第二十九話「風の国、エルメナス公国」
風が頬を撫でた。
東の街道を抜けると、視界がふいに開ける。
「……ここが、エルメナス公国か」
九重とレーナの前に広がったのは、緑を基調とした谷の都市だった。
広場では楽団が笛を奏で、噴水が陽光を受けてきらめく。
街路では商人が声を張り上げ、子供たちは歓声を散らして駆け抜けていく。
山脈から吹き下ろす風は止むことなく、国中を巡っていた。
「ふむ、にぎやかな国だな」
「……この国では商売が比較的自由と聞きます。税も緩く、人の出入りも寛容で――」
そのとき。
「助けて! 誰か! 夫が、夫が攫われたの!」
一人の女が悲鳴を上げて駆けてきた。
痩せた体に乱れた髪。必死に手を合わせ、天へと祈りを捧げる。
「お願いです……夫を……返して……!」
街の空気が、一変した。
商人は道具をしまい、露店は慌ただしく店じまいを始める。
子供たちは駆け足で家に帰り、窓という窓が一斉に閉ざされた。
「いったい、これは……」
九重が呟いた瞬間、《アル・アジフ》が淡く光を放つ。
まるで脈打つかのように、低く震えていた。
「どうした旧き友よ……――うえ?」
視線を上げると、天頂から何かが降ってくる。
点のようだったものは、次第に輪郭を帯び――
「レーナくん!」
咄嗟に体当たりで彼女を弾き飛ばす。
次の瞬間、何かが彼女のいた場所へ叩きつけられた。
大地がひび割れ、石片が宙を舞う。
視界が白く弾け、耳の奥で鈍い響きが残る。
落ちてきたものは――人間だった。
▼次回「無礼者」
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