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第7話 数字は嘘をつかない

第7話 数字は嘘をつかない


 エドワルド王太子は、最近まともに眠れていなかった。


 夜中に何度も目が覚める。


 机の上には処理しきれない書類が積み上がり、朝になれば事務官たちが新しい問題を抱えてやって来る。


 外交茶会の失敗。


 騎士団装備の契約問題。


 商人たちとの関係悪化。


 そして今度は予算だ。


 何故こうなる。


 何故次から次へと問題が起きる。


 自分は何も変えていないはずだった。


 婚約者が一人いなくなっただけだ。


 それなのに王太子宮は、まるで土台から崩れ始めているようだった。


 その朝も最悪だった。


 朝食の席で、エドワルドは苛立ちながらナイフを置いた。


 焼きたてのはずのパンは冷めている。


 紅茶もぬるい。


 以前はこんなことはなかった。


 小さなことだ。


 本当に小さなことだ。


 だが、その小さな不満が毎日積み重なっていた。


「殿下?」


 マリアンヌが心配そうに顔を覗き込む。


 淡い緑色のドレスを着ている。


 以前ならその笑顔を見るだけで気分が良くなった。


 だが今は違う。


「何だ」


「お顔の色が優れませんわ」


「問題が多すぎるだけだ」


 そう言った瞬間、執事が慌てた様子で食堂へ入ってきた。


「殿下!」


「何だ」


「事務官長がお急ぎでお会いしたいと」


 嫌な予感しかしなかった。


 執務室へ向かうと、バルト事務官長の顔は青ざめていた。


 机の上には帳簿が何冊も積まれている。


「今度は何だ」


 エドワルドは疲れ切った声で尋ねた。


 バルトは答えなかった。


 代わりに一冊の帳簿を差し出す。


「こちらをご覧ください」


 数字が並んでいる。


 エドワルドには意味が分からない。


「説明しろ」


「今月の予算です」


「それで?」


「足りません」


 沈黙が落ちた。


「何?」


「予算が足りません」


 バルトはもう一度言った。


 エドワルドは笑った。


 笑うしかなかった。


「馬鹿な」


「王太子宮だぞ」


「予算が足りなくなるわけがない」


「ですが事実です」


 バルトは静かだった。


 だから余計に恐ろしい。


 感情的になっていない。


 つまり数字が確定しているのだ。


 逃げ道がない。


 エドワルドは帳簿をめくった。


 理解できない。


 数字ばかりだ。


 だが赤字という文字だけは読めた。


「何故だ」


「現在調査中です」


 その時だった。


 別の事務官が飛び込んでくる。


「事務官長!」


「今度は何だ」


「道路整備予算が二重計上されています!」


 バルトが顔を押さえた。


 まただ。


 ここ最近、そればかりだった。


 予算不足。


 二重計上。


 支払い遅延。


 行方不明の帳簿。


 問題が次々と出てくる。


 まるで長年蓋をされていた何かが一気に噴き出しているようだった。


 昼過ぎ。


 王太子宮の会議室には重苦しい空気が流れていた。


 机の上には大量の帳簿。


 冷めた紅茶。


 手つかずの昼食。


 誰も食欲がない。


 マリアンヌもさすがに青い顔をしていた。


「そんなに大変なのですか?」


 誰も答えない。


 その沈黙が答えだった。


 やがてバルトが口を開く。


「財務省へ調査を依頼しました」


「財務省?」


 エドワルドは顔をしかめた。


「そこまでする必要があるのか」


「必要です」


 断言だった。


「このままでは原因が分かりません」


 三日後。


 財務省から調査官たちがやって来た。


 帳簿を運び出す。


 契約書を確認する。


 支出履歴を洗う。


 数字を一つずつ追いかける。


 その中心にいたのはクラウスだった。


 そして、その隣にはレティシアがいた。


 エドワルドの胸がざわつく。


 レティシアは以前と変わらなかった。


 灰色の仕事着。


 飾り気のない髪型。


 派手さはない。


 だが財務省の職員たちは皆、彼女の指示に従っていた。


 それが妙に気に障った。


 調査は二日続いた。


 そして結果報告の日。


 会議室に全員が集められた。


 クラウスが立ち上がる。


「結論から申し上げます」


 静かな声だった。


「王太子宮は以前から慢性的な赤字構造でした」


 エドワルドは眉をひそめた。


「何だと?」


「ですが、それを補う者がいました」


 クラウスは帳簿を開く。


「こちらをご覧ください」


 数字が並ぶ。


 誰にも分からない。


 だがクラウスは迷いなく説明を続けた。


「花卉予算削減」


「食材仕入れ価格交渉」


「輸送契約見直し」


「保管倉庫統合」


「重複支出削減」


 次々と数字が読み上げられる。


 その全てに共通する名前があった。


 レティシア。


 レティシア。


 レティシア。


 レティシア。


 エドワルドの顔色が変わる。


「待て」


「つまり何が言いたい」


 クラウスは静かに答えた。


「レティシア嬢は毎年、多額の支出削減を実現していました」


「どれくらいだ」


 クラウスは数字を見る。


「平均すると年間九万ゴールドです」


 部屋が静まり返った。


 九万ゴールド。


 それは小さな領地の年間予算に匹敵する。


 マリアンヌが震える声で言う。


「そんなに……?」


「はい」


 クラウスは頷いた。


「そして今年、その削減分が消えました」


 レティシアは何も言わない。


 ただ静かに資料を見ている。


 クラウスが続ける。


「赤字が突然生まれたのではありません」


「以前から存在していました」


「ただ、レティシア嬢が埋め続けていただけです」


 その言葉は重かった。


 あまりにも重かった。


 エドワルドは何も言えない。


 脳裏に浮かぶ。


 花屋へ向かうレティシア。


 商人と話すレティシア。


 帳簿を読むレティシア。


 頭を下げるレティシア。


 あれは全部、意味のあることだったのか。


 自分はずっと無駄だと思っていた。


 数字ばかり見ている地味な仕事だと思っていた。


 だが違った。


 王太子宮が黒字だったのは当然ではなかった。


 レティシアが守っていたのだ。


 会議室を出た後。


 夕暮れの廊下を歩きながら、バルトは窓の外を見た。


 王都の空が赤く染まっている。


 そして彼は思う。


 数字は嘘をつかない。


 人は誤解する。


 人は見落とす。


 人は都合よく解釈する。


 だが数字だけは違う。


 帳簿は全てを記録していた。


 誰が働いたのか。


 誰が守ったのか。


 誰が支えていたのか。


 そして今日。


 数字は残酷なまでに真実を語ってしまったのである。



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