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第8話 王命監査

第8話 王命監査


 エドワルド王太子は、胸の奥に広がる不安を必死に押し込めていた。


 ここ数か月、自分の周囲で起きていることが理解できなかった。


 いや、本当は理解したくなかったのかもしれない。


 外交茶会の失敗も。


 騎士団装備の契約問題も。


 商人たちとの関係悪化も。


 予算不足も。


 すべて偶然だと思いたかった。


 誰にでも起こる小さな失敗が重なっただけだと信じたかった。


 だが昨日、国王から届いた一通の命令書が、その逃げ道を完全に塞いだ。


『王太子宮財務状況に関する特別監査を実施する』


 国王直轄。


 王命監査。


 王族であっても拒否できない。


 朝から王太子宮は異様な緊張感に包まれていた。


 使用人たちは小声で話し、事務官たちは帳簿を抱えて走り回る。


 執務室の机には未処理書類が山のように積まれていた。


 冷めた紅茶。


 食べかけの朝食。


 乱れた帳簿。


 それらが現在の王太子宮を象徴しているようだった。


 マリアンヌも落ち着かない様子で窓際を行ったり来たりしている。


 薄紫色のドレスに身を包んでいるが、以前のような余裕はない。


「大丈夫ですわよね?」


 彼女は不安そうに尋ねた。


 エドワルドは答えなかった。


 大丈夫だと言いたかった。


 だが言えない。


 自分でも大丈夫だと思えなくなっていたからだ。


 やがて執事がやって来る。


「監査官の皆様がお見えです」


 部屋の空気が凍りついた。


 重い扉が開く。


 先頭に立っていたのはクラウス・ヴァイスだった。


 黒い礼装。


 整った銀髪。


 若いが威厳がある。


 その後ろには数名の財務官が続いている。


 そして。


 エドワルドの視線が止まった。


 レティシアだった。


 濃紺の官服を着ている。


 胸元には国家財務官の徽章。


 以前のような公爵令嬢の華やかな装いではない。


 だが不思議なほど堂々として見えた。


 その姿を見た瞬間、エドワルドは胸の奥がざわつくのを感じた。


 何故だろう。


 同じレティシアなのに。


 以前とはまるで違う人間のように見えた。


 クラウスが一礼する。


「国王陛下の命により監査を実施いたします」


「協力していただきたい」


 事務的な口調だった。


 そこに遠慮はない。


 王太子相手だからといって特別扱いする気もない。


 監査はすぐに始まった。


 帳簿が運ばれる。


 契約書が確認される。


 支出記録が照合される。


 財務官たちは黙々と作業を続けていた。


 その中心にいるのはレティシアだった。


 彼女は机に向かい、帳簿をめくる。


 数字を確認する。


 時折財務官へ指示を出す。


 無駄な動きが一つもない。


 まるで長年そこで働いていたかのようだった。


 事実、彼女は一か月で財務省の中心人物になっていた。


 その光景を見ながら、エドワルドは妙な焦りを覚えていた。


 昔のレティシアなら違った。


 自分を見れば微笑んだ。


 頼めば動いてくれた。


 困れば助けてくれた。


 だが今は違う。


 彼女の視線は帳簿に向いている。


 自分には向いていない。


 昼を過ぎた頃だった。


 監査結果の中間報告が始まる。


 数字は想像以上に酷かった。


 未回収債権。


 二重計上。


 支払い遅延。


 契約不備。


 会議室の空気が重くなる。


 マリアンヌは青ざめていた。


 エドワルドも冷や汗が止まらない。


 そしてついに耐えきれなくなった。


「レティシア」


 思わず声をかける。


 彼女が顔を上げる。


「何でしょうか」


 その声は静かだった。


 昔と同じ声なのに、どこか遠い。


「帳簿を直せ」


 言った瞬間、部屋が静まり返った。


 財務官たちの手が止まる。


 クラウスも眉を上げた。


 だがエドワルドは続けた。


「君ならできるだろう」


「今までやってきたじゃないか」


「だから今回も――」


 そこまで言った時だった。


 レティシアは静かに首を横へ振った。


「お断りいたします」


 その言葉にエドワルドは息を呑む。


「何?」


「私はもう殿下の部下ではありません」


 レティシアの声は穏やかだった。


 怒っているわけではない。


 責めているわけでもない。


 だからこそ重かった。


「私は現在、国家財務官です」


「国王陛下の命により監査を行っています」


「監査対象の帳簿を改竄することはできません」


 会議室が静まり返る。


 誰も言葉を発しない。


 エドワルドは初めて気づいた。


 レティシアは戻ってこない。


 本当に戻ってこないのだ。


 今までのように助けてはくれない。


 失敗を片付けてくれない。


 後ろから支えてもくれない。


 婚約破棄したあの日、自分は彼女を失った。


 それは婚約者としてだけではない。


 もっと大きな何かだった。


 レティシアは再び帳簿へ目を落とす。


 仕事へ戻ったのだ。


 まるで今の会話が特別なことではなかったかのように。


 その姿を見ながら、エドワルドは初めて恐怖を覚えた。


 外交茶会の失敗よりも。


 赤字よりも。


 契約問題よりも。


 ずっと恐ろしい。


 彼女はもう自分のものではない。


 そして、自分には彼女の代わりがいない。


 窓の外では夕日が王都を赤く染めていた。


 長く伸びた影が会議室の床を覆う。


 その影はまるで、王太子宮に迫る運命そのもののようだった。



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