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第2話 完璧な引き継ぎ

第2話 完璧な引き継ぎ


 レティシア・ローゼンクロイツは、久しぶりに朝食をゆっくり味わっていた。


 焼きたての小麦パンを手でちぎり、温かな野菜のスープを口に運ぶ。窓の外では初夏の陽光が庭を照らし、薔薇の花が朝露をまとって揺れていた。


 こんな朝は何年ぶりだろう。


 いつもなら王太子宮から届く書類に目を通し、商会への手紙を書き、予算表の数字と格闘している時間だった。


 けれど今は違う。


 婚約は解消された。


 王太子宮の仕事も終わった。


 肩の力が抜けている自分に気づき、レティシアは小さく息を吐く。


「お嬢様」


 執事のハインツが食堂へ入ってきた。


「王太子宮から使者が参りました」


 レティシアはスプーンを置いた。


 やはり来たか、と思った。


「応接室へ」


「かしこまりました」


 応接室に入ると、王太子宮の事務官長であるバルトが立ち上がった。


 五十代半ばの真面目な男だ。


 その顔には疲労が滲んでいる。


「レティシア様」


「お久しぶりです、バルト様」


 互いに頭を下げる。


 バルトは居心地悪そうに視線を泳がせた。


「本来ならば、こんなお願いをする立場ではないのですが……」


「引き継ぎですね」


 レティシアが先に言うと、バルトは苦笑した。


「話が早くて助かります」


「当然のことです」


 レティシアは穏やかに答えた。


「私が担当していた業務ですから」


 その日の午後から、彼女は書斎にこもった。


 机の上には帳簿。


 契約書。


 取引記録。


 人脈管理簿。


 催事計画書。


 王太子宮の運営に関わる資料が山のように積み上がる。


 ペン先が紙を走る音だけが静かな部屋に響いていた。


 昼食も簡単なサンドイッチで済ませる。


 紅茶は何度も冷めた。


 夕日が差し込んでも、彼女は机から離れなかった。


 そして三日後。


 ついに最後の一冊を書き終える。


 レティシアは指先を揉みながら完成した資料を見つめた。


 三百ページ。


 分厚い革表紙の冊子が十冊以上積み上がっている。


 予算管理。


 契約先一覧。


 取引履歴。


 年間行事。


 外交日程。


 商会ごとの注意事項。


 貴族同士の人間関係。


 各部署の問題点。


 そして、彼女しか知らない細かな慣習まで。


 隠し事は一つもない。


 すべて書いた。


 読めば誰でも引き継げるように。


 少なくとも、真面目に読む気があるなら。


「終わりました」


 レティシアはそう呟いた。


 不思議な達成感があった。


 これで本当に終わりだ。


 もう自分にできることはない。


 翌日。


 王太子宮。


 執務室ではエドワルドが朝食を取っていた。


 焼きたてのクロワッサン。


 蜂蜜入りのヨーグルト。


 ハムと卵料理。


 香り高い紅茶。


 その向かいにはマリアンヌが座っている。


 淡い黄色のドレスを着た彼女は上機嫌だった。


「殿下、これからは私がお支えいたしますわ」


「期待している」


 エドワルドは笑う。


「レティシアは何でも深刻に考えすぎだった」


「そうですわね」


 マリアンヌはくすくす笑った。


「数字だの契約だの、そんなものばかり見ていましたもの」


 そこへ事務官長のバルトが現れる。


 後ろには使用人たち。


 巨大な木箱を何箱も運んでいた。


 エドワルドが眉をひそめる。


「何だ、それは」


「レティシア様からの引き継ぎ資料です」


 木箱が床に並べられる。


 ずしり、と重い音が響いた。


 マリアンヌは目を丸くした。


「まあ!」


 蓋が開かれる。


 中から分厚い冊子が次々と現れた。


 革表紙に金文字。


 丁寧に分類されている。


 エドワルドは一冊を手に取った。


 ずしりと重い。


 表紙にはこう書かれていた。


『王太子宮年間予算運営指針』


 ぱらりとめくる。


 びっしりと数字が並んでいた。


 注釈。


 補足。


 交渉履歴。


 改善案。


 細かな文字が隙間なく埋まっている。


 エドワルドは数ページで閉じた。


「読むだけで頭が痛くなるな」


 マリアンヌも別の冊子を開く。


『主要商会取引記録』


「まあ、難しい」


 数秒後には閉じていた。


「こんなもの、本当に必要なのでしょうか?」


 バルトの表情が強張る。


「必要です」


「ですが、これらは王太子宮の運営に――」


 マリアンヌは笑った。


「心配しすぎですわ」


「そんなに難しく考えなくても、みんなで協力すれば大丈夫ですもの」


 エドワルドも頷く。


「その通りだ」


「レティシアは優秀だったのかもしれないが、少々大袈裟だった」


 バルトは何か言いかけた。


 しかし口を閉じる。


 言っても無駄だと悟ったのだろう。


 エドワルドは冊子を木箱へ戻した。


「必要になったら読む」


「それで十分だ」


 マリアンヌも明るく言う。


「そうですわ」


「私たちには優秀な事務官の皆さんもおりますし」


 そして使用人へ向かって手を振った。


「とりあえず本棚へしまっておいてくださいな」


「はっ」


 使用人たちは箱を運び出す。


 長い廊下を通り、資料は書庫の奥へ積み上げられた。


 誰も開かない棚の一角に。


 静かに。


 埃をかぶる未来を待つように。


 その頃、レティシアは自宅の庭で紅茶を飲んでいた。


 風が薔薇の香りを運んでくる。


 膝の上には読みかけの本。


 何も急ぐことはない。


 久しぶりの穏やかな午後だった。


 彼女は知らない。


 いや、薄々は分かっていた。


 三百ページの引き継ぎ資料は、きっと読まれないだろうと。


 だが、それでも構わなかった。


 自分にできる責任は果たした。


 後は彼らの仕事だ。


 レティシアは静かに紅茶を口へ運ぶ。


 一方その頃。


 書庫の奥で眠る十数冊の引き継ぎ資料は、まるで未来からの警告のように静かに積み上がっていた。


 誰もまだ気づいていない。


 その本棚こそが、王太子宮の運命を分ける境界線だったことに。



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