第四話:将軍との対面と闇の告発
日が暮れ、空が深い藍色に染まる頃、陳平は魏延の天幕の前に立っていた。心臓が胸を打ち、手のひらには汗が滲む。護衛兵に名を告げると、彼は静かに天幕へと促された。
天幕の中は、外の冷気とは対照的に、焚き火の熱でわずかに暖かかった。簡素な設えの中に、武骨な地図と武具が置かれている。その中央で、魏延が椅子に座っていた。
陳平は、魏延の姿を改めて見上げた。噂通りの精悍な顔つきだ。特に印象的なのは、その鋭い眼光だった。まるで獲物を射抜く猛禽類のように、一度向けた視線は決してぶれない。しかし、その中には、戦の厳しさを知り尽くした者だけが持つ、疲弊と、深い思慮のようなものが隠されているように陳平には感じられた。顎には無精髭が生え、その口元は固く引き結ばれていたが、陳平が訓練場で見た兵士に向ける温かさも、確かに宿しているように思えた。
「来たか」
魏延は静かに言った。その声は低く、天幕の空気に重く響いた。
「何用か、話してみよ」
陳平は深々と頭を下げた。震える声で、しかし懸命に言葉を紡ぎ始めた。南征中の漠然とした違和感、帰還後の輸送部隊での奇妙な荷車、そして張剛からの不正な誘い。言葉だけではうまく伝わらないかと、彼は懐から自らが記した簡素な竹簡の日誌を取り出した。畑仕事で育った陳平は、文字の読み書きがほとんどできなかった。そのため、日々の観察と記憶を頼りに、荷車の数を示す印や簡単な符号、下手な略図で不審な荷の動きや場所を記録したものだった。
「これは…」
陳平は日誌を開き、たどたどしい手つきで指差した。
「ここが、通常とは異なる積み下ろしが行われる場所でございます。そしてこの日には、普段の兵糧の倍ほどの荷が運ばれ、しかし隊列の他の荷は不自然に軽かった…」
魏延は黙って、陳平の日誌を受け取った。その鋭い眼光が、陳平が記した稚拙な符号や絵の羅列を一つ一つ追っていく。将軍の表情は変わらなかったが、その眉間に深い皺が刻まれていくのを陳平は見て取った。やがて、魏延の視線は、日誌の中の特定の箇所に止まった。怪しい木箱から形を見よう見まねで必死に書き写した、『楊儀』の二文字だった。
魏延は日誌を握り、再び陳平に目を向けた。その表情は依然として読み取れないが、天幕の空気は、張り詰めた静寂に満たされた。陳平は、魏延の次の言葉を、固唾を飲んで待った。信じてもらえるのか、それとも命を危険に晒すことになるのか。その沈黙は永遠にも感じられ、魏延の鋭い眼光は陳平の心の奥底を見透かすかのようだった。魏延は何も語らず、ただ、陳平のたどたどしい文字と絵で記された記録と、彼の必死な表情を交互に見ていた。
やがて、魏延がゆっくりと口を開いた。
「この日誌に記された『楊儀』とは、丞相府の長史、あの楊儀のことか」
陳平はごくりと唾を飲み込んだ。将軍はすでに気づいている。やはり、この闇は、軍の中枢にまで及んでいたのだ。
「は、はい。彼らが、夜間に通常の補給経路とは異なる場所で、荷の積み替えを行っておりました。私が南征中に見た『特別な荷車』も、おそらく同じものかと…」
陳平は、声が上擦らないよう必死に堪えながら、南征での違和感から現在の状況まで、知る限りの詳細をすべて語った。兵糧の質が落ちていること、医薬品が不足している噂、そして張剛からの誘いの言葉。
魏延は、陳平の言葉の端々に真実の響きを感じ取ったのだろう。彼の眉間の皺が、さらに深くなった。魏延は肘を椅子のひじ掛けに置き、頭を支えながら深く息を吐いた。
「貴様の言うことは理解した。そして、この記録が事実であれば、看過できぬ大罪であることもな……」
魏延は腕を組み上を見上げた。そして絞り出すように話し始めた。
「丞相は、かつて出師の表を奉り、『今、天下三分し、益州は疲弊しておりますが、これには危急存亡の秋に際し、報恩の義に当たる所以でもあります』と仰せになった。これは、陛下への忠義だけでなく亡き先帝の遺志を継ぎ、漢室を再興するという、我ら蜀漢の兵が命を賭ける大義そのものだ」
魏延の言葉は、陳平の胸の奥深くにまで響いた。丞相への疑念が、音もなく溶けていく。それと同時に、彼が命を懸けて告発した不正がどれほど大いなる大義を汚す行為であるかを改めて突きつけられ、身が引き締まる思いがした。
将軍は信じてくれた。その安堵が全身に広がる一方で、この告発が持つ計り知れない重みが、陳平の心を締め付けた。彼の戦いは、今、まさに始まったのだ。
「しかし、貴様、この件を他に誰かに話したか?」
魏延の声に、陳平ははっと顔を上げた。
「い、いえ。将軍以外には、誰も…」
「よろしい」
魏延は陳平の言葉を遮った。
「このことは、貴様とわしだけの秘密とせよ。丞相府の長史ともなれば、その影響力は計り知れない。迂闊に動けば、貴様はおろか、貴様の家族にも危険が及ぶ。この日誌は、決定的な証拠としてわしが厳重に保管しておく。貴様が持ち歩いていて見つかれば命はないからな」
魏延はそう言って、竹簡を机の奥深くへと収めた。
「わしは、この件について丞相に進言する。だが、相手は狡猾な楊儀だ。確たる現場の証拠を押さえねば、逆にこちらが謀反の罪を着せられかねん。……そこで、わしの最も信頼する部下、馬岱を新兵に偽装させ、密かに貴様の輸送部隊へ潜入させる。馬岱に内部から楊儀の尻尾を掴ませる腹積もりだ」
魏延は陳平を真っ直ぐに見据えた。
「貴様には、これまで通り怪しまれぬよう任務をこなしながら、周囲を警戒してもらいたい。ただし、決して深入りするな。命あっての物種だ」
陳平は魏延の言葉に迷いを感じた。それは、自分への信頼なのか、それとも危険な任務を押し付けられているだけなのか。しかし、目の前の魏延の目は、確かに真剣だった。魏延は、この不正を看過するつもりはない。そして、自分の力ではどうにもならない巨大な闇に、将軍が立ち向かおうとしているのだ。
「承知いたしました」
陳平は、深く頭を下げた。
天幕を出る陳平の背中に、魏延の声が届いた。
「…お前の父も、誠実な兵だったと聞く。無駄死にさせるわけにはいかぬ」
その言葉に、陳平の目に熱いものが込み上げた。将軍は、父のことまで知っていたのか。そして、父の死を「無駄死に」とは言わせない、そう言ってくれている。陳平は、己の選択が間違っていなかったと確信した。
夜空の下、陳平は一人歩いた。魏延という、頼もしい後ろ盾を得た安堵。しかし、同時に、これまでよりもはるかに大きな、そして目に見えない危険が、彼自身の背後にも、そして家族の頭上にも迫っていることを感じていた。彼の、そして蜀漢の運命は、この告発によって、予期せぬ方向へと進み始めたのだった。
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