第二話:闇の兆しと兵士の誓い
安堵は短命だった。南征から帰郷してわずか一年と数ヶ月。建興五年(二二七年)の早春、漢中一帯に北伐の召集令が下った。丞相が、ついに魏への総攻撃を開始するというのだ。村の男たちは再びざわめき、家族は不安に顔を曇らせた。陳平は南征の経験があったため、今回の徴兵は免れるだろうと期待していたが、その願いは届かなかった。
「陳平!」役人の声が、村の広場に響いた。
陳平は、乾いた土を掴むようにして頷いた。再び戦場へ赴く恐怖よりも、残される母と陳花のことが気がかりだった。李氏はその名を呼ばれた途端、っと顔を青ざめさせ、傍らの陳花を強く抱きしめた。父が倒れた夷陵の悪夢が、また繰り返されるのではないかと怯えているのが痛いほど伝わってきた。
「兄様……」陳花の震える声が、陳平の耳に届く。
「大丈夫だ、花。今度もきっと、兄は無事に帰ってくる」
そう言い聞かせながら、陳平は自分自身にも言い聞かせているようだった。
徴兵された兵士たちは、漢中の集結地へと送られた。陳平は、南征での経験と、日々の農作業で鍛えられた体力を見込まれ、輸送部隊へと配属された。この部隊は、最前線に兵糧や武器、資材を運ぶ重要な役割を担っていた。険しい蜀の桟道を行く重い荷車の列に、陳平は再び自らの身を投じた。
輸送部隊の兵士たちの間には、独特の空気が流れていた。士気は低く、誰もが不平不満を口にしていたが、その不満は丞相への批判ではなく、見えない何かに対するものだった。そして、兵糧や物資の計量が、妙にごまかされているのを陳平はすぐに見て取った。配給される食料は、帳簿上の数字よりも明らかに少なく、腐敗しかけた米や、質の悪い豆が混じっていることも珍しくなかった。
「おい、新兵。これじゃあ腹が持たねぇな」
古参の兵士、張剛が、陳平の肩を叩いた。顔に深い傷跡のある、屈強な男だ。彼は笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「お前さんも、そろそろこのやり方に慣れとけ。上には上がいるもんでな。俺たちだけじゃ、どうにもならねぇよ」
ある日、険しい山道を越えた先の物資集積地で、張剛が陳平に声をかけた。彼の後ろには、通常の兵糧とは異なる、黒い布で厳重に覆われた荷車が止まっていた。それは、南征中に陳平が漠然とした違和感を覚えた、あの荷車と酷似していた。
「この荷は、特別なものだ。お前さんも、これの運搬に加われ」
張剛は低い声で言った。
「そして、この荷の中身については、誰にも口外するな。見てもならねぇし、聞いてもならねぇ。分かったな?」
陳平は、喉の奥で唾を飲み込んだ。そこには、軍の規律とは異なる、もっと個人的で、しかし強力な「黙契」のようなものが存在しているのを感じた。そして、張剛の口元に浮かんだ、どこか諦めたような、それでいて嘲るような笑みが、陳平の心をざわつかせた。南征で感じた「冷徹な効率性」の裏に潜む、見えない「闇」が、今、目の前に現れようとしていた。
張剛は、陳平の表情の硬さを一瞥すると、にやりと笑った。「まあ、難しい顔をするこたぁねぇ。俺たちも、上の命令に従ってるだけさ。これはな、兵糧の『余剰分』だ。本来は兵士に配られるはずのものが、何かの手違いで余っちまったってことになってる」
彼の言葉は滑らかだったが、陳平の胸には嫌な予感がよぎった。
「余剰分、ですか…」
「ああ。戦場で余ったもんは、わざわざ都まで持って帰るのも手間だろ? だから、ここで一部をさばいて、その金でまた別のものを買う。それが『軍の資金』になるんだとよ。俺たちも、少しばかりだが、分け前を貰えるって寸法だ」
張剛は陳平の肩を再び叩き、親しげに笑ったが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。陳平は、南征中にも感じた、あの「無慈悲な効率性」の正体が、目の前で剥き出しになっているような感覚に襲われた。兵士の生命を支える兵糧が、そう簡単に「余剰分」として扱われ、一部の者の懐を潤す道具になっている。それは、父が命を捧げた「大義」とはかけ離れた、腐敗の匂いだった。
「お前さんも、南征を生き抜いた手練れだ。口も堅そうだ。俺たちと一緒になれば、損はねぇぞ。家族にも、いくらか銭を送ってやれる」
張剛の声は、誘惑する蛇のように甘かった。家族の顔が脳裏をよぎる。飢える母と妹。もし、この誘いを受け入れれば、彼らの生活は確かに楽になるだろう。だが、それは、父が守ろうとしたもの、そして自身が信じてきた「漢室復興の大義」を裏切る行為ではないのか。
その夜、物資集積地の片隅で、陳平は一人、荷車に寄りかかって夜空を見上げた。満点の星空は、故郷で見たそれと何も変わらなかった。だが、彼の心は、故郷を離れてからずっと、鉛のように重い。
南征中、友が疫病で苦しむ横で、本当に薬は不足していたのか?
兵糧が尽きかけ、皆が飢えた時、本当に補充は間に合わなかったのか?
あの時の「効率性」は、もしかしたらこの「余剰分」を作るためのものだったのではないか。
彼の脳裏に、憔悴しきった母の顔が浮かんだ。そして、無邪気な陳花の笑顔。彼らを守るためには、この不正に目をつむるしかないのか。いや、もしこの不正が、次の北伐で兵士の命を脅かすとしたら? 父のように、無念の死を遂げる者がまた増えるとしたら?
陳平は、固く拳を握りしめた。彼の心の中で、「家族を守るための現実」と「正義を貫くための信念」が激しくぶつかり合っていた。彼はまだ、どうすべきか答えを見つけられなかったが、この闇に目をつむることは、もうできなくなっていた。運命の歯車は、彼の意思とは無関係に、大きく動き始めていたのだ。
次の朝、物資を積んだ荷車が動き出す前に、張剛は再び陳平に近づいてきた。
「どうだ、陳平。考えてくれたか?」
陳平は一度、荷車の上に積み上げられた、黒い布に覆われた荷に目をやった。その向こうには、北の空が広がっていた。父が命を落とした戦場、そしてこれから自分たちが向かうであろう新たな戦場。そこで命を落とすかもしれない兵士たちの顔が脳裏をよぎる。彼らが、十分な兵糧も武器も与えられずに死んでいく姿を想像すると、胸の奥から怒りが込み上げてきた。
「張剛殿」
陳平は静かに言った。
「俺は、この不正には協力できません」
張剛の顔から笑みが消えた。その目に、一瞬の殺意が宿る。
「ほう。そいつは賢明な判断とは言えねぇな。ここでは皆、口を閉ざすのが賢いやり方だ。お前一人が正義面したところで、何も変わらねぇぞ」
「変わらなくとも、俺はできません」
陳平は視線を真っ直ぐに向けた。
張剛は鼻で笑った。
「お前はまだ、戦の本当の恐ろしさを知らねぇな。剣や槍だけが人を殺すわけじゃねぇ。飢えも、病も、そして何よりも、この世の道理が通らねぇ不条理もな」
そう言い残し、張剛は踵を返した。彼の背中は、陳平に不気味な圧力を感じさせた。彼がこの部隊の、あるいはこの不正の、どの程度の位置にいるのかは分からない。だが、決して軽んじていい相手ではないことは明らかだった。
その日以来、陳平は輸送部隊の中で孤立した。張剛は露骨に彼を避け、他の兵士たちも、陳平に話しかけることを躊躇するようになった。彼らは、張剛が示す「黙契」の仲間であり、あるいはそれに逆らうことの危険性を知っているかのようだった。陳平は孤独だった。だが、彼の心には、不正に加担しなかったことへの僅かな誇りと、そして、この「闇」の正体を突き止めたいという強い決意が芽生え始めていた。
毎日、兵糧を運ぶ道中で、陳平は注意深く周囲を観察した。荷車の積載量、計量方法、そして物資の積み下ろしが行われる集積所の状況。特に、例の「特別な荷車」の動向に目を凝らした。それが通常の補給経路とは異なる場所へと運ばれていること、そして、その積み下ろしが常に夜間に行われていることに気づいた。
ある日の夜間輸送の任務中、陳平は偶然を装って隊列から少し遅れ、特別な荷車が運び込まれる場所を遠巻きに観察した。そこは、普段は使われない物資集積所の奥まった場所だった。複数の男たちが闇に紛れて作業しており、その中には見覚えのある顔があった。それは、輸送部隊のさらに上官である、兵站の要、楊儀だった。楊儀は、北伐の兵站を統括する主要な人物の一人であり、その彼が、このような不正に直接関わっているとすれば、この闇は想像以上に深く、根を張っていることになる。
陳平の胸は、激しい衝撃に震えた。相手は、想像をはるかに超える大物だった。しかし、同時に、これまでの漠然とした違和感が、確かな形を持って繋がっていくのを感じた。丞相の「効率的で無慈悲な采配」の影で、私利私欲のために兵士の命を食い物にする者たちがいる。そして、その不正は、すでに軍の中枢にまで及んでいる可能性がある。
陳平は、自分の知り得た情報をどうすべきか、深く悩んだ。楊儀は、丞相府の長史。北伐の兵站を統括する要人だ。彼が関わる不正を、一体誰に報告すれば信じてもらえるのか。もし軽率に動けば、自分が命を狙われるかもしれない。だが、このまま黙っていれば、父のように多くの兵士が、無為に命を落とすことになる。彼の心は、かつてないほどに重く、そして固く、決意を宿し始めていた。
次の日も、そのまた次の日も、陳平は輸送の任務をこなしながら、楊儀の動向を注意深く見守った。楊儀は常に数人の部下を連れて行動し、特別に厳重に覆われた荷車の積み下ろしに立ち会っていた。荷車の中身は依然として不明だったが、その荷が通常の兵糧とは違う「何か」であることは明白だった。そして、その「何か」が、軍の正規の物資とは異なる、闇の取引に使われていることも。
兵士たちの間では、丞相の北伐に対する期待と同時に、漠然とした不安が広がっていた。配給される兵糧の質の悪さや量の不足は、末端の兵士にとっては日常となりつつあったが、誰もが「上が決めたこと」として諦め、口に出すことを避けていた。不平を言えば、不忠者と見なされ、さらに厳しい処分が下されることを恐れたのだ。
そんな中で、陳平は一人、思考を巡らせた。誰かに相談すべきか。しかし、誰を信じられる? 張剛のように不正に染まっている者もいれば、恐怖で口を閉ざす者もいる。丞相に直訴するなど、末端の兵士には到底無理な話だ。いや、そもそも、偉大な丞相が、この不正に気づいていないはずがない、という疑念すら、陳平の心に芽生え始めていた。もし丞相が知っていて、黙認しているとしたら? その考えは、陳平がこれまで信じてきた大義そのものを揺るがしかねないものだった。
数日が経ち、陳平は決断した。このまま黙っていては、何一つ変わらない。誰かに助けを求める前に、まず自分自身で、この不正の確たる証拠を掴む必要がある。そして、その証拠を突きつける相手も、慎重に選ばなければならない。
彼は、南征で共に戦った魏延将軍のことを思い出した。魏延将軍は、先帝以来の古参の将であり、その武勇と功績は兵士たちの間でも広く知られていた。何よりも、彼は丞相とは時に意見を対立させながらも、その剛直な人柄と、兵士への気遣いで知られていた。もしこの軍の中に、正義を信じ、不正を許さない者がいるとすれば、それは魏延将軍かもしれない。しかし、将軍に直接接触するなど、一兵卒には容易なことではなかった。
陳平は、自らの命が危険に晒される覚悟を決めた。この不正の裏には、自分のような兵士を簡単に潰せる力が働いているだろう。それでも、父の無念、そして多くの兵士が流すであろう血を無駄にしたくないという思いが、彼の心を突き動かした。彼は、輸送隊の任務中、密かに荷車の荷の様子を探り、楊儀と部下たちの不審な動きを記録し始めた。夜間の移動中、人目の少ない場所での積み替え、不自然な荷の重さの違い。すべては、この闇の正体を暴くための、陳平自身の戦いだった。
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