りました。今日は少し肌寒いので、温かい玄米茶です」
給湯室から、菊地凛がお盆に乗せた湯呑みを運んできた。彼女の裏表のない笑顔と、香ばしい玄米茶の香りが、特命室の殺伐とした空気を中和する。
「ありがとう、菊地」
真二は湯呑みを受け取り、その温もりを掌で感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
エレノアが自身のデスクから顔を上げ、真二を見つめる。
「……役者は揃った」
真二の静かな声が、防音扉に閉ざされた空間に響き渡った。
「これで、彼から資金と逃げ道は完全に奪い取った。……だが、これだけでは足りない」
真二は湯呑みをテーブルに置き、窓の外に広がる東京のコンクリートジャングルを見下ろした。厚い雲の切れ間から、冷ややかな光が差し込んでいる。
「次は、彼の『優秀な若手リーダー』という張りボテの評判を、外から少しずつ削り落としていく。外堀を完全に埋め、誰からも見放された孤立無援の状態に追い込む」
エレノアのブルーグレーの瞳が、鋭く細められた。
「彼に、自ら死刑台の階段を登らせるのですね」
「ええ。中途半端な高さから落としても、致命傷にはなりませんから」
真二はガラス越しに、遥か下を流れる車のライトの帯を見据えた。
「彼が最も高い場所から、自らの栄光を誇ろうとしたその瞬間に、足元の土台が完全に崩れ去っていることに気づかせる。……そのための、最高の『演出家』を呼ぶとしよう」
その唇に浮かんだのは、一切の感情を削ぎ落とした、絶対零度の微笑みだった。




