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第五話:深まる闇と一筋の光

 魏延(ぎえん)の天幕を出てから、陳平(ちんぺい)は以前にも増して注意深く周囲を観察するようになった。将軍の言葉は、彼の心に重い責任感を植え付けた。この不正は、単なる兵糧(ひょうろう)の横領に留まらず、蜀漢(しょくかん)という国の根幹を蝕むものだ。そして、その背後には楊儀(ようぎ)のような大物が控えている。


 日々の輸送任務は変わらず続いた。陳平は、与えられた任務をこなしながら、密かに「特別な荷車」の動向を追い続けた。魏延に最初の日誌を預けた後、陳平は新たな竹簡を用意し、日々の不審な記録を重ねていた。すでにその竹片も枚数が増えている。楊儀の部下たちは警戒心を強めているようで、夜間の積み替え作業は以前にも増して隠密に行われるようになった。しかし、陳平もまた、南征で培った野生の勘と、農民ならではの忍耐力で、その隙間を縫って情報を集め続けた。


 ある夜、陳平は荷車の影に身を潜め、積み替え作業を観察していた。楊儀の部下たちが、いつも以上に慌ただしく、低く声を潜めて指示を出し合っている。彼らが荷車の覆いを持ち上げた一瞬、陳平の目に、中に積まれたものがはっきりと映った。それは、黒ずんだ木箱だった。木箱には、粗末な墨で何かの記号が書かれている。兵糧や武器の類ではない。薬品、あるいはもっと価値のある、何かの品物だろうか?


 その時、物陰から足音が近づく気配を感じた。陳平は咄嗟(とっさ)に身を隠したが、時すでに遅かった。背後から強い衝撃を受け、陳平は地面に倒れ込んだ。目の前に立っていたのは、張剛(ちょうごう)だった。彼の顔には、冷たい怒りが浮かんでいた。


「やはりお前か、陳平。しつこい真似をしやがって」

 張剛は陳平の胸ぐらを掴み上げ、顔を近づけた。

「誰かに相談しているようだが、これ以上嗅ぎ回るなら、ただじゃおかねぇぞ」

 その言葉に、陳平は自分の行動が筒抜けになっていることに衝撃を受けた。一体どこから情報が漏れたのか。


 張剛は陳平の持っていた竹簡に気づき、それを乱暴にもぎ取った。

「ほう、これはご丁寧な記録だな。だが、こんなもの、証拠にはなりゃしねぇ」

 張剛は日誌を無造作に地面に叩きつけ、足を乗せて踏みつけた。陳平が必死に集めた記録が、土にまみれ、破壊されていく。


「見せしめだ。これ以上、余計な真似はするな」

 張剛はそう言い放ち、陳平を突き飛ばした。地面に叩きつけられた陳平は、痛みに喘ぎながらも、散らばった日誌の破片を拾い集めようとした。だが、張剛の手下たちに泥の中に蹴散らされ、拾い集められたのはごく一部の破片に過ぎなかった。無念と屈辱が、彼の全身を支配した。不正の闇は、自分が思っていたよりもはるかに深く、そして彼らの手は、すでに軍の隅々まで伸びている。


 その夜、陳平は手元に残ったわずかな破片を握りしめ、自らの無力さを噛み締めた。魏延に全てを話したにもかかわらず、自身の行動は筒抜けだった。自分が狙われているだけでなく、将軍に危険が及ぶかもしれない。どうすれば、この巨大な不正に立ち向かえるのか。陳平の心は、絶望の淵に立たされていた。


 張剛の言葉が耳に残る。「誰かに相談しているようだが、これ以上嗅ぎ回るなら、ただじゃおかねぇぞ」。自分の行動が筒抜けだったという事実が、陳平の心を深くえぐった。魏延が最初の日誌を手にしているとはいえ、もしこの件が楊儀に筒抜けだとすれば、魏延にも危険が及ぶ。新たに書き記してきた記録の多くは泥に散乱して失われ、彼は完全に孤立していた。父の仇を討ち、兵士たちの命を守るという決意が、音を立てて崩れていくようだった。


 数日後、陳平はいつも通り輸送任務をこなしていた。心は重く、体は疲労困憊(ひろうこんぱい)していたが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。張剛からの嫌がらせは露骨になり、些細な失敗でも罵倒され、重い荷を無理やり押し付けられることも増えた。他の兵士たちは見て見ぬふりをするか、あるいは張剛に同調して陳平を嘲笑した。彼らは、不正に加担しない陳平を、自分たちの「黙契(もくけい)」を乱す異分子と見なしているようだった。


 そんなある日、陳平は食料の積み下ろし作業中に、一人の兵士が地面に倒れているのを目にした。見慣れない顔だ。どうやら、新しく補充された兵士のようだった。男は顔色を悪くし、全身を震わせている。

「おい、どうした? 病か?」

 張剛の声が響く。

「熱が…動けんのだ…」

 男はか細い声で答えた。

 張剛は舌打ちをした。

「またか。こんな役立たずは、置いていけ!」

 周りの兵士たちは、何の感情も見せずにその場を離れようとした。南征でも同じ光景を何度も見てきた。病に倒れた兵士は、隊列の足手まといと見なされ、置き去りにされるか、あるいは粗末な手当しか受けられずに死を待つしかなかった。


 陳平は、その光景に胸を締め付けられた。父の死、そして南征で失われた多くの命。その中には、満足な治療も受けられず、飢えと病で倒れていった者たちがいた。この男も、このままでは同じ運命を辿る。


「待ってください!」

 陳平は思わず叫んだ。

 張剛が睨みつけた。

「なんだ、陳平。貴様まで厄介事を増やす気か」

「ですが、このままでは…」

「うるさい! お前は自分の分だけやっていればいいんだ!」

 張剛はそう怒鳴り、兵士たちに「行くぞ!」と指示した。


 陳平は葛藤した。ここで抵抗すれば、自分もまた厳しい処分を受けるだろう。しかし、目の前の命を見捨てることはできなかった。彼は、自分の持つ限りの知識と、わずかな貯えの中から薬草を買い求め、その兵士の世話を始めた。夜になると、自分の食料を分け与え、濡れた布で体を拭いてやった。


 数日後、兵士の熱は少しずつ下がり、意識もはっきりしてきた。

「あ、ありがたい…」

 男はかすれた声で言った。

「俺は、馬岱(ばたい)である…」

 陳平は目を見張った。馬岱。魏延将軍が天幕で語っていた、最も信頼する腹心の部下だ。

「馬岱殿……! 魏延将軍からお伺いしておりました。将軍の密命を受け、新兵として潜入されていたのですね」

 馬岱は苦渋に満ちた表情で頷いた。

「そうだ……魏延将軍の命を受け、新兵に紛れて楊儀一味の不正を探っていたのだ。だが、任務中に悪寒と高熱に襲われて動けなくなり、張剛の奴に足手まといとして見捨てられた。貴様が介抱してくれねば、命を落とすところだった」

 馬岱は震える手で、懐から泥に汚れながらも布で丁寧に包まれた竹片の束を取り出した。

「馬岱殿、これは……?」

「あの夜、貴様が張剛に痛めつけられ、日誌を踏み砕かれたのを見たのだ。奴らが去った後、朦朧とする意識の中で現場を這い、土中に散乱していた竹簡の破片を拾い集めておいた。貴様が命がけで記した決定的な記録だ。決して無駄にはさせん」

 陳平の目に熱いものが込み上げた。踏みにじられた正義は、決して消えてはいなかった。


 南征での父や多くの兵士たちの無念な死、そして魏延から聞いた「漢室再興」という大義。それらを蔑ろにし、己の利のために物資を横領し、命すら平然と奪う。この不正は、最早(もはや)一握りの小遣い稼ぎなどではない。蜀漢の兵士たちが命を賭ける理由を、国そのものを蝕む、許されざる大罪なのだと、陳平は改めて確信した。


 馬岱の回復は、陳平にとってまさに一筋の光だった。彼と力を合わせれば、楊儀の不正を白日の下に晒すことができる。馬岱が魏延の忠実な部下であるならば、必ず自分の言葉を信じ、魏延へと強力な証拠を届けてくれるだろう。


 陳平は、自らが負った屈辱と絶望を乗り越え、再び立ち上がる決意を固めた。今度こそ、確実に魏延に情報を届けなければならない。そして、この国を蝕む闇を暴き、多くの兵士たちの命を守るために。

お読みいただきありがとうございます!


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