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第3話 消えたカサブランカ

第3話 消えたカサブランカ


 マリアンヌ・フェルドは、自分が未来の王妃になったような気分で鏡の前に立っていた。


 王太子宮の侍女たちが、彼女の桃色のドレスの裾を整えている。


 胸元には真珠の飾り。


 髪には小さな薔薇の髪飾り。


 鏡の中の自分は、どこから見ても華やかだった。


「素敵ですわ」


 侍女の一人がそう言うと、マリアンヌは満足そうに微笑んだ。


「そうかしら?」


「はい。本日の外交茶会でも、皆様きっと驚かれます」


 その言葉に気分が良くなる。


 外交茶会。


 それは王太子宮が主催する重要な催しだった。


 近隣諸国の使節たちを招き、友好関係を深めるための会。


 レティシアが婚約者だった頃は、毎回成功していたらしい。


 だがマリアンヌは内心思っていた。


 そんなの当然だ、と。


 お茶を飲んでお菓子を食べるだけなのだから。


 難しいことなど何もない。


 人と仲良くするのは自分の方が得意だ。


 数字ばかり眺めていたレティシアより、きっと上手くやれる。


 そう信じていた。


 王太子宮の応接ホールでは、エドワルドも準備を整えていた。


 濃紺の礼装に身を包み、金髪を整えた姿は堂々としている。


 今日は外国使節との重要な会談だ。


 だが彼もどこか余裕があった。


 ここ数年、外交茶会で問題が起きたことは一度もない。


 だから今回も当然うまくいく。


 そう思っていた。


「殿下」


 事務官長のバルトがやって来る。


 その表情はなぜか硬かった。


「どうした?」


「少々問題が……」


「問題?」


 バルトは言いにくそうに口を開いた。


「会場に飾る予定だったカサブランカが届いておりません」


「花?」


 エドワルドは眉をひそめた。


「それくらい代わりを用意すればいいだろう」


「それが……」


 バルトは困った顔をした。


「王都中の花屋に問い合わせましたが、この時期のカサブランカはすでに予約で埋まっております」


「なぜそんなことになる?」


「私にも……」


 その時、マリアンヌが笑った。


「大袈裟ですわ」


「花なんて何でも良いではありませんか」


「そういうわけにも……」


「大丈夫です」


 マリアンヌは明るく言う。


「外交とは心ですもの」


 エドワルドも頷いた。


「その通りだ」


「花一つで関係が変わるわけではない」


 結局、急遽集められた別の花で会場を飾ることになった。


 だが問題はそれだけではなかった。


 厨房では料理長が青ざめていた。


「何だと?」


 バルトが顔色を変える。


「菓子が足りない?」


「はい……」


 料理長は額の汗を拭った。


「いつも納品してくださる菓子職人が来ておりません」


「なぜだ?」


「契約更新がされていなかったそうです」


 バルトは目を閉じた。


 嫌な予感がしてきた。


 さらに追い打ちをかけるように侍従が駆け込む。


「茶葉も届きましたが品質が……」


「品質が?」


「かなり落ちております」


 箱を開ける。


 香りが弱い。


 葉も不揃いだった。


 明らかに安物である。


 バルトは頭を抱えたくなった。


 以前の外交茶会ではこんなことはなかった。


 花も。


 菓子も。


 茶葉も。


 毎回完璧だった。


 なぜ今回は違うのか。


 その答えを、彼は何となく理解し始めていた。


 やがて外交茶会が始まる。


 近隣諸国の使節たちが続々と到着した。


 高級な絹の衣装。


 宝石の装飾。


 堂々たる姿。


 彼らは会場へ入った瞬間、わずかに眉をひそめた。


 花が違う。


 毎年飾られていた純白のカサブランカではない。


 香りも弱い。


 品格も足りない。


 だが誰も口にはしなかった。


 外交官は礼儀を知っている。


 しかし、その違和感は確かに存在していた。


 席に着く。


 茶が注がれる。


 一人の使節が口をつけた。


 そして目を細める。


 香りが弱い。


 味も平凡だ。


 去年とは別物だった。


 さらに菓子が運ばれる。


 数が少ない。


 種類も少ない。


 しかも途中で品切れになった。


 会場の空気が少しずつ冷えていく。


 誰も怒鳴らない。


 誰も文句を言わない。


 だが、外交とはそういうものではない。


 露骨な失礼よりも、静かな失望の方が恐ろしい。


「今年は随分と簡素になりましたな」


 一人の使節が微笑みながら言った。


 その言葉に、エドワルドの顔が引きつる。


「そ、そうでしょうか」


「ええ」


 使節は笑顔を崩さない。


「昨年の茶会は見事でしたので」


 その瞬間。


 エドワルドは初めて気づいた。


 比較されている。


 去年と。


 そして負けている。


 会は何とか終わった。


 だが帰り際の使節たちの表情は固かった。


 以前のような親しさがない。


 どこか距離を感じる。


 夜。


 王太子執務室。


 エドワルドは不機嫌そうに机を叩いた。


「何故こんなことになった!」


 バルトは沈黙した。


 答えは分かっていた。


 花屋との関係。


 菓子職人との関係。


 茶商との関係。


 それらを維持していたのはレティシアだった。


 毎年欠かさず手紙を書き。


 交渉し。


 感謝を伝え。


 予算を調整していた。


 だから最高品質が適正価格で届いていた。


 それが消えたのだ。


 エドワルドは苛立ったように椅子へ座る。


「花くらいで大騒ぎするな」


「菓子くらいで変わるものか」


 だがバルトは思う。


 違うのだ、と。


 花ではない。


 菓子でもない。


 その裏にあった信頼が消えたのだ。


 同じ頃。


 レティシアは自宅の庭で夕食を取っていた。


 白身魚の香草焼き。


 温かな野菜スープ。


 焼きたてのパン。


 窓から夜風が吹き込み、薔薇の香りが漂う。


 穏やかな時間だった。


 王太子宮で何が起きているかなど知らない。


 だが王宮のどこかで、長年当たり前だったものが少しずつ失われ始めていた。


 そして誰もまだ気づいていない。


 それは花が消えたのではない。


 レティシアが積み上げてきた十年分の信用が消え始めたのだということに。



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