第16話 クロエの直感と揺さぶり
金曜の夜。東京の夜景を眼下に一望できる丸の内の外資系高級ホテル、最上階のフレンチレストラン。
薄暗い照明の中、各テーブルに置かれたキャンドルの火が、磨き上げられたクリスタルグラスに幾重にも反射していた。窓の外には、まるで宝石箱をひっくり返したような無数の光の海がどこまでも広がっている。ピアノの生演奏が静かに流れる非日常の空間で、佐野真二は深く静かな視線を対面に座る女に向けていた。
「どう? このシャトー・マルゴー。あなたのような『完璧な裏方』の喉を潤すには、ちょうどいいヴィンテージだと思うけれど」
セレナ・デイヴィスが、艶やかなブロンズ肌に映える深紅のシルクドレスの胸元をわずかに傾け、挑発的に微笑んだ。細く長い指先でワイングラスのステムを弄る仕草には、獲物を品定めするような優雅さと危険な色気が同居している。彼女の周囲だけ、空気が少しだけ濃密になっているかのようだった。
「悪くないですね。ですが、俺の今の立場には少し不相応な代物だ」
真二は表情を変えずにグラスを持ち上げ、香りを確かめてから一口含んだ。渋みと果実味が複雑に絡み合う、確かに一級品の味わいだった。
「謙遜は嫌いよ、真二」
セレナは身を乗り出し、テーブル越しに距離を詰めてきた。彼女の纏うスパイシーで甘い香水が、料理の香りを邪魔しない絶妙なラインで真二の鼻腔をくすぐる。
「数千万単位の裏金を平然と動かし、神宮寺グループの法務システムにバックドアを仕掛けてあの佐々木翔太を踊らせている男が、『不相応』なんて言葉を口にするべきじゃないわ。あなたの頭脳と冷徹さは、この程度のワインを毎日水のように飲めるだけの価値がある」
セレナの切れ長のアーモンドアイが、真二の暗く澄んだ瞳の奥を探るように見つめている。彼女は圧倒的な資本力を背景に、真二の暗躍をすでにかなりの部分まで把握していた。彼女にとって真二は、ただの買収ターゲットの内部協力者ではなく、自身の野心と欲望を満たすための強烈なパートナー候補として映っているのだろう。
「買い被りです。俺はただ、不要なゴミを掃除するための手順を踏んでいるだけですよ」
「その掃除が終わったら、どうするの?」
セレナの唇が、艶やかな弧を描いた。
「あのエレノアの傍で、忠実な犬でい続けるつもり? それとも、私と一緒にウォール街の資本を使って、沈みかけの神宮寺を丸ごと飲み込む?」
「……俺は誰の犬にもならない。自分の盤面は、自分で支配します」
真二が低い声で淡々と返したその時、内ポケットのスマートフォンが短く震えた。
グラスを置き、画面を確認する。暗号化されたメッセージアプリに、1枚の写真と短いテキストが届いていた。
『真二、サプライズ! 下の階のラウンジに、例のネズミたちがいるわよ。ちょっと遊んできてもいい?』
送信者は、クロエ・ルルーシュ。写真には、数階下にあるホテルの宿泊客用ラウンジで、親しげに身を寄せ合ってグラスを傾ける翔太と麻衣の後ろ姿が写っていた。
真二は画面を消し、一切の感情を排した、微かな笑みを口元に浮かべた。
「何か、面白い知らせでも?」
セレナが怪訝そうに眉を上げる。
「ええ。下の階で、少しばかり滑稽な喜劇が始まるようです。デザートの前に、特等席で見物といきませんか」
「……いいわね。あなたの作る舞台なら、退屈はしなさそうだし」
セレナは面白そうに立ち上がり、真二のエスコートを受けてレストランを後にした。
★★★★★★★★★★★
ホテルの35階に位置する宿泊客用のラウンジは、しっとりとした大人の空気に包まれていた。
窓際の景色の良いソファ席で、翔太と麻衣は完全に周囲の目を忘れ、二人の世界に浸っていた。
「来月からのプロジェクトリーダーの件、今日武藤常務から直々に励ましの言葉をもらってさ。これで俺も、完全に幹部候補のレールに乗ったよ」
翔太が、少し顔を赤くしながら自慢げに語る。テーブルには高級なシャンパンのハーフボトルが置かれている。その顔には、実力以上の地位を手に入れた男特有の、中身のない驕りが張り付いていた。
「すごい! やっぱり翔太君は特別だね。真二なんて、最近ちょっと羽振りが良くなったみたいだけど、結局やってることは誰かの裏方だし。翔太君みたいに表舞台で活躍できる器じゃないもん」
麻衣は甘ったるい声で翔太を持ち上げながら、自身の左肩に下げた真二の金で買ったばかりの新作バッグを見せつけるように置き直した。淡いピンクベージュのハイブランドのワンピースも、昨日手に入れたものだ。ホテルの柔らかい間接照明に照らされ、彼女は自分が最高に輝いていると信じて疑わなかった。
「お前、今日ずいぶん気合入ってるな。その服もバッグも、見たことないぞ。結構高かったんじゃないか?」
翔太が麻衣の全身を舐め回すように見て言った。
「ふふっ、ちょっと奮発しちゃった。だって、これからの神宮寺を背負う翔太君の隣を歩くのに、安っぽい格好はできないでしょ? 私の貯金、全部はたいて買っちゃった」
麻衣は悪びれもせず、平然と嘘を吐いた。自分がどれだけ「翔太のために」尽くし、着飾っているかをアピールすることで、彼の自尊心を満たすための計算だ。
「そうか。お前は本当に健気だな」
翔太は満足げに笑い、麻衣の手を握ろうと身を乗り出した。
その時だった。
「あれー? もしかして、結城麻衣さん?」
明るく、少しフランス語の訛りが混じった無邪気な声が、二人の甘い空気を容赦なく切り裂いた。
麻衣と翔太が驚いて振り返ると、そこには圧倒的な華やかさを放つブロンドヘアの少女が立っていた。
クロエ・ルルーシュ。
仕立ての良さが一目でわかる上質なカジュアルドレスに身を包み、歩くたびに周囲の空気を自分のものにしてしまうような、生まれ持った本物のオーラ。ラウンジの入り口付近では、ホテルの支配人らしき男が彼女に向かって深く頭を下げていた。
「……誰?」
麻衣はクロエの放つ圧倒的な「格の違い」に本能的な脅威を感じ、顔を強張らせた。自分がどれだけハイブランドで身を固めても到底手が届かないような、血筋と環境が作り出す本物の洗練が、目の前の少女にはあった。
「私? 私はクロエ。真二のお友達よ」
クロエは悪戯っぽく微笑み、麻衣の全身を頭の先からつま先まで、じっくりと値踏みするように眺め回した。
「それにしても、すごい格好ね。そのバッグ、あのブランドの今季の限定でしょ? 可愛い! ……でも」
クロエはわざとらしく小首を傾げた。
「そのピンクのワンピースに合わせるのは、ちょっと野暮ったいかなぁ。素材が喧嘩してるし、何より、服に『着られてる』感じがしちゃう。真二、もっとセンス良いと思ったのに、見立ててくれなかったの?」
「なっ……!」
麻衣の顔がカッと朱に染まった。自分が完璧だと思っていた装いを、一回りも年下の少女に無邪気に、そして的確に否定されたのだ。虚栄心の塊である彼女にとって、それは平手打ちよりも重い屈辱だった。背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
「君、失礼じゃないか。真二の知り合いか知らないが、いきなり人の連れに絡んでくるとは非常識だぞ。俺は神宮寺グループの……」
翔太が不機嫌そうに口を挟み、立ち上がろうとした。
「ああ、あなたが佐々木翔太さん?」
クロエは翔太を遮り、今度は彼を興味深そうに観察した。そのヘーゼル色の瞳の奥には、大人たちの底の浅さを嘲笑うような、残酷な光が宿っている。
「真二から聞いてるわ。『彼はとても神輿に乗るのが上手い』って」
「なに?」
「でも、神輿って担ぎ手がいなくなったら、ただの重い箱よね? 自分の足で歩けない人は、落ちる時も一直線だもの」
クロエの無邪気な笑顔から放たれた鋭い棘に、翔太の顔から血の気が引いた。自分が真二を見下しているつもりが、実は完全に見透かされ、嘲笑の対象になっているという事実が、彼の薄っぺらいプライドを直撃したのだ。
「ふざけるな……真二の奴、俺のことをそんな風に……!」
「ねえ、麻衣さん」
クロエは怒りで肩を震わせる翔太を無視し、再び麻衣に向き直った。
「その服もバッグも、翔太さんの金で買ったんじゃないわよね? 自分では買えないようなハイブランドを着込んで、真二の金で着飾って、その真二を裏切って別の男と密会なんて……すっごくスリルあって楽しそうね!」
その瞬間、ラウンジの空気が完全に凍りついた。
「え……?」
翔太の動きがピタリと止まり、ゆっくりと麻衣の方へ顔を向けた。
「お前……その服もバッグも、真二の金で買ったのか? 『俺のために貯金をはたいた』って言ったよな?」
「ち、違うの! これは……真二が勝手に渡してきたカードで、私はただ……!」
麻衣はパニックになり、顔面を蒼白にして言い訳を口走る。しかし、男のプライドを決定的に傷つけられた翔太の耳には、もはや彼女の言葉は届いていなかった。
「嘘だぁ。私、このホテルの支配人と知り合いなんだけど。さっきのエントランスで二人が腕を組んでる防犯カメラの映像、真二に送っちゃおうかな?」
クロエはスマートフォンを取り出し、小悪魔のように微笑んだ。
「や、やめて! 翔太君、信じて、これは本当に……!」
「黙れッ!」
翔太が低く怒鳴り、テーブルを強く叩いた。周囲の客が何事かと視線を向ける。その冷ややかな視線に、翔太はさらなる惨めさを感じて顔を歪めた。
麻衣の虚栄心と、翔太の底の浅いプライド。その両方が、クロエの無邪気な数言によって見事に粉砕され、二人の間には決定的な亀裂と疑心暗鬼が生まれていた。
「あーあ、つまんない。じゃあね、お似合いの二人さん」
クロエはひらりと手を振り、絶望的な空気に包まれたテーブルを軽やかな足取りで後にした。
★★★★★★★★★★★
その一部始終を、少し離れた薄暗いカウンター席から、真二とセレナが静かに見下ろしていた。
真二の手元にはペリエのグラスが、セレナの手元にはシャンパンのグラスがある。
「ふふっ……あの子、本当に性格が悪くて好きだわ。あの女、完全にプライドを粉砕されて息も絶え絶えじゃない」
セレナがシャンパングラスを傾けながら、面白そうに喉の奥で笑った。
「彼女の家柄と直感力は、あの手の虚栄心と見栄だけで出来上がっている人間には、致死量の劇薬になりますからね」
真二は一切の感情を交えず、ただ淡々と眼下の光景を観察していた。翔太が麻衣を置いて足早にラウンジを出て行き、残された麻衣が青ざめた顔で座り込んでいる。
「あの中途半端な男も、これでしばらくは疑心暗鬼に陥る。プロジェクトの重要な局面で、私生活の綻びは致命的な判断ミスを生む。すべては計算通りだ」
真二の感情の読めない静かな横顔を見つめ、セレナは小さく息を吐いた。
「……あなたって、本当に残酷ね。自分が与えた金で女の虚栄心を極限まで膨らませて、一番残酷なタイミングですべてを奪い取る。それも、他人の手を使って」
セレナのアーモンドアイに、明確な熱と欲望の色が浮かぶ。彼女は真二に顔を近づけ、その冷たい唇のすぐ横に自身の赤い唇を寄せた。
「私、あなたから目が離せなくなりそう。……ねえ、今夜はこのまま、私の部屋に来ない?」
極上の女からの、あからさまな誘い。
しかし真二は、視線をセレナに向けることなく、手元のペリエを一口だけ飲んでグラスを置いた。
「お誘いは光栄ですが、火傷しますよ。俺の舞台は、まだ終わっていませんから」
真二はゆっくりと立ち上がり、セレナを見下ろして、感情の読み取れない静かな微笑みを残した。




