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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第18話 忠犬と小動物

 水曜日の午後2時。

 真二とエレノアは月例の経営会議に出席しており、分厚い防音扉に守られた特命担当室には、大西明日香と菊地凛の2人だけが残されていた。

 空調の低く一定な駆動音と、明日香が叩き出す正確無比な打鍵音だけが、外部から完全に遮断された静謐な空間を満たしている。神宮寺グループという巨大な組織の喧騒から切り離されたこの部屋は、まるで深海に沈む潜水艦のように静かだった。


 部屋の奥、エレノアの配慮で目隠しのパーティションが立てられた一角には、上質なカシミアのブランケットが敷かれたケージが置かれている。その中から、か細く甘えるような鳴き声が聞こえた。


「ミャ、ミュー……」


 数日前に真二が保護した茶トラの子猫、レオだ。

 まだエレノアのマンションで一人きりで留守番をさせるには幼すぎるため、日中はこうして特命室へとこっそり同伴出勤している。


 凛が自席のデスクから立ち上がり、足音を忍ばせながら小走りでケージに向かった。


「レオちゃん、お目覚めですか。ミルクの時間ですね」


 凛がそっとケージの扉を開けると、レオはまだ覚束ない足取りでよちよちと這い出し、凛の膝によじ登ろうと小さな爪を立てた。柔らかいピンク色の肉球が必死に空を掻く。

 凛が専用のシリンジで人肌に温めたミルクを口元に運ぶと、レオは小さな前足でシリンジを抱え込むようにして、目を細めながらゴクゴクと喉を鳴らし始めた。時折、小さな鼻をヒクヒクさせ、ミルクの雫が髭についている。その必死で愛らしい姿に、凛の口元が自然と綻んだ。


「ゆっくりでいいですよ。いっぱい飲んで、大きくなってくださいね」


 レオの温かい体温が膝越しに伝わり、凛の胸の奥にじんわりと優しい感情が広がっていく。


 一方、明日香の視線は3台の大型モニターから1ミリも外れていなかった。

 画面に並んでいるのは、ルシアから提供されたトランザクション履歴と、社内の予算執行ログだ。彼が承認ボタンを押した瞬間、裏金のダミー口座と彼の個人IDを完全に紐付けるための、最後のトラップ構築。

 複雑なアルゴリズムの構築と、監査の目をすり抜けるためのバックドアの設置。数千行に及ぶコードの最適化と、予期せぬエラーを回避するためのフェイルセーフの組み込み。膨大な変数を頭の中で同時に処理し続け、脳の糖分が急速に枯渇していくのを感じる。こめかみの奥が鈍く脈打っていた。

 しかし、明日香のタイピング速度は一切落ちない。彼女にとって、佐野真二からの命令は絶対だ。彼が描く冷酷な盤面を、物理的なシステムの上で完璧に具現化する。それが、自分を無能な寄生虫たちの下から救い出してくれた主君への、唯一の恩返しだからだ。


 ターンッ、と強くエンターキーを叩き、一つのモジュールをコンパイルする。黒い画面上で文字列が滝のように流れ、最後に「Process Completed」の緑色の文字が点灯した。


 その時、真横にふわりと甘く芳醇な香りが漂ってきた。


「大西さん、少し休憩にしませんか」


 視線を向けると、トレイを持った凛が立っていた。淹れたてのダージリンティーの湯気が立ち上り、小皿の上には上品なきつね色をした焼き菓子が乗せられている。


「下の階の総務部にお使いに行った帰り、近くの有名なパティスリーで買ってきたんです。焦がしバターのフィナンシェ。すごく人気で、いつもお昼休みには売り切れてるんですよ。さっき、奇跡的に焼き上がりの時間に遭遇できたんです。大西さん、ずっと画面を見たままだったから、少しでも甘いものをと思って」

「……業務時間中ですよ、菊地さん」


 明日香は冷たく言ったが、キーボードに置かれた手は止まっていた。ルシアの提供した複雑なデータをパズルピースのようにはめ込む作業で、確かに脳は限界を訴えていた。


「佐野室長から、大西さんの集中力が途切れたタイミングで必ず糖分を補給させるように厳命されていますから。それに、レオちゃんもミルクを飲んでご機嫌ですし」


 凛の足元では、満腹になったレオが凛のストッキングにじゃれつき、コロンと仰向けに転がって自分のお腹を見せている。そのあまりに無防備で平和な光景と、凛の裏表のない真っ直ぐな瞳。

 明日香は小さく息を吐き、「……いただきます」とフィナンシェを手に取った。


 一口囓る。

 表面はサクッと香ばしく、中は驚くほどしっとりとしている。濃厚な焦がしバターの風味とアーモンドの豊かな香りが口いっぱいに広がり、疲労した脳髄に直接染み渡っていくような暴力的な甘さだった。計算し尽くされた緻密な味わいが、乾いた神経を瞬時に潤していく。


 その瞬間、明日香の張り詰めていた無表情が、自覚のないままスッと崩れた。

 切れ長だった目尻が下がり、口元がふにゃっと緩む。青白い頬に微かな赤みが差し、冷徹な機械から、年相応の可愛らしい少女の顔へと一瞬にして変貌する。張り詰めていた空気が、まるで春の陽射しを浴びた雪のように溶けていく。


「あ、また笑いましたね!」


 凛がパァッと顔を輝かせた。


「あっちゃん、本当に美味しいもの食べると顔に出るんですね。すっごく可愛いです!」

「……っ、菊地さん。職場での不適切な愛称は控えてくださいと何度も言っているはずです」


 明日香は慌てて元の冷たい無表情を作ろうとし、小さく咳払いをした。しかし、口の中に広がる極上の甘さのせいで、威厳は半分も保てていなかった。耳の先がわずかに赤く染まっている。


 凛はクスクスと笑いながら、レオをそっと抱き上げて膝に乗せた。


「でも、大西さんが美味しそうに食べてくれると、私もすごく嬉しいんです」


 凛はレオの柔らかい背中を撫でながら、ふと視線を落とした。その横顔には、微かな寂寥感が影を落としていた。


「……前の部署にいた時は、私が差し入れを持っていっても、先輩たちは『気が利くね』って言いながら、私の机にさらに仕事のファイルを積んでいくだけでした。私がどんなに頑張っても、誰かが純粋に喜んでくれることなんて、なかったんです。いつも、都合よく使われているだけだって、わかってましたから。それでも、誰かの役に立っていると思いたくて、無理に笑って引き受けて……」


 その言葉に、明日香はティーカップを持った手を止めた。

 前の部署。営業部で、翔太の理不尽な指示に黙々と従い、手柄を奪われ続けていた自分の姿が重なる。

 明日香は、彼らの無能さを理解した上で「反論する労力すら無駄だ」と計算し、機械のように処理することで感情を殺していた。

 だが、目の前の凛は違う。彼女は本当に、ただ他人のために何かをしたいという純粋な善意だけで動いている。そして、その純度の高い善意を他人の悪意に利用され、搾取され続けていたのだ。


「菊地さんは、不器用すぎます」


 明日香は静かに、だがはっきりと言った。


「他人の悪意や打算に鈍感すぎる。そんな無防備な態度のままでは、また誰かに利用され、すり潰されるだけですよ。この会社には、他人の親切を養分にして生きる寄生虫が数多く存在します」

「そう、ですよね。佐野さんにもよく怒られます。もっと疑えって」


 凛は少し寂しそうに笑い、レオの頭に頬をすり寄せた。


「でも、私には大西さんみたいに頭の回転が速くないし、佐野さんみたいに先の先を読むこともできない。だから、せめて私ができることで、2人の役に立ちたいんです。ここは、私が初めて『必要だ』って言ってもらえた場所だから。私みたいな人間でも、ここにいていいんだって思えたから」


 打算も自己保身もない、透き通るような言葉。

 殺伐とした復讐と権力闘争の真っ只中にあるこの特命担当室で、彼女の存在はあまりにも異質だ。


 その時、特命室の分厚い扉がノックされ、遠慮のない手つきで開かれた。


「失礼しまーす」


 間延びした声と共に現れたのは、営業サポート部時代の凛の元先輩だった。完璧なメイクとブランド物のスカーフを巻いたその女は、部屋の中をジロジロと見回し、凛を見つけると薄笑いを浮かべた。


「あ、やっぱりここにいた。菊地さん、ごめんねぇ。ちょっと宛先不明の郵便物がサポート部に回ってきちゃって。特命室宛てみたいだから持ってきたんだけど」


 そう言って、薄い封筒をヒラヒラと振る。

 わざわざ届けに来るようなものではない。社内便のボックスに入れておけば済む話だ。明らかに、得体の知れない新部署に異動した凛の様子を、冷やかし半分で探りに来たのだ。


「あ、ありがとうございます、先輩……」


 凛が慌てて立ち上がり、受け取ろうとした時。先輩の視線が、奥のケージ周辺にいるレオを捉えた。


「……え、ちょっと待って。なんで会社に猫がいるの? 非常識じゃない?」


 女は眉をひそめ、大げさに顔をしかめた。


「エレノア役員は外国人だからってルール無視してるみたいだけど、菊地さんもよくこんな怪しい部署で働けるわね。あ、そういえば」


 女は持っていたクリアファイルを、ドンッと凛の胸元に押し付けた。


「先月、菊地さんがサポート部にいた時に作ったこの経費のリスト。数字が合わなくて経理から突き返されちゃったのよ。私が直してもいいんだけど、菊地さんのミスだから、責任持って今日中に入力し直してくれる?」


 それは明確な嘘だった。

 凛の性格を熟知している明日香にはすぐにわかった。自分がサボって作った杜撰な資料の修正を、文句を言わないお人好しの凛に押し付けに来たのだ。


「え……私、ですか? でも、それは先輩がメインで担当していた案件で、私はコピー取りしか……」

「菊地さんが最終チェックしたでしょ? ほら、特命室なんてどうせ暇なんだから。パパッとやってよ。終わったらサポート部まで持ってきてね」


 オロオロと視線を泳がせる凛。その表情に、過去のトラウマが蘇りかけているのがわかる。また、自分が我慢すれば丸く収まる。反論すれば角が立つ。そうやって自分を押し殺してきた長年の癖が、彼女の顔から表情を奪いかけていた。


「――菊地さんは、その資料に触れる必要はありません」


 冷たく、氷の刃のような声が部屋に響いた。

 明日香はモニターから視線を外し、ゆっくりと立ち上がって女の前に進み出た。無駄な音を一切立てない、幽霊のような足取り。


「な、なに? 大西さんだっけ。後輩の指導をしてるだけなんだけど」


 女は少し怯みながらも、強気な態度を崩さない。

 明日香はクリアファイルを凛の手から無造作に抜き取り、中身を一瞥した。


「営業二部の先月分の交際費リストですね。このファイルの最終更新者は、システムログ上、あなたのアカウントになっています。菊地さんが特命室へ異動した後の日付です」

「っ、それは私が少し確認しただけで……!」


「加えて」


 明日香は女の言葉を完全に遮り、一歩距離を詰めた。無表情の奥にある、絶対零度の威圧感。彼女の目は、路傍の石ころを見るように冷ややかだった。


「菊地凛は現在、エレノア・スペンサー役員直轄の特命担当室に所属しています。他部署の人間が、正式な業務依頼のプロセスを経ずに当室のスタッフに雑務を強要することは、重大なコンプライアンス違反です。さらに、自身の業務上のミスを他部署の人間に隠蔽させようとする行為は、就業規則第4条に抵触します」

「なっ……」

「これ以上、当室の業務を妨害するなら、あなたの所属長にシステムログとこの防音室の監視カメラの映像を添えて、正式な懲戒請求を出しますが。どうしますか?」


 淡々と、しかし一切の逃げ場を許さない完璧な論理による恫喝。

 女の顔からサッと血の気が引いた。エレノア役員の絶大な権力と、この得体の知れない大西という女の気迫に、完全に圧倒されたのだ。


「……っ、わ、わかったわよ! 冗談で言っただけじゃない。もういいわ!」


 女はクリアファイルをひったくるように奪い返し、逃げるように特命室から出て行った。重い扉が閉まり、再び部屋に静寂が戻る。


「大西さん……」


 凛が、目を丸くして明日香を見つめていた。


「すみません、私、また押し付けられそうになって……大西さんに助けてもらってばかりで」

「謝る必要はありません」


 明日香は短く息を吐き、デスクに戻った。ティーカップに残っていた冷めた紅茶を口に含む。


「あなたは佐野室長のアシスタントです。あんな程度の低い人間の身勝手な理由で、あなたの時間と労力を使わせるわけにはいきません。それに、ここは私の職場でもあります。不快なノイズは排除するに限ります」


 凛は胸の前で両手をギュッと握りしめ、深く頭を下げた。その瞳には、安堵と深い感謝の念が宿っていた。


「ありがとうございます、あっちゃん! 私、もっとしっかりします!」


 その弾むような声と、足元で「ミャオ」と鳴くレオの声。

 明日香はマウスを握り直し、再びモニターの複雑なコードの羅列に向き直った。


 自分の持つ規格外の処理能力は、佐野真二という絶対的な主君の剣として使う。

 そして、この特命室という、初めて自分を正当に評価してくれた場所を守る盾として使う。

 真二が冷徹な盤面を支配し、矢を放つなら、自分はその足場を支える強固な防壁となろう。無能な寄生虫たち、そして凛のような純粋な存在を利用しようとするすべての悪意を、自分が完璧な実務で、物理的に、冷酷に排除する。


 明日香は誰にも聞こえない声で心の中で誓い、再び正確無比なタイピングを開始した。

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