第1話 婚約破棄と「当然」の終了
第1話 婚約破棄と「当然」の終了
「レティシア様、申し訳ありません。どうしても予算が足りません」
夜会開始の一時間前。
王宮大広間の隣にある準備室で、料理長は困り果てた顔をしていた。
テーブルの上には献立表と予算書が広げられている。
レティシア・ローゼンクロイツは書類を確認しながら小さく頷いた。
「肉料理を一品減らしましょう」
「ですが、貴族の皆様から不満が出るかと……」
「その代わりに季節の果物を増やしてください。先週、東部地方から品質の良い桃が入っているはずです」
料理長は目を瞬かせた。
「確かにありますが……」
「でしたら問題ありません。果物の盛り合わせを豪華に見せれば見劣りしません」
料理長は感心したように笑った。
「いつもながらお見事です」
「お礼を言われるようなことではありません」
レティシアは穏やかに微笑んだ。
それが仕事だった。
誰かがやらなければならない仕事。
王太子宮の予算は無限ではない。
限られた資金で体裁を整え、来客を満足させ、問題を起こさないようにする。
華やかな夜会の裏には、地味で面倒な調整が山ほどあった。
そこへ侍従長が駆け込んでくる。
「レティシア様!」
「どうしました?」
「東方伯と西方伯です。席順が隣になっております」
レティシアは眉をひそめた。
東方伯と西方伯。
先月、領地境界線を巡って激しく対立したばかりの二人だ。
「席を一つ離してください」
「しかし、もう名札を置いてしまいました」
「構いません。私が説明します」
侍従長はほっとしたように肩を落とした。
「助かります」
そんなやり取りをしているうちにも、新しい問題が次々と持ち込まれる。
花の納品が遅れている。
楽団員が一人発熱した。
来賓の到着時刻が変更になった。
王太子の衣装にボタンのほつれが見つかった。
どれも些細な問題だ。
だが放置すれば夜会全体を台無しにしかねない。
レティシアは一つひとつ処理していく。
まるで水漏れする堤防の穴を塞ぎ続けるように。
それがいつもの日常だった。
誰も知らない。
誰も気づかない。
夜会が成功するのは当然。
料理が並ぶのも当然。
花が飾られるのも当然。
王太子が恥をかかないのも当然。
その「当然」を維持するために誰が走り回っているのかを、考える者はいなかった。
ようやく準備が終わった頃には、夜会開始まであとわずかだった。
レティシアは鏡の前に立つ。
薄い紺色のドレス。
派手さはない。
宝石も最小限。
流行の最先端からは少し外れている。
だが彼女はそれで良かった。
豪華なドレスを選ぶ予算があるなら、その分を孤児院支援に回した方がいい。
そんな考え方をする令嬢だった。
「相変わらず地味だな」
背後から声がした。
振り返ると、エドワルド王太子が立っていた。
金髪を整え、濃紺の礼装に身を包んでいる。
誰が見ても絵になる姿だった。
「殿下」
レティシアは頭を下げた。
エドワルドはちらりと彼女を見た。
「もう少し華やかな格好はできないのか?」
「申し訳ございません」
「謝罪を求めているわけではない」
そう言いながらも、その口調はどこか冷たい。
以前の彼ならこんな言い方はしなかった。
レティシアは気づいていた。
ここ数か月、彼が自分から離れていっていることに。
理由も分かっていた。
マリアンヌだ。
男爵令嬢マリアンヌ・フェルド。
最近のエドワルドは彼女を連れて歩くことが増えていた。
明るく愛らしく、人当たりが良い少女。
自分とは正反対だった。
「まあ、殿下!」
噂をすれば何とやら。
桃色のドレスをまとったマリアンヌが駆け寄ってくる。
ふわりと花の香水が香った。
「夜会が始まりますわ」
「ああ」
エドワルドの表情が柔らかくなる。
その変化を見て、レティシアは胸の奥が少しだけ痛んだ。
だが驚きはしない。
ずっと前から分かっていたことだった。
夜会が始まる。
音楽が流れる。
料理が運ばれる。
客たちは笑顔を浮かべる。
そして誰もレティシアを見ない。
彼女がどれだけ走り回ったかなど、誰も知らない。
知らなくて当然なのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「皆、聞いてくれ」
エドワルドの声が大広間に響いた。
楽団の演奏が止まる。
貴族たちが振り向く。
嫌な予感がした。
いや。
予感ではない。
確信だった。
ついに来たのだ。
「私は本日をもって、レティシア・ローゼンクロイツとの婚約を破棄する」
どよめきが広がる。
だがレティシアの心は不思議なほど静かだった。
悲しいというより、疲れていた。
十年間。
支え続けた。
頭を下げ続けた。
数字を合わせ続けた。
問題を片付け続けた。
そして今日、終わる。
それだけだった。
「理由は明白だ」
エドワルドは続ける。
「レティシアは地味で華がない」
「いつも書類ばかり見ている」
「未来の王妃として相応しくない」
貴族たちが頷く。
誰も反論しない。
レティシアは少しだけ笑いそうになった。
書類ばかり見ている。
その通りだ。
誰かが見なければ王太子宮は回らないのだから。
「そして私はマリアンヌを選ぶ」
拍手が起きる。
マリアンヌが頬を染める。
レティシアは静かに二人を見つめた。
終わった。
本当に終わったのだ。
「何か言いたいことはないのか?」
エドワルドが尋ねる。
レティシアはゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
会場が静まり返る。
「殿下のご決定を尊重いたします」
「そうか」
エドワルドは満足そうに頷いた。
レティシアは顔を上げる。
そして穏やかな声で続けた。
「では、私が担当しておりました業務も、本日をもって終了いたします」
「業務?」
「予算管理、契約管理、催事運営、商会折衝、外交日程調整、人員配置などです」
エドワルドは鼻で笑った。
「そんなもの、誰にでもできる」
「そうですか」
レティシアは微笑む。
怒りも恨みもなかった。
ただ疲れていた。
そしてようやく終われることに安堵していた。
「安心いたしました」
深く一礼する。
「十年間、お世話になりました」
そう言って背を向ける。
誰も引き止めなかった。
誰も気づかなかった。
その夜、王太子宮を支える最も大きな柱が静かに去っていったことを。
そして、その柱を失った建物が、これからゆっくりと音を立てて崩れ始めることを。




