第19話 エレノアの嫉妬
特命担当室の分厚い防音扉の奥は、外部で繰り広げられている熾烈な社内政治の喧騒から完全に切り離され、奇妙なほど穏やかで静謐な空気に包まれていた。
空調の低く一定な駆動音が微かに響く中、午後の柔らかな日差しが、応接用のソファスペースを明るく四角く切り取っている。
佐野真二は仕立ての良いダークスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を肘までまくり上げた状態で、革張りのソファに深く腰を下ろしていた。
その幅広でがっしりとした膝の上には、数日前に拾われたばかりの小さな茶トラの子猫――レオが乗せられている。
「ミャウ……ミャァァ……ッ!」
レオは不満げに細く高い声を上げ、真二のホールドからなんとか逃げ出そうと、短い手足をバタバタとジタバタ動かしていた。丸い瞳は警戒心でいっぱいになり、ピンと尖った耳を後ろに反らしている。
「暴れるな。すぐ終わるから、大人しくしていろ」
真二は低く落ち着いた声でなだめながら、大きな左手でレオの小さな体を背後からすっぽりと包み込むようにホールドした。彼の右手には、ペット用の小さなハサミ型爪切りが握られている。
「佐野室長、私がちゅーるで気を引きますね」
ローテーブルを挟んで向かいにしゃがみ込んだ菊地凛が、レオの鼻先にスティック状の猫用おやつを少しだけ絞り出した。濃厚な魚の匂いが漂うと、レオの鼻がピクピクと動き、抗いがたい誘惑に負けたようにペロペロと小さな舌を出し入れし始める。
真二はその一瞬の隙を逃さなかった。
レオの右前足をそっと持ち上げ、親指と人差し指の腹で、柔らかいピンク色の肉球をわずかに圧迫する。
すると、毛の中に隠れていた半透明の鋭い爪が、押し出されるようにしてスッと姿を現した。真二の目は鋭く細められ、爪の根元に通っているピンク色の血管――クイックと呼ばれる部分を慎重に避けながら、先端の白く尖った部分だけをパチン、と正確に切り落とした。
「……上手いものですね」
数メートル離れた自身の広大なデスクから、エレノア・スペンサーがその様子を静かに見つめていた。
彼女の手元にある最新のタブレットには、本社から送られてきた膨大な決算資料と今後の事業計画書が表示されている。しかし、彼女の視線はいつの間にか、無機質な数字の羅列から離れ、真二の無駄のない滑らかな手つきへと移っていた。
「昔、実家で猫を飼っていた時期があってね。子猫のうちは爪の出し入れがうまくコントロールできないんだ。放っておくと、カーペットの繊維や人間の服に引っ掛けて、爪が折れたりパニックになって怪我をする」
真二は手元のレオから一切視線を外すことなく、淡々と答えた。パチン、パチンと、静かな室内にリズミカルな音が響く。彼は手際よく右前足を終わらせ、次は左前足へとスムーズに移行していく。
「はい、終わりだ」
最後の一本を切り終え、真二が左手のホールドをスッと解くと、自由になったレオは「ミャッ」と短く鳴いて、向かいにしゃがんでいた凛の膝へと逃げ込んだ。
「レオちゃん、よく頑張りましたね。えらいえらい」
凛がホッとしたような笑顔を浮かべ、レオの小さな頭を優しく撫でるのを見届け、真二は爪切りをテーブルの上に置いた。
エレノアは、その平和な光景に胸の奥で微かな安堵を覚えていた。
社内での真二は、冷徹な知略で敵の退路を断ち、自分たちを陥れようとする寄生虫たちを容赦のない死地へと追い詰める恐ろしい男だ。大西明日香の構築するシステムを通じ、彼がどれほど緻密で残酷な罠を仕掛けているか、エレノアは正確に把握している。
しかし、こうして小さな命の世話を焼き、不器用な凛のフォローをさりげなくこなす姿には、地に足のついた確かな体温があった。彼が完全な「復讐の機械」ではないという事実が、張り詰めていた彼女の心を少しだけ休ませてくれる。
その心地よい静寂は、突然の電子音によって乱暴に破られた。
「エレノアお姉様! 真二! 遊びに来たわよ!」
特命室の重厚な扉が勢いよく開き、クロエ・ルルーシュが弾むような足取りで飛び込んできた。
インターナショナルスクールの見学帰りだという彼女は、ハイブランドのチェック柄プリーツスカートに、少しだけオーバーサイズのカーディガンを羽織っている。計算され尽くした無造作感のあるスタイルだった。太陽の光をたっぷり浴びたような美しいブロンドヘアが揺れ、彼女が動くたびに、甘く華やかなフローラル系の香水の香りが、部屋の空気を一瞬にして鮮やかに塗り替えた。
「クロエ。ここは神宮寺グループの心臓部ですよ。遊び場ではありません」
エレノアがこめかみを指で押さえながら呆れたように窘めたが、クロエは全く意に介する様子もなく、ソファに座る真二の隣にドスンと遠慮なく腰を下ろした。
「固いこと言わないの。一階の受付のおじさんには『エレノア役員の妹分です』ってとびきりのウィンクをしたら、デレデレしてすぐ通してくれたわよ」
クロエはそう言って悪戯っぽく笑うと、極めて自然な動作で、真二のまくり上げられた右腕に自分の細い腕を絡ませた。
「ねえ真二、この後暇でしょ? 表参道に新しくできたカフェ、付き合ってよ。私、日本の電車の乗り換え、まだよくわからなくて迷子になっちゃうかも」
下から上目遣いで覗き込んでくる、ヘーゼル色の大きな瞳。17歳という年齢特有のあどけなさと、生まれ持った強烈な色香が混在する、無自覚な暴力だった。
「悪いが、まだ就業時間中だ。エスコートなら、君の父親の取り巻きにでも頼むといい」
真二は表情を一切変えずに自分の腕をスッと抜き、テーブルの上に置かれていた資料を手に取った。冷たいほどの拒絶だったが、クロエは少し口を尖らせただけだった。
「つれないなぁ。……あっ、リンリン! レオ見せて!」
クロエはすぐに標的を変え、凛の膝で丸くなろうとしていたレオのもとへ小走りで向かった。「クロエちゃん、気をつけてくださいね、今爪切ったばかりなので」とオロオロする凛をよそに、クロエは無邪気にレオを抱き上げ、頬ずりをする。
エレノアは、クロエが真二の腕に触れた瞬間に胸の奥でチリッと鳴った不快な音を、深く息を吐き出すことで無理やり押さえ込んだ。
ただの妹分だ。彼女の天真爛漫で物怖じしない性格は昔から知っている。いちいち過敏に反応するようなことではない。自分と真二はあくまで契約で結ばれた関係であり、それ以上の感情を差し挟む権利などないのだ。
そう理屈で自分に言い聞かせ、再びタブレットに視線を落とそうとした、その時だった。
「……随分と賑やかなオフィスね。ここは託児所かしら?」
開いたままになっていた扉の向こうから、低く、甘く、そして圧倒的な自信に満ちた声が響いた。
コツ、コツ、という鋭いヒールの足音と共に現れたのは、セレナ・デイヴィスだった。
艶やかなブロンズ肌を包むのは、ボディラインを完璧にトレースする真紅のタイトなスーツ。彼女が足を踏み入れた瞬間、特命室の空気がピリッと張り詰めた。クロエの放つ無邪気な華やかさとは全く違う、獲物を狙う肉食獣のような、生々しく攻撃的な大人の女の色気。彼女の纏うスパイシーで重厚な香水の香りが、クロエの甘い香りを一瞬で駆逐していく。
部屋の奥のモニター群に向かっていた明日香のタイピング音がピタリと止まり、彼女の切れ長な目が鋭くセレナを捕捉した。
「……セレナ・デイヴィス。ウォール街のファンドエージェントが、アポイントもなしに何の用ですか」
エレノアはゆっくりと立ち上がり、冷徹な視線で相手を睨み据えた。
「アポならちゃんと取ってあるわよ。神宮寺の財務担当役員とね」
セレナはエレノアの視線を意に介する様子もなく、余裕の笑みを浮かべてゆっくりと部屋の中央へ歩み寄った。
「D地区プロジェクトの今後の資金調達について、少し『前向きな』提案をしてきた帰りよ。……でも、私の本当の目的はこっち」
セレナの視線が、エレノアを通り越し、ソファから静かに立ち上がった真二へと固定された。
「ごきげんよう、私の優秀な協力者さん。昨夜はよく眠れた?」
セレナは真二のパーソナルスペースへ一切の躊躇なく踏み込み、その端正な顔を至近距離から見つめた。彼女の赤いマニキュアが塗られた長い指先が、真二の少し緩んでいたネクタイの結び目にそっと触れる。
「……少し、歪んでるわよ」
それは、ただの挨拶ではない。明確なマーキングであり、この部屋にいる他の女たちに対する挑発だった。
真二は表情を崩さず、しかし彼女の指先を振り払うこともしなかった。
「提案書は通りましたか」
「ええ。あなたが予見した通り、あの底の浅い男は上層部に値上げを隠して、自分の首を絞める裏ルートに走り始めたみたいね。佐々木翔太の逃げ道は、これで完全に塞がれたわ」
セレナは満足そうに微笑むと、さらに一歩距離を詰め、唇を真二の耳元に寄せた。誰にも聞こえない、しかしその親密さが痛いほど伝わる距離での囁き。
「ねえ、この後、私のホテルに来ない? 祝杯を上げましょう。とびきりのヴィンテージワインを開けて待ってるわ」
その息遣いすら感じさせる親密すぎる距離感と、真二がそれを拒絶せずに受け入れているという事実に、エレノアの頭の中で何かが音を立てて弾け飛んだ。
「……離れなさい」
気がつけば、エレノアは声を発していた。
自分でも驚くほど、低く、冷たく、そして明確な怒りの熱を孕んだ声だった。
セレナが、面白そうに振り返る。
「あら。お姫様、何か問題でも?」
「ここは神宮寺グループの執務室です。部外者が、私の直属の部下にみだりに接触することは許可しません」
「部下? ふふっ」
セレナは喉の奥で艶やかに笑い、ようやく真二のネクタイから手を離した。
「彼をただの『部下』だと思っているなら、ひどく目が節穴ね。彼は誰の所有物でもない。……私ですら手こずるくらい、底が知れない男よ」
セレナのその余裕のある態度は、エレノアの呼吸をわずかに乱した。心臓が不快なリズムで高鳴り、視界の端が熱くなる。論理で武装してきた彼女の理性が、得体の知れない強烈な感情によって焼き切られそうになっていた。
取られる。
自分の手の届かない場所へ、彼が連れ去られてしまう。
「……関係ありません」
エレノアは無意識のうちに一歩前に踏み出し、真二の隣に立った。
そして、真二の右腕を両手でしっかりと掴んだ。
「彼は、私のパートナーです」
エレノアの左手の薬指で、真二が選んだエメラルドカットのダイヤモンドリングが冷ややかな光を放った。
「私が日本にいる限り、彼が私以外の人間と手を組むことも、特別な関係になることもありません。彼もそれに同意しています。……お引き取りください、デイヴィスさん」
それは、彼女が役員としてではなく、一人の女として発した、不器用で強烈な独占欲の塊だった。
掴まれた腕から伝わる、彼女のわずかな震え。
真二は視線を落とし、自分にしがみつくエレノアの白い指先を見つめた。氷のように冷たかった彼女の手が、今は熱を帯び、縋るように力を込めている。
部屋の空気が完全に凍りついた。
好奇心旺盛なクロエでさえ、エレノアの初めて見る激情に圧倒され、レオを抱いたまま目を丸くして押し黙っている。
数秒の重苦しい沈黙の後。
セレナは、「はぁ」と大げさな溜息を吐いた。
「……つまらないわね。氷のお姫様が、そんな必死な顔で男にしがみつくなんて」
セレナは挑発的な笑みを消し、つまらなそうに肩をすくめた。
「いいわ。今日のところは引き下がってあげる。でも、真二」
セレナの切れ長な瞳が、最後に真二を射抜いた。
「私のオファーは生きているわよ。退屈になったら、いつでも来なさい」
ヒールの音を高く響かせ、セレナは特命室を後にした。
「……あー、私、なんだかお邪魔みたいだし、帰るね! またね、リンリン! レオ!」
気まずい空気を察したクロエも、逃げるように足早に部屋を飛び出していった。
バタン、と重い防音扉が閉まる。
再び、外部の音が完全に遮断された静寂が特命室に戻ってきた。
奥のデスクでは、明日香が何事もなかったかのようにモニターに向かい、規則正しいタイピングを再開している。凛はオロオロと視線を泳がせながら、手元のレオをそっとケージに戻した。
エレノアは、真二の腕を掴んだまま、俯いて立ち尽くしていた。
自分が今、どれほど感情的で、見苦しい振る舞いをしたか。論理と理性を何よりも重んじてきた彼女にとって、それは敗北に等しい行為だった。
「……失礼しました」
エレノアは弾かれたように真二の腕から手を離し、顔を背けた。
「少し、頭が冷えていませんでした。あのような外部の人間に、社内の人間を勝手に引き抜かれるわけにはいきませんので……」
言い訳がましい言葉が、乾いた空気に溶けていく。
真二は何も言わず、ただ静かに彼女の横顔を見つめていた。
「謝る必要はありません」
真二は低く、落ち着いた声で言った。
「あなたは、俺の雇用主であり、俺のパートナーだ。その主張は間違っていない」
エレノアが、ハッと息を呑んで顔を上げた。
真二の瞳には、感情的になった彼女を嘲笑うような色も、困惑もなかった。ただ、深い海のように静かで、すべてを包み込むような大人の余裕があった。
「……っ」
エレノアは唇を強く噛み、足早に自身のデスクへと戻った。
椅子に深く座り、タブレットの画面に視線を落とす。しかし、そこに並ぶ細かい数字は一つも頭に入ってこなかった。
自身の左手の薬指で光る指輪。
エレノアは、自身の内で確かに溶け始めた氷の冷たさと、心臓を焦がすような熱を持て余し、ただ小さく、誰にも聞こえない息を吐いた。




