第六話:結ばれた信頼、迫る危機
数日後、馬岱の熱は完全に下がり、顔色も回復してきた。陳平は、彼が完全に意識を取り戻したのを確認してから、慎重に口を開いた。
「馬岱殿。一つ、お話したいことがございます」
馬岱は、陳平の真剣な眼差しに応えるように、ゆっくりと頷いた。陳平は、張剛に襲われ、日誌を奪われた件は伏せ、南征中に感じた漠然とした違和感から語り始めた。兵糧の不自然な多さ、闇に紛れて運ばれる「特別な荷車」のこと。そして、最近の輸送任務で目撃した、楊儀の部下たちが絡む不審な動き。
「その荷車には、黒ずんだ木箱が積まれておりました。兵糧ではない。恐らく、高価な品か、あるいは…」
陳平は言葉を選んだ。
「あるいは、軍医の使うべき薬が横流しされているのではないかと」
馬岱の顔から、血の気が引いた。馬岱の眼光が、陳平をまっすぐに見据える。
「貴様、その話は本当か」
「はい。この目で確かに見ました。そして、馬岱殿がここへ置き去りにされたことも、楊儀が関わっているのではないかと…」
馬岱は、しばらく無言で考え込んでいたが、やがて深く息を吐いた。
「……信じる」
彼の声は低く、そして重かった。
「実は、わしも以前からこの輸送経路での不審な動きに気づいてはいた。丞相府から下される物資の指示の中に、不自然なものが混じることがあったのだ。楊儀め……」
馬岱の表情には、怒りだけでなく、深い苦悩が浮かんでいた。
「わしは、部隊上層部からの指示で、あの『特別な物資』の輸送を表向きは監督していた。楊儀の意図は明白だ。不審な動きをする者がいれば、こちらの管理下に置き、不正に巻き込むか、邪魔なら排除する。まさしく、わしがそうさせられたのだろう。病に倒れたことで、用済みと判断し、この場に捨て置いたのだとすれば…」
馬岱は奥歯を噛み締めた。
「貴様が助けてくれなければ、わしはここで野垂れ死にだった。貴様に、借りを作ってしまったな」
陳平は首を横に振った。
「とんでもございません。私はただ、正義が通ってほしいだけです。父は夷陵で命を落としました。しかしもしその命が、一部の者の私利私欲のために軽んじられているのだとしたら…」
馬岱は、陳平の言葉に深く頷いた。
「わかった。貴様の勇気、そしてその正義感に報いよう。この不正を暴くため、わしが力を貸す」
馬岱の言葉は、陳平の胸に温かい光を灯した。絶望の淵にいた陳平にとって、それは何よりも力強い味方の存在だった。
「しかし、この件は細心の注意を払わねばならぬ。楊儀は、丞相府の長史。その権力は絶大だ。迂闊に動けば、我々の命だけでなく、魏延将軍をも巻き込みかねない」
馬岱は陳平をまっすぐ見つめた。
「だからこそ、貴様の力がいる。貴様は末端の兵士ゆえに、楊儀も、わしが病に倒れた今、貴様を完全に警戒することはないだろう。引き続き、情報を集めてくれぬか。わしは、回復次第、魏延将軍にお伝えする段取りを整えよう」
陳平は、馬岱の言葉に覚悟を決めた。今度こそ、確実に証拠を掴み、魏延将軍に届ける。父の無念を晴らし、多くの兵士の命を守るために。闇の奥でうごめく不正に、ついに光を当てる時が来たのだ。
馬岱との出会いは、陳平にとってまさに暗闇に差し込む一筋の光だった。あの絶望の夜から数日、陳平は馬岱の回復に尽力しながら、夜な夜な、自分が知る不正のすべてを語り尽くした。馬岱もまた、自身の経験と、楊儀に対する疑念を陳平に打ち明けた。二人の間には、将軍と一兵卒という身分の隔たりを超え、互いの正義を信じる固い信頼が芽生えた。
「魏延将軍にお伝えする段取りは、わしが整える」
馬岱は、病み上がりの体ながらも力強く言った。
「だが、決定的な証拠が必要だ。楊儀が関わるこの不正は、ただの兵糧の横領に終わるまい。もっと大きな、国の根幹を揺るがす闇が潜んでいる」
陳平は頷いた。張剛に日誌を奪われたことで、以前にも増して慎重になる必要があった。楊儀の部下たちの監視は厳しさを増しており、彼が「特別な荷車」に近づく機会は限られていた。それでも、陳平は諦めなかった。馬岱の助けがあれば、今度こそこの闇を暴ける。
それから数日間、陳平は輸送任務をこなしながら、楊儀の一味が動く夜間輸送の経路と、不審な物資の動きを記憶に留めた。そして、馬岱は自らの病からの回復を装いつつ、部隊の動向を探り、楊儀が不審な動きをする特定の時間帯と場所を陳平に示唆した。楊儀は、馬岱が病に倒れたことで、監視の目を緩めていると錯覚しているようだった。
ある夜、月明かりの届かない深い森の中を抜ける輸送路で、陳平は馬岱から示唆された場所へと向かった。そこは、普段は使われない脇道で、深い茂みに囲まれており、まさに秘密の取引にはうってつけの場所だった。陳平は身を隠し、息を殺して様子をうかがった。
しばらくして、闇の中から数台の荷車が現れた。先頭には、見慣れた楊儀の姿がある。彼の指示の下、部下たちが手際よく荷車から黒ずんだ木箱を下ろし、それを待っていた別の荷車へと積み替えていく。陳平の心臓が激しく脈打つ。今度こそ、決定的な証拠を掴む時だった。
陳平は、地面に落ちていた石を拾い、その場から少し離れた場所に投げた。カツン、と小さな音が暗闇に響く。その音に、楊儀が鋭く反応した。男たちが一斉に音のした方向へ注意を向けた一瞬、陳平は素早く身を乗り出し、積み替えられている木箱の隙間から中を覗き込んだ。
彼の目に飛び込んできたのは、通常の兵糧や乾物とは明らかに異なる、黒ずんだ乾燥した根の束だった。隙間から漏れ出るツンとした独特の刺激臭が鼻を突く。農民である陳平にはそれが何の植物かまでは分からなかったが、ただならぬ異様な気配を放っていた。軍の正式な記録にもない黒い木箱に詰められ、深夜に秘密裏に積み替えられている品――一体何のために、何を運んでいるのか?
その時、陳平は背後に人の気配を感じた。振り返る間もなく、強い腕に絡め取られ、口を塞がれる。張剛だった。彼の背後には、数人の兵士が潜んでいた。
「やはり貴様は懲りねぇな、陳平。しつこい奴め」
張剛の声が、耳元で冷たく響いた。
「ここで始末してやる」
張剛は短刀を抜き、月明かりにその切っ先が鈍く光る。陳平は死を覚悟した。しかし、彼の目に、魏延将軍の天幕で見たその鋭い眼光と、馬岱の苦悩に満ちた顔が浮かんだ。父の無念、母と陳花の笑顔。ここで終わるわけにはいかない。陳平は、全身の力を込めて抵抗した。
陳平の必死の抵抗は、張剛の予想を上回った。農作業で鍛えられた体は、見た目以上に粘り強く、死を恐れぬ者の気迫が宿っていた。陳平は、もがく中で張剛の腕を掴み、その短刀の切っ先をわずかにずらすことに成功した。短刀は彼の肩を浅く裂いたが、致命傷にはならなかった。
「この野郎!」
張剛が怒鳴り、再び短刀を構えようとした、その時だった。
闇の中から、矢が一本、風を切って飛来し、張剛の手から短刀を弾き飛ばした。直後、数人の人影が茂みから飛び出し、楊儀の部下たちと張剛の兵士たちに襲いかかった。彼らは、練度の高い動きで相手を制圧していく。
混乱の中、楊儀は瞬時に状況を把握した。奇襲を仕掛けてきた兵たちの鋭い身のこなしから、それが魏延の手の者であることを見抜いたのだ。この場で取り押さえられれば弁解の余地はない。楊儀は顔を歪めながらも冷酷な光を瞳に宿し、直属の配下に低く命じた。
「……丞相の本営へ馬を走らせろ。先手を打つ」
張剛らを見捨て、楊儀は数騎を引き連れて夜闇の中へと疾走していった。
「遅れてすまなかったな、陳平」
聞き覚えのある声がした。そこに立っていたのは、馬岱だった。彼の傍らには、数人の兵士が控えており、その顔ぶれに見覚えのある者もいた。彼らは、馬岱が信頼を置く、魏延将軍直属の精鋭兵たちだった。
「馬岱殿…!」
陳平は、安堵と驚きが入り混じった声を出した。
馬岱は陳平の肩の傷をちらりと見て、張剛に冷たい視線を向けた。
「楊儀め。貴様のような輩を使って、魏延将軍の目を欺き、私腹を肥やしていたとはな」
張剛は、そこに立つ男を凝視し、その顔が、置き去りにしてきたはずの病の兵士であることに気づいた。そして、その男が魏延将軍直属の兵を率いていることに、信じられないという表情を浮かべた。
まさか、あの厄介払いしたはずの兵士が、魏延将軍の腹心、馬岱その人であったとは……。
「ぐっ…馬岱殿…これは、誤解です…!」
張剛はしどろもどろになった。
「黙れ!」
馬岱が雷のような声を上げた。
「貴様のその手で、どれほどの兵士の命が、無駄にされたか!」
馬岱の指示で、部下たちが張剛と楊儀の兵士たちを捕縛していく。抵抗する者もあったが、馬岱の精鋭兵には敵わなかった。楊儀の部下たちは、不正の証拠となる木箱を積んだ荷車ごと確保された。
馬岱は荷車に歩み寄り、黒ずんだ木箱の隙間から、中に入った乾燥した根を一つ取り出して検分した。その鋭い眉が険しく跳ね上がる。
「……これは烏頭(トリカブト)だ」
馬岱の低く呻くような声に、陳平は思わず問い返した。
「うず……ですか?」
「軍医が厳重に管理すべき劇薬だ。使い方次第では鎮痛の妙薬となるが、分量を誤れば即座に人を殺める猛毒となる。まさか楊儀め、兵糧の横流しどころか、このような禁制品まで私的に裏取引していたとはな……」
馬岱は怒りに唇を噛み締め、陳平の肩を叩いた。
「よくやった、陳平。貴様の勇気が、この恐るべき闇を暴く決定打となったぞ」
陳平は、自分が覗き見た黒い根の正体が猛毒の烏頭であることを知り、息を呑んだ。それは単なる私腹を肥やす横領ではない。軍の規律を破壊し、兵士たちの命を直接危険に晒す、決して許されざる大罪だった。
「さあ、魏延将軍の元へ行くぞ」
馬岱は、陳平に手当てを施し、彼を立たせた。
陳平は、夜空を見上げた。今度こそ、魏延将軍に直接、この不正の全貌を報告できる。父の無念を晴らし、多くの兵士の命を守るための、彼自身の戦いは、ようやく一つの大きな局面を迎えたのだ。
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