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第4話 契約書の一行

第4話 契約書の一行


 バルト事務官長は嫌な予感を覚えていた。


 王太子宮の執務室に積み上がる書類の山を見ながら、胸の奥が重く沈む。


 以前なら、こういう時にはレティシアがいた。


 契約書の束を一枚ずつ確認し、数字の違和感を見つけ、問題が起きる前に潰していた。


 だが今は違う。


 彼女はいない。


 そして誰も、その不在の重さを本当には理解していなかった。


「次はこちらです」


 事務官が新しい契約書を机へ置く。


 騎士団装備更新計画。


 王都守備隊と近衛騎士団の防具を一斉に更新する大型案件だった。


 予算も大きい。


 失敗は許されない。


 バルトは書類を開いた。


 すると隣でマリアンヌが笑顔を見せる。


「まあ、素敵ですわ」


「何がですか?」


「新しい鎧です」


 彼女は挿絵の完成予想図を眺めている。


 銀色に輝く美しい胸甲。


 装飾の施された肩当て。


 確かに見た目は立派だった。


「騎士様方も喜びますわね」


 マリアンヌは嬉しそうだった。


 悪意はない。


 本当にないのだ。


 だからこそバルトは頭が痛い。


 彼女は契約書の中身を見ていない。


 絵しか見ていない。


 その時、執務室の扉が開いた。


 エドワルドが入ってくる。


「例の契約書か?」


「はい」


 バルトは立ち上がった。


「本来であれば、もう少し精査したいのですが……」


「何故だ?」


「金額が例年より安いのです」


「安いなら良いことだろう」


 エドワルドは椅子へ腰掛けた。


 確かに安かった。


 これまで取引していた工房より二割近く安い。


 普通に考えれば魅力的な話だった。


「ですが安すぎます」


 バルトは慎重に言う。


「何か条件がある可能性も……」


 エドワルドは笑った。


「君たちは心配性だな」


「競争があるから安くなる」


「当たり前の話だろう」


 そう言ってペンを取る。


 バルトは焦った。


「殿下、せめて全項目の確認を」


「確認している」


 エドワルドは契約金額を見る。


 納品数を見る。


 納期を見る。


 そして署名した。


 さらさらと。


 迷いなく。


「これで良い」


 契約成立だった。


 バルトは言葉を飲み込む。


 以前ならレティシアが必ず確認していた。


 契約書の隅まで。


 細かな文言まで。


 だが彼女はいない。


 そしてその現実は、ゆっくりと牙を剥き始めていた。


 それから一か月後。


 騎士団訓練場。


 近衛騎士団長のアルフレッドは、新しく届いた防具を見て眉をひそめていた。


「軽いな」


 若い騎士が嬉しそうに言う。


「動きやすそうです」


 だが団長は黙って胸甲を持ち上げる。


 薄い。


 明らかに薄い。


 嫌な感触がした。


「訓練用の木剣を持て」


「はい」


 騎士が構える。


「全力で叩け」


「えっ?」


「いいからやれ」


 乾いた音が響く。


 ガンッ!


 次の瞬間だった。


 胸甲の一部がへこんだ。


 訓練場が静まり返る。


「……は?」


 若い騎士が目を丸くする。


 木剣だ。


 本物の剣ではない。


 それなのに変形した。


 アルフレッドの顔色が変わる。


「全部確認しろ」


 その日のうちに検査が行われた。


 結果は最悪だった。


 金具の強度不足。


 革紐の劣化。


 金属純度不足。


 次々と欠陥が見つかる。


 訓練場には怒号が飛び交った。


「ふざけるな!」


「こんな物で戦えるか!」


「命を何だと思っている!」


 騎士たちの怒りは当然だった。


 彼らは戦う。


 命を懸ける。


 だから装備だけは信頼できなければならない。


 その信頼が壊れた。


 数日後。


 王太子宮。


 アルフレッド団長は怒りを押し殺しながら報告書を机へ叩きつけた。


「説明していただきたい」


 エドワルドは顔をしかめる。


「何の話だ」


「防具です」


 報告書を開く。


 欠陥一覧が並んでいた。


 マリアンヌが青ざめる。


「そんな……」


「検査結果です」


 アルフレッドは低い声で言う。


「このまま戦場へ出れば死人が出ます」


 執務室が静まり返る。


 エドワルドは契約書を取り寄せた。


 そして初めて細部を読む。


 一行。


 本当に一行だった。


 契約書後半。


 小さな文字。


 そこに書かれていた。


 修理費は購入者負担。


 品質保証なし。


 納期変更可能。


 返品不可。


 エドワルドの顔色が変わる。


「何だこれは!」


 バルトは静かに答えた。


「契約書です」


「こんな条件があるなら何故言わなかった!」


 怒鳴るエドワルド。


 だがバルトも限界だった。


「申し上げました」


「確認が必要だと」


 重い沈黙が落ちる。


 エドワルドは言葉を失った。


 その時。


 バルトの脳裏に、ある光景が浮かぶ。


 三年前。


 同じような契約書。


 レティシアが目を細めていた。


「この一文は削除してください」


 商人が苦笑する。


「細かいですな」


「当然です」


 レティシアは笑っていた。


「騎士の命がかかっていますので」


 あの時は当たり前だった。


 誰も気づかなかった。


 誰も感謝しなかった。


 だが今なら分かる。


 彼女は契約書を読んでいたのではない。


 人の命を守っていたのだ。


 窓の外では夕日が沈み始めていた。


 赤い光が執務室を染める。


 その色はどこか不吉だった。


 そして王太子宮の誰もが、少しずつ理解し始めていた。


 レティシアがいなくなったことで失われたものは、花や茶会の体裁だけではない。


 もっと根本的な何かだったのだと。



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