f,c ファースト・コンタクト
俺の前を、チンピラめいた男がいる。知り合いじゃない。どんなに記憶を掘り下げて行っても、この男が以前こんな趣味の悪い格好でなくても。この顔に記憶は無い。
なら、何なんだ。
「“小鳥が遊ぶ”で、『小鳥遊』くんねー。可愛らしいお名前」
揶揄う音を隠しもせず、男は笑った。愉しそうに。
愉悦の顔に、嫌みは見当たらない。何が、何がそんなに面白いのだろうか。
颯稀にはわからない。
「何なんですか?」
颯稀は、常に壊すことの無い優等生の鉄仮面を、不機嫌な態度丸出しで崩すことなく続けていた。相手には、それさえ、楽しみの一部らしい。
「別にー……。敬語じゃなくて良くない? 俺らタメだし。ね、颯稀ちゃん」
男は、そう笑った。
恙無く終わる日常。そうやって、いつも流して来た。
当たり障りも面白味も無い授業を受けノートに書きレポートを作り、試験が在れば受け、教授に呼ばれれば適当に世間話をしながら手伝いをし。
『友人』を名乗る知り合いたちからは様々誘いを受けながら上手く躱して、時に交わして来た。
そうして家に帰れば未だ熱々で、平和な年甲斐の無い両親がいる。無害な、どちらかと言うと嫌ってるんじゃないのかと思える程避ける、颯稀とは正反対の活動家な妹と。
続くもんだと考えていた。平凡に、この日々は。
ところがそんな中で。
アイツが、あの日颯稀に声を掛けて来た。
颯稀が避けて来た派手な莫迦っぽい服装の、中身はそれ以上と言って良い状態の男。
岬、遠矢。
一番、関わりたくないタイプの男。
「颯稀ちゃあん。さっちゃーん。颯……」
「……わかったから、呼ばないでください。聞こえてます」
「何だ。無反応だから全然気付いてないのかと」
「……」
“俺と遊ばない?”
“なぁ、遊ぼーよ。きっと楽しいから。ねぇ、受け入れて? 損はさせないし、退屈もさせない。だからさぁ、”
「……」
“他のヤツらみたく上っ面の皮だけで受け流さないでよ、ダーリン”
あの日の、会話。呼び止められて、そう言われ。
どう言う意味だ、とは訊かない。
────わかっていた。
わかっていた。言葉の意味も、その、この男が颯稀を付け回す理由も。
この男は、知っているのだ。颯稀が、“どんな人間”であるのか。
「何だ?」
「はい?」
「あんた、いったい何がしたいんだよ?」
「────」
ただ、それが最大の疑問だった。自分と言う存在が、何をそんなにこの男は愉しいと言わせるのか。どうしたいのか。颯稀に[何]を望んでいるのか。
まったく見えなかった、その、[目的]。
何を、してほしいのか。
「……」
男は、────岬遠矢は黙り込んでしまった。俯いて、颯稀の問いにどう答えるか考えているようだった。
そのまま、颯稀も口を閉じて待つ。やがて。
「……家、来ない?」
電車に乗って来た遠矢の家は結構な坂の上に立っていた。周りは閑静な住宅街と言った風情で、時たま子供が家々の間を走り抜けて騒ぐ声以外、ここでの音は聞こえない。遠くの喧噪はここまで届くのに。
坂を上るのを、こんなにキツいとは思わなかった。このところ平坦な道しか歩いていない颯稀は、久方振りの上り坂に体が軽い悲鳴を上げていた。運動不足は否めない。つい、舌打ちする。
「あら。颯稀ちゃん、つらい? もうすぐだから」
子供を宥めるような、やさしげに取り繕われた声で言われる。家に来るかと言われた、あれから今まで二人の間に話をする場面は無かった。ただ黙々と、遠矢の家を目指したのだ。
「……るさい……」
憎まれ口を叩く。遠矢は、笑って────あの出会いから見せていた愉快を表現した笑顔ではなく、その種類とは別の、あたたかみを覚える笑みだ────無言でそれに応じた。
それは、虚を衝かれた気がした。
あの日の出会いに似て、非なる“モノ”。
あの日、あの科白に絶句した自分はその刹那を憎んだ。
こんな、男の言うことに何をショックを受けているのか、と。
あの声を失った空白を、颯稀は憎んだけれど。殺したい程思い詰めたけれど。
今の、この瞬間はどちらかと言うならば。
──────きみは、──────だね
これは誰の言葉だっただろうか。
いつだったか。あの、今はきっと立派な女性に成り果てただろう、あの。
麗しき生徒会長様。
「……。着いたよー?」
はっと、それは夢から醒めた感覚で。考えに没頭する余り、前を行っていた遠矢を通り過ぎて、呼び止められたときには一メートル近くオーバーしていた。
「どこに行く気よ、颯稀ちゃん」
遠矢が呆れ顔で笑った。よく笑う男だな、と颯稀は睨んだ。
「や、ちょっと、」
「物思いに耽るのは情緒が有って、素敵だけどね。ぼーっと道歩くのは危ないわよぉ?」
「どこのオカマだよ、あんたは」
颯稀は、呆れ返してエントランスへと入る遠矢を追った。遠矢の家はマンションで、しかし両親とは暮らしていないらしい。遠矢は言った。やはり、笑みを張り付けて。
嫌われてるから、そう。
広いリビング。中央寄りにソファが一人掛けと二人掛け、計三つ良い具合の配置に置いて在った。その一つ、二人掛けのソファを勧められて、颯稀はおとなしく座った。別に逆らう必要も無いし、理由も無い。横に肩掛けの鞄を置いて、浅く腰掛ける。
「何飲むー? 珈琲? 紅茶? それとも……いろいろ在るけどねー?」
キッチンに向かった遠矢が颯稀にそこから伺いを立てる。颯稀は初環境に戸惑いながらも返す。
「……珈琲で良い」
「ホット? アイス?」
「アイス」
「あら意外〜。颯稀ちゃんは、ホット派かと思ってたぁ」
フザけたような遠矢の調子に颯稀が苛立つ。どこの誰が、この初夏とは言えクソ暑い中、あの上り坂を歩かされたと言うのに平気でホットを頼むんだ。少々感情に任せて声を荒げた。
「そんなコトは良いっ。……いったい何なんだよ、本当に」
あの日声を掛けられた事実、そして纏わり付かれている状況。理由はわかっている。そうじゃなくて。
その狙いを聞かせてくれるのかと付いて来たのに。そんな颯稀の苛々した風体をくすくす笑いながら遠矢は冷えた珈琲を持って来た。ソファ前のテーブルに置いて行く。置くたび、硝子の中の珈琲が揺れて、浮かんだ氷が器と当たって音を奏でた。
「テレビ点けて良い?」
「────。……お好きにどうぞ」
もう抗議する気も失せた。浅い座りだったのを深く埋めて。背凭れに凭れ掛かって颯稀は天井を仰いだ。いったい何なんだ。もう、この数日何度と無く考えた。
この男は何なんだ。何がしたいんだ。この状態は何なんだ。何でこうなっているんだ。
あの日、どうして俺はこの男に反応してしまったんだ。思えばあれは、個人的にだけれど物凄い過剰反応じゃないか。
前もそうだ。自分の鉄仮面を見破られて、特に慌てる必要は無いのにかなり動揺した。周囲的にはきっと冷静に見える程の小さな波紋だっただろう。
それでも、と颯稀は思う。この平坦な障害の無い日常に、なぜかいるのだ。颯稀の忘れたころに、一石、波を立たせようと投じる[存在]が。
数年前は、あの麗しき生徒会長。
じゃ、今回は……?
颯稀はちらと、遠矢を横目で盗み見る。遠矢はテレビを見ていた。観て、も、視て、もいない。見て、いたのだ。ただ流している画面を、内容に問わずテレビの一部として眺めていた。
つまらなそうな表情。初めて見たかもしれない。無表情の面立ちは、派手な外見で判別出来なかったが、それなりに整っていた。
颯稀はその遠矢に殊の外驚いて、またその自身の心境に更に吃驚して。つい目線を下げた。
「あー、またかぁ」
「?」
遠矢が、ぼやくように言った。零れたのはきっと意識なんてして無い。無意識の作業だ。
遠矢の思考がそうさせたのだろう。その呟きに颯稀は顔を上げた。
遠矢が見入っていたのは、テレビに映るニュースだった。
犯人は、このようなサイトを開いて……と、沈痛な面持ちでキャスターが告げる。
またどこかの気違いが、やらかしたらしい。どうせ放火か通り魔殺人か。颯稀はうんざりとした顔でそのニュースを見た。映像は、その犯人とやらのサイトがぼやかされて流されている。
モザイクを掛けているが、要するに自傷画像を上げては公開していたらしい。
痛め付けるのが、自らの体だけじゃ抑えられなくなったとか、そんなところだろうか。
「馬鹿馬鹿しい……」
思いもせず、口から落ちた。これはきっと颯稀の無意識の作業だ。思考の果てに、遠矢がしたように。
遠矢が顔を伏せた。口元を抑えて。颯稀はむっとする。何だと言うのだ。
「……あー、悪い悪い。やぁ、颯稀ちゃんらしいなぁって」
どう言う意味だ。颯稀が反論に転じようとしたとき。
遠矢が言った。
「ねぇねぇ。俺もやろうかな、こーゆーのっ」
「はっ、」
「コレ、結構酷い傷だと思うんだよねぇ。ど?」
そう笑って、さっきから、出会いから変わらない笑みで捲られた袖の、その下の皮膚は。
「────」
硬直した颯稀。遠矢の朗らかな笑みは、苦い緩いモノにそこで変化した。
「あ、やっぱキツい? モザイクすれば何とかなるかねぇ。ね? 颯稀ちゃん」
何の変哲も無くなった笑顔は、最早異物で、颯稀は心中怯えた。
……自分は“捻くれてる”って思ってた。
あの麗しき生徒会長も。
けど、遠矢は? 捻くれている?
この傷……違う。見せ付けて置いて。
笑ってる。無邪気に……“無邪気”? どこが。
こんなにも悪意に満ちていて。
「それ、虐待とか、か……?」
その傷はもう『痕』だったが、引き攣れていた。腕は丸い跡が、波紋のように幾重も幾重も重なって、原型の円形をとどめていなくて。それは。
焼かれた痕。
「ううん。この丸いのは自分でやったー。『根性焼き』ってヤツ。痛いんだよー? 何度有ると思う? や、“何度”なんてレベルじゃ無いけどね。いやー、痛いの熱いの何のって」
「……何で……」
「んー、」
「何で?」
「答えは簡潔。
“虐待されなくなったから”」
颯稀は我が目を疑った。こんなときまで。
だって、こんなときまで遠矢は、笑みに口の端を持ち上げているのだから。
「何で、」
「“何で”、ね。普通の人はそう言うの。けどね、颯稀ちゃん。徹底的に壊されて壊れて、底を見た人間て言うのはこんなモンだよ? 壊す人がいなくちゃ、自ら壊すしか無い。どうしようもないね。一度壊れてしまったら修復なんて出来ないんだよ。俺はね、俺が『僕』だったころから、疎まれて嫌われて憎まれて来たよ。生まれちゃいけなかった人間だったから」
「何……」
口を開く行為自体が、すでに何の効果も無かった。
「安心出来ないんだよ。壊れないと。壊されないと。情けないでしょ? “あー、コイツ頭イカレてる”って思ったでしょ。その通り。颯稀ちゃんの『歪み』なんて、可愛いものよ。俺ぐらいになると、洒落になんてなりゃしないんだから」
笑ってる。緩い微笑みはともすればやさしげにも感じられる。けども、颯稀には違って視えた。
底無し沼が人間だったら、こんな感じだろうか? そう連想した。何でかなど理解の外側に位置してしまって、手すら届かないけれど。
「颯稀ちゃんはね、似てるの。完璧主義の、俺の破壊者に。そして、慈愛主義の、俺の救護者に。
どちらにも似てどちらでも無かった。だから。
欲しくなって、手を伸ばした訳です。ごめんね」
何を、謝っているんだろう。遠矢は。
“どれ”を謝って、いるんだろう。颯稀はわからない。『何』が、多過ぎて。
ただ、思った。
自分は、穢いかもしれない。そう思った。
平均的な家庭に生まれた颯稀。せいぜい、両親共にめずらしい名字だったと言う程度の、普通の家。父親は“格好良い”と言えば言えなくも無い、でも特別美形、と言うこともない。母親は“可愛い”と言えば言えなくも無い、だけど格段に美人、と言う訳でも無い。
姉も妹も、その両親に似ていて、中の上くらいのラインで、可愛いとか言われる容姿だった。
その中で。
その中で颯稀だけがなぜか[異質]だった。
父にも母にも似ているはずなのに、そう評されるのに、なぜか平均では無かった。
“綺麗”、と言われた。美形だと。
美形だって。評判で、学校でもそれなりに持ち上げられて。本来ならよろこぶのが通常だろう。だが、それは確固とした分厚い壁だった。常々己と家族を隔てた。
似ているはずの両親とも姉や妹とも、『似て』いながら『別物』だった。
お祭り好きで、どちらかと言うとアウトドアな気質の両親の、それさえ姉や妹に遺伝しても自分には遺伝しなかった。
颯稀は、『異質物』だった。小鳥遊と言う家族の。
勿論、誰がそう言った訳でも無い。両家、親戚中も良い家だ。だけれど、その中でさえ。
「お父さんに似てるわねー。でも凄く綺麗な顔」「お母さんにそっくりだ。けどこりゃ随分な美形だな、おい」「きっと、良いところを貰ったのね」──────そんな言葉の連続。
吐き気がした。
親に似てるのに、違うなんて、僕はじゃあ誰の子なの? そう、言い掛けて飲み込んだ日だって在った。
それでも、『黒い羊』だと考えられるのが嫌だから。『白い羊』の粉を塗った。童話の中の、白山羊に扮した狼みたいに。
『良い子』で在り続けた。誰にでも、その粉を被った。年期の入った粉は鉄の仮面になった。動じなくなった。内面の揺れなんて一切通さない面の皮。
見破った人は、数年前に一人。────中学のとき、生徒会で。あの麗しき生徒会長に。
彼女は言わば『猛者』だった。人を視る能力に長けていただけ。そして、[同類]だった。
彼女とのやり取りはさながら仮面夫婦。常に舞台の上の演技だった。
その彼女も今はどうしてるのか、定かじゃ無いが。
それから。ここに、今一人。
「いっしょにいない? 損は無いと思うけど」
「……」
僕は、──────俺は、穢い。
捻くれた、捩くれた、本性。“黒い羊”。
だけども。
今、目の前にいて、壊れた玩具のように笑う男はそれ以上に『道化』だ。壊れている。部品が見えている。絡繰りの歯車が視えている。
ここなら、安堵出来ると思った。この、根幹から狂った人間の前や隣なら。
生きていられる。黒い羊でも。
そう考え付いたら、何て、誘いが甘美なんだろうと思った。
莫迦みたいだ。本当に。
これで、相手が女なら結婚でもしたんだろうか。そんなことも、考えたかもしれない。
歪んだ自分よりヒドイ[存在]。それを観ていられるなら。きっと自分は平静。安寧。安泰。
颯稀は眩暈がした。瞼を下ろす。視界を覆い尽くして息を吐く。
その闇の中。視覚の内側で浮かんだ罵倒。
俺は穢い。手非道い人間だ。最悪だ。生きている価値も無い。だからって、全否定も出来ない。拒絶も、拒否さえも。弱いから。
最低だ。そのくせ逃げることさえ出来ないのか。中途半端な。
「……」
そう、息を一つ唇から逃すたび、颯稀は自己を詰っていた。
答えなど、一つしか無いのに。取捨選択のしようが無い程。
一つしか、選べやしないのに。
恥じ入りようも、無い程に。
【Fin.】




