第6話 財務省の怪物
第6話 財務省の怪物
レティシア・ローゼンクロイツは、自分がようやく普通に働ける場所へ来たのかもしれないと思っていた。
王宮の東側に建つ財務省庁舎は、華やかさとは無縁だった。
白い石造りの建物。
飾り気のない廊下。
積み上がった帳簿。
机に向かう官僚たち。
インクと羊皮紙の匂い。
窓から差し込む朝の光。
それらは貴族の夜会よりも、レティシアにはずっと居心地が良かった。
目立つ必要がない。
誰かの機嫌を取る必要もない。
数字が正しければ評価される。
少なくとも、そう信じられる場所だった。
「おはようございます」
彼女が執務室へ入ると、数人の財務官が顔を上げた。
まだ新入りである。
しかも元王太子妃候補。
皆どこか遠慮がちだった。
レティシアはそれを気にしない。
机へ向かい、書類を開く。
今日も仕事が始まる。
その様子を、少し離れた場所からクラウス・ヴァイスが見ていた。
若き財務尚書。
二十二歳にして財務省を任される秀才である。
だが今の彼は、眉間に皺を寄せていた。
理由は目の前の女性だった。
一か月前。
婚約破棄直後のレティシアを見た時、彼は思った。
優秀だとは知っていた。
だがここまでとは思わなかった。
本当に思わなかったのだ。
「尚書閣下」
部下が書類を抱えて近づく。
「農業支援局の件ですが……」
「赤字だったはずだな」
「はい」
「先月までは」
部下は複雑そうな顔をした。
その視線の先にはレティシアがいる。
クラウスは苦笑した。
「今は黒字か」
「はい」
信じられないことだった。
農業支援局は三年間赤字だった。
誰も解決できなかった。
予算を増やしても駄目。
削っても駄目。
責任者を変えても駄目。
だがレティシアは違った。
赴任して三日後には原因を突き止めた。
補助金制度の重複。
不要な運搬契約。
利用されていない倉庫。
誰も気づかなかった無駄を次々に洗い出したのである。
結果。
一か月で黒字化。
財務省中が騒然となった。
「怪物ですよ」
若い財務官が呟いた。
「怪物?」
クラウスは笑う。
「褒め言葉です」
「数字を見るだけで問題点を見つけるんです」
その時だった。
執務室の奥から声が上がる。
「レティシア殿!」
中年の財務官が駆け寄ってきた。
汗だくだ。
「どうされました?」
「道路整備局の予算が合わないのです」
「見せてください」
レティシアは立ち上がる。
机へ向かう。
数字を確認する。
ほんの数秒だった。
「ああ」
彼女は頷いた。
「こちらですね」
「え?」
「同じ工事が二重計上されています」
財務官は目を見開いた。
「どこです?」
レティシアが指を差す。
確認する。
確かにその通りだった。
「本当だ……」
周囲の財務官たちも集まってくる。
「よく見つけましたね」
「数字の並びが不自然でしたので」
レティシアは平然と言う。
だが周囲は唖然としていた。
何日も悩んでいた問題だった。
それを数秒で解決したのである。
昼休み。
食堂には焼きたてのパンの香りが漂っていた。
今日の昼食は鶏肉の煮込み。
野菜スープ。
黒パン。
財務省の食事は質素だ。
だがレティシアは気に入っていた。
王太子宮の豪華な食事より、こちらの方が落ち着く。
トレーを持って席へ向かう。
すると周囲の職員たちがそわそわし始めた。
「ここ、空いてますか?」
若い女性職員が声をかける。
「もちろんです」
気づけば席が埋まっていた。
皆、彼女と話したいのである。
「レティシア殿」
年配の財務官が尋ねる。
「本当に王太子宮で働いていたのですか?」
「はい」
「なぜです?」
「婚約者でしたので」
あまりにも自然な答えだった。
周囲が沈黙する。
「……それだけですか?」
「それだけです」
レティシアはスープを飲む。
温かい。
優しい味だった。
「王太子妃になるなら、当然だと思っていました」
誰かが小さく息を吐いた。
当然。
彼女はそう言う。
だが皆には理解できない。
これほどの能力があれば、どこへ行っても重用されたはずだ。
財務省。
王立銀行。
会計監査院。
選び放題だっただろう。
それなのに。
十年間も王太子の裏方をしていた。
「もったいない……」
誰かが呟いた。
レティシアは首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「そうです!」
思わず若い職員が叫んだ。
「だって、あなたほどの人材……」
途中で口を閉じる。
レティシアは困ったように笑った。
「皆さん大袈裟です」
だが誰も同意しなかった。
夕方。
執務室。
クラウスは窓際に立ちながら資料を読んでいた。
そこへ部下が報告書を持ってくる。
「今月の結果です」
目を通す。
黒字。
黒字。
黒字。
改善。
削減。
効率化。
数字が踊っている。
クラウスは思わず笑った。
「信じられないな」
「何がですか?」
部下が尋ねる。
「こんな人材が今まで財務省にいなかったことだ」
窓の向こうでは夕日が沈み始めていた。
赤く染まる庁舎。
忙しく帰宅する職員たち。
そして。
一人だけ机に残り、静かに帳簿を読んでいる女性。
レティシアだった。
誰に褒められるわけでもない。
誰に見せるわけでもない。
ただ目の前の仕事をしている。
その姿を見ながら、クラウスは静かに思った。
王太子宮は何を失ったのだろう。
いや。
もう答えは分かっている。
失ったのは婚約者ではない。
王国でも数人しかいない天才だった。
そして本人だけが、その事実にまったく気づいていないのである。




