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第一話:故郷の土と戦場の泥

 蜀漢(しょくかん)の建興三年(けんこうさんねん)、酷暑が和らぎ始めた夏の終わり、漢中の平原を抜ける街道に、一人の若い兵士が立っていた。泥と汗にまみれたその背には、使い古された荷袋が重く食い込んでいたが、彼の足取りは、故郷への確かな一歩を踏みしめる喜びを宿していた。陳平(ちんぺい)、二十歳。数ヶ月に及ぶ過酷な南征(なんせい)から、ようやく生きて戻ってきたのだ。


 故郷の村は、漢中(かんちゅう)からそう遠くない丘陵地にあった。数百人ほどの住民が暮らす、茅葺きの家々が肩を寄せ合うように建ち並ぶ小さな集落だ。村の入り口に差し掛かると、幼い妹の陳花(ちんか)が駆け寄ってくるのが見えた。「兄様!」痩せた体で、しかし全力で飛びついてくる花を、陳平は固く抱きしめた。その小さな背に、自分がこの旅で背負ったものの重さが、ほんのわずかでも乗らなかったことを祈った。


 家の中では、年老いた母、李氏(りし)が涙を浮かべて陳平を迎えた。南征の報を聞くたびに、心配で夜も眠れぬ日々を送っていたのだろう。皺の刻まれた手が、陳平の頬を何度も撫でた。「本当に、本当に、よかった……」その声には、安堵と、この数ヶ月分の労苦が滲んでいた。李氏が二人を無事に出産し、過酷な時代を生き抜いてきたこと自体が、この一家にとっては奇跡のような幸運だった。


 翌日から、陳平の生活は南征以前と変わらぬ農作業に戻った。日中は父の代から続く小さな畑を耕し、夜は母と妹と共に粗末ながらも温かい食卓を囲む。叔父の陳永(ちんえい)も、相変わらず口は悪いが、陳平の無事を心底喜んでいるようだった。彼らの家は、村に多い陳姓の一族の分家にあたるが、李氏のような他姓の者も少なからずこの集落には暮らしていた。


「南中の蛮族どもは、さすがの丞相(じょうしょう)も手こずったと聞くが、お前は運が良かったな、平坊」陳永はそう言いながら、陳平の前に大盛りの粥を置いた。

 陳平は頷いた。「はい。ですが、丞相の指揮は神がかっていました。あの暑さの中、兵糧(ひょうろう)の欠乏も少なく、疫病も最小限で済みましたから」

 言葉とは裏腹に、陳平の目は遠くを見つめていた。

「本当に、丞相は並外れた御仁でございました。蛮王孟獲(もうかく)を何度も捕らえては放し、ついには心を服従させたとか……兵の間では、『丞相は人智を超えたお方だ』とまで囁かれておりました」

「それでも、多くが倒れたと聞く。お前の父さんも、あの夷陵(いりょう)の地で、先帝(せんてい)の御前で、陸遜(りくそん)の火攻めに遭い……」母、李氏が、細い声で呟いた。

 陳平は小さく息を吐いた。

「ええ。南征でも、病に倒れる者が数え切れぬほど出ました。あの毒気(どくき)の蔓延(はびこ)る谷では、矢を受けるよりも酷い死に方をする者もいました。……母さんの言う通り、父さんが命を落としたあの夷陵でも、関将軍の仇討ちだと皆が血気盛んだった中で、馮将軍(馮習(ふうしゅう))や張将軍(張南(ちょうなん))のような勇猛な方々が次々と討ち取られていったと聞きます。戦場で生き残れたのは、ただ運が良かった、本当にそれだけです」

「ほう、それは大したもんだ。だがな、戦が終わればすぐにまた次の戦だ。そうやってこの国は、いつまで血を流し続けるのかね」

 陳永は、疲れたようにため息をついた。


 南征の成功は、確かに蜀漢の民に一時的な安堵をもたらした。巷では、諸葛孔明の采配を称える声が聞こえ、しばらくは国が落ち着くという希望も囁かれていた。南征から生還した陳平は、兵役を一時解かれ、故郷で束の間の平穏を得ていた。しかし、彼の心には、叔父の言葉が小さく響いていた。そして、兵を動かすためのわずかな、しかし着実な気配が、確かに村の空気の中に漂い始めていたのを、陳平は敏感に感じ取っていた。遠くの街道を行き交う馬車や荷車は以前より数を増し、村の鍛冶屋には普段見かけない良質な鉄材が運び込まれていた。それは、南征を生き抜いた兵士にしか感じ取れない、微かな戦の予兆だった。


 その夜、陳平は眠れずにいた。窓の外からは、虫の音が聞こえるばかりだ。南征で見た、諸葛孔明の並外れた知略と、兵士たちの間で囁かれた「人智を超えたお方」という噂。しかし、その偉大な采配の裏で、陳平は漠然とした違和感を覚えていた。兵糧(ひょうろう)の管理、物資の調達、そして戦場での兵士たちの消耗。それらは、まるで計算された歯車のように、寸分の狂いもなく進められていた。兵士ひとりひとりの命が、勝利という大局のための単なる数字として処理されているかのような冷徹さを、陳平は感じずにはいられなかったのだ。


 そして、陳平は思い出す。南征の最中、ある夜のことだ。兵糧を運ぶ隊列の中に、妙に厳重に封をされた荷車が混じっていたのを。それは、通常の兵糧とは異なる、何か特別なものを運んでいるかのような雰囲気を纏っていた。周囲の兵士は皆、口を閉ざし、荷車から目を逸らしていた。まるで、見てはならないもの、語ってはならないものがあるかのように。その時は、疲れと緊張で深く考えることはなかったが、今になって、その記憶が蘇ってきた。


 この平穏は、いつまで続くのだろうか。そして、その裏で、何が動いているのか。陳平の胸に、漠然とした不安と、小さな疑問の種が蒔かれたのだった。

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