第17話 資金という名の暴力
日曜日の午前10時。
エレノア・スペンサーの住む高層タワーマンションのリビングには、微かなコーヒーの香りと、休日特有の穏やかな静寂が満ちていた。
床から天井まで届く大きな窓からは、初夏の眩しい陽光がリビングの半分を白く染め上げている。佐野真二は広々としたアイランドキッチンに立ち、浅煎りのエチオピア産コーヒー豆をハンドドリップで丁寧に落としていた。細く一定の弧を描いて注がれるお湯が粉に触れてふっくらとドーム状に膨らむたび、華やかでフルーティーな香りが部屋の無機質な空気を柔らかく塗り替えていく。
「……可愛い寝顔ですね」
背後から、エレノアの静かな声がした。
真二が視線を向けると、彼女はソファの端に腰を下ろし、すぐ隣で丸くなっている小さな毛玉を愛おしそうに見つめていた。
数日前に雷雨の中から拾い上げられた茶トラの子猫、レオだ。
エレノアが用意した上質なカシミアのブランケットにすっぽりと包まれ、規則正しい、微かな寝息を立てている。まだ手のひらに乗るほど小さな体は、呼吸のペースに合わせてゆっくりと上下し、時折、夢でも見ているのかピンと尖った耳がピクピクと動いた。顔の前でちょこんと揃えられた前足の先には、まだ柔らかいピンク色の肉球が無防備に覗いている。
真二はコーヒーを2つの磁器のカップに注ぎ分け、ローテーブルに運んだ。
「まだ生後1ヶ月と少しだ。一日の大半はこうして寝て過ごす。……夜鳴きはしなかったか」
真二が対面のソファに腰を下ろして問うと、エレノアはカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと首を振った。
「ええ。昨晩は私のベッドの足元で、ずっと大人しく眠っていました。驚くほど手がかからない子です。……ただ」
エレノアはブルーグレーの瞳を微かに細め、立ち上る湯気の向こうで眠る子猫に視線を落とした。
「この子がこんなに無防備に眠れるようになるまで、外の冷たい雨の中でどれだけ怖い思いをしたのかと考えると……不思議なものですね。こんな小さな命が、この殺風景な部屋に少しだけ熱を持ち込んでいる」
普段は冷徹な「氷の令嬢」の仮面を被っている彼女の横顔は、初夏の光を受けてひどく柔らかく見えた。真二はコーヒーを一口飲み、その澄んだ酸味と深い香りを味わいながら静かに答えた。
「動物は、自分を守ってくれる環境を正確に理解する。あなたの不器用な優しさが、この子には伝わっているんだろう」
その言葉に、エレノアはわずかに肩を跳ねさせ、隠すように顔を背けてコーヒーを飲んだ。
「……金曜の夜の件ですが」
エレノアは照れ隠しのように話題を変え、少し硬い声で切り出した。テーブルに置かれたタブレット端末を指先でスワイプする。
「クロエから報告のメッセージが届きました。彼女、随分と派手に引っ掻き回したようですね。翔太主任と結城麻衣の間に、決定的な亀裂を入れたと」
「ええ。彼女の生まれ持った直感と、本物の権力が放つオーラは、虚栄心で塗り固められた人間にとっては致死量の劇薬です。麻衣の薄っぺらいプライドは粉砕され、翔太は自分の足元が揺らいでいることに疑心暗鬼になっているはずだ」
真二はブラックコーヒーを喉に流し込んだ。
「これで、翔太は社内での自分の地位――『武藤常務の特命リーダー』という名目に、より一層強く依存するようになります。私生活が崩れれば崩れるほど、彼は仕事での『成功』に固執し、焦る。……自ら致命的な判断ミスを犯すための、完璧な精神状態だ」
「あなたの盤面は、恐ろしいほど精緻ですね。人の欲も、弱さも、すべて手駒として計算し尽くしている」
エレノアが静かにため息をついた時、真二のジャケットのポケットでスマートフォンが短く振動した。
画面を確認すると、暗号化されたメッセンジャーアプリに一件の通知。
送信者はセレナ・デイヴィス。
『月曜の13時。丸の内のプライベートクラブ。あなたの舞台に、少し面白い手回しをしてあげたわ。必ず来なさい』
真二は画面を消し、一切の感情を排した冷たい瞳で窓の外の景色を見下ろした。
強大なジョーカーが、いよいよ物理的に盤面に介入してくる。
★★★★★★★★★★★
翌、月曜日の13時。
丸の内の高層ビル群の一角にある、会員制のプライベートクラブ。
重厚なオーク材の扉の奥は、一般のレストランの喧騒とは無縁の静謐な空間だった。各テーブルの配置は極端に広く取られ、深いワインレッドの絨毯が足音を完全に吸い込む。密談の内容が隣に漏れることは決してない、権力者たちのためのシェルターだ。
真二がギャルソンに案内されて奥の個室へ足を踏み入れると、そこにはすでに圧倒的な存在感を放つ女が待ち構えていた。
「遅いわよ、真二」
セレナ・デイヴィス。
艶やかなブロンズ肌に、深紅のタイトなワンピースが暴力的なほどに似合っている。彼女が足を組み替えるだけで、周囲の空気が彼女の放つ熱とスパイシーな高級香水の香りに支配されるようだった。
「指定時間の2分前だ。ウォール街の時計は随分と進みが早いらしい」
真二は表情を一切崩さず、対面の席に腰を下ろした。
「私、待たされるのが嫌いなのよ」
セレナは面白そうに唇を歪め、指を鳴らしてギャルソンにシャンパンを注がせた。きめ細やかな泡がクリスタルグラスの中で弾ける音が響き、真二の前には冷えたペリエが置かれる。
「それで? 『面白い手回し』とは何ですか」
真二はペリエのグラスには手を触れず、真っ直ぐに彼女の切れ長のアーモンドアイを見据えた。
「あなた、佐々木翔太の推進しているD地区のプロジェクトで、彼に都合の良いバラ色の収支計画を作らせていたわね。アルカディアの誘致だけでなく、物流インフラや資材調達のコストを異常なほど低く見積もった、机上の空論を」
セレナはシャンパングラスを優雅に傾けながら、冷酷な笑みを深めた。
「彼がそのコストダウンの要として独断で内約を取り付けていた『東都ロジスティクス』。武藤常務の息がかかっているけれど、実態は資金繰りが火の車の下請け企業。……週末のうちに、私のファンドのダミー会社を経由して、あそこの筆頭株主になっておいたわ」
真二の目が、わずかに細められた。
それは、情報の提供や裏工作のレベルではない。何十億という資金を一瞬で動かし、企業の経営権そのものを力で奪い取る、純粋な「資本の暴力」だった。
「今日の午前中、東都ロジスティクスの新たな経営陣から、神宮寺グループに対して『これまでの優遇契約の全面見直し』と『大幅な値上げ』の通達が出されたはずよ。……さて、どうなるかしらね?」
セレナは身を乗り出し、真二の顔を至近距離から覗き込んだ。
「あの底の浅い男、自分の足場がコンクリートだと思って胸を張っていたみたいだけど、私がそれを砂に変えてあげたわ。圧倒的な資本の前では、日本の老舗企業の派閥争いなんて、ただの子供の砂遊びよ」
「……なるほど。強引だが、悪くない手だ」
数秒の沈黙の後、真二は低く落ち着いた声で返した。動揺は一切ない。
「あら、驚かないの?」
「資金力にモノを言わせた買収は、あなたの得意分野だ。俺の盤面に首を突っ込むなら、それくらいはやるだろうと計算はしていた」
真二はペリエのグラスを持ち上げ、一口だけ喉を潤した。
「翔太は今、武藤常務に対して『東都ロジスティクスを安く叩ける』という前提でプロジェクトの承認を得ている。それが根本から覆ったとなれば、彼は自分の地位を守るためにパニックに陥る。上層部に正直に報告して中止を促すような男ではない。彼は必ず、自分の独断で、よりハイリスクで質の悪い業者に裏から手を回して穴埋めしようとする」
「自ら、さらに深い泥沼に飛び込むわけね」
セレナは満足げに喉の奥で笑った。
「ええ。そしてその時、彼は必ず俺が彼に渡した『逃げ道』に見せかけた裏の承認ルートを使う。……あなたが放った強烈な火は、彼を完全に退路のない袋小路へと追い詰めるための、最高の着火剤になります」
真二の冷徹な分析に、セレナの瞳に明確な興奮の熱が浮かんだ。
「あなたって、本当に底が知れないわね。……ますます欲しくなったわ」
セレナはテーブルの下で、真二の膝に自身のハイヒールのつま先をそっと這わせた。上質な生地越しに、彼女の挑発的な体温が伝わってくる。
「復讐が終わったら、私のところに来なさい。この程度の資本、あなたに自由に使わせてあげる」
真二は膝の上の感触を完全に無視し、グラスをテーブルに置いた。
「ご厚意だけ受け取っておきます。俺は、誰の手駒にもなるつもりはない」
静かな拒絶。しかし、セレナの口角はさらに深く上がった。彼女にとって、容易に手に入らない獲物ほど、狩猟本能を強く刺激するものはないのだ。
★★★★★★★★★★★
同日の15時。
特命担当室の重厚な防音扉の奥では、大西明日香のタイピング音が冷徹で正確なリズムを刻んでいた。
「室長。先ほど、翔太主任の端末から異常なアクセスログを検知しました」
ソファで目を閉じていた真二が、ゆっくりと目を開ける。
「東都ロジスティクスからの契約見直し通知を受けた直後から、翔太主任は武藤常務への報告を意図的に保留しています。そして現在、彼個人の決裁枠を利用して、都内の新興物流企業2社に極秘でコンタクトを取っています」
明日香はモニターから視線を外さず、淡々と事実だけを並べ立てた。
「その2社についてですが、ルシアからの裏データと照合する限り、背任に近い形での裏金キックバックを打診していると推測されます。確たる証拠として裏口座を特定するには、彼女のさらなる深堀りが必要ですが、表面上のコストを無理やり当初見積もりに合わせようとしているのは間違いありません」
「完璧だ」
真二は立ち上がり、明日香の背後に歩み寄った。
「彼がその契約に電子サインをした瞬間、すべてのログを押さえろ。一切の言い逃れができないように外堀を埋めていくぞ」
「トラップの第一段階は稼働しています。彼が承認ボタンを押せば不正なアクセスログは一時的に隔離されます。ただ、武藤常務にも言い逃れさせない完璧な法的証拠として罠を完成させるには、ルシアが追っている裏金ルートのデータとこのシステムを完全に紐付ける構築作業がまだ必要です。作業を急がせます」
明日香の切れ長な横顔には、一切の妥協がない。彼女の構築するシステムは、獲物を絡め取る見えない蜘蛛の巣のように、翔太の周囲を確実に包囲し始めていた。
そこへ、給湯室から菊地凛がトレイを持って小走りで現れた。
「あの、佐野室長、大西さん。お茶が入りました。今日は少し肌寒いので、温かいほうじ茶です」
「ありがとう、菊地」
真二は湯呑みを受け取り、その温もりを掌に感じた。
「大西さんも、少し休んでください。目が真っ赤ですよ」
凛が明日香のデスクにそっと湯呑みを置く。明日香はタイピングの手を一瞬だけ止め、「……いただきます」と短く答えて茶をすすった。その顔が、ほうじ茶の香ばしい香りにほんの少しだけ綻ぶのを、真二は見逃さなかった。
真二は湯呑みを傾け、静かな微笑みを微かに深めた。
窓の外では、厚い雲が広がり始め、東京の街を暗く覆い隠そうとしていた。真二は無言のまま、雨の気配を孕んだその曇天をただ静かに見つめ続けていた。




