Chapter 6
キヨシはゆっくりと一歩後ろへ下がった。
女はその場から動かなかった。
キヨシを見ても、驚いた様子はない。
ただ、じっと彼を見ている。
そして、落ち着いた優しい声で――
「あら……」
「坊や、迷子になったのね」
キヨシは固まった。
なぜか、その言葉は彼女が言うと妙に自然に聞こえた。
怖くない。
怒ってもいない。
まるで、家から遠くまで来てしまった子供に話しかけているようだった。
キヨシは女を見つめた。
*……誰なんだ?*
ちゃんと顔を見たかった。
だが、顔を見上げようとした瞬間――
太陽の光が変わった。
周りの空気が、急に重くなったように感じた。
さっきまで森を照らしていた暖かな午後の日差しが、突然遠くなったようだった。
木々が暗く見える。
空気も重い。
そして女は、キヨシのすぐ前に立っていた。
キヨシの目が、ゆっくりと上へ動いていく。
最初に目に入ったのは、彼女の足だった。
シンプルだが、上品な女性用のサンダルを履いている。
こんな誰もいない森の中では、完全に場違いだった。
キヨシの視線が上へ移る。
服。
そして肌。
彼女の肌は白く、滑らかだった。
沈みかけた太陽の光の下でも、不自然なくらい綺麗に見える。
キヨシより年上なのは間違いない。
二十代か――
三十代くらいだろうか。
どこか落ち着いた雰囲気を持っていた。
見た目だけなら、特に怖いところはない。
それなのに――
キヨシは、何かがおかしいという感覚を消せなかった。
さらに視線を上げる。
女の顔がそこにある。
だが、太陽の光がちょうどキヨシの目に入っていた。
思わず目を細める。
顔の輪郭は見える。
けれど――
目がよく見えない。
表情も分からない。
まるで太陽の光そのものが、彼女の顔を見ることを邪魔しているようだった。
キヨシは眉をひそめた。
見えるのは、白い光だけ。
キヨシはようやく口を開いた。
「……あんた、誰?」
思っていたよりも、しっかりした声が出た。
女は、キヨシの勇気を少し面白そうに見ていた。
「あら、私?」
「あなたが迷子だと思ったから、助けに来たのよ」
キヨシは女を見つめる。
*迷子?*
周りを見る。
そして、また女を見る。
*この人、こんなところで何してるんだ?*
ここは廃れた場所だ。
森の中には、古い学校まで隠されている。
本来なら、ここに誰かがいるはずがない。
それなのに――
彼女はまるで、ここが普通の場所であるかのように目の前に立っている。
*なんで、この人の顔が見えないんだ……?*
声は心地よかった。
柔らかい。
温かい。
どこか安心するような声だった。
キヨシは一瞬、視線を下げた。
そして――
彼女の手に気づいた。
キヨシは固まった。
その手……。
どこか見覚えがある。
まるで――
さっき森で見た、あの指のようだった。
キヨシの心臓が跳ねた。
彼はすぐに目を逸らした。
それ以上考える前に、女が話しかけてきた。
「大丈夫? 坊や」
キヨシはすぐに眉をひそめる。
「お、俺は子供じゃない」
「あらぁ……」
キヨシは女を見る。
「俺は十五歳だ」
「そう」
その声には、少し面白がっているような感じがあった。
キヨシは一度息を吸う。
そして、勇気を出して聞いた。
「ここで何してるんだ?」
女は黙っていた。
キヨシは続ける。
「それに……なんでこの学校の近くにいるんだ?」
初めて、女の表情が少し変わったように見えた。
怖がっているわけではない。
驚いているわけでもない。
どちらかというと――
興味を持ったような感じだった。
「あら?」
女は首を傾げる。
「本当に勇敢な子ね」
キヨシは眉をひそめた。
「だから、俺は――」
「私に直接聞いてきたでしょう?」
女の声は相変わらず優しかった。
「普通は、そんなことしないもの」
キヨシは何も答えなかった。
女はキヨシの後ろにある古い学校へ目を向けた。
そして、簡単に言った。
「私はここに住んでいるの」
キヨシの目が大きくなる。
「……ここに?」
女は頷いた。
「ええ」
女は再びキヨシを見る。
「あなたは?」
キヨシが口を開く。
「俺は――」
友達と一緒にここへ来たことを説明しようとした。
だが、その前に――
「友達に行ってこいって言われたんでしょう?」
キヨシは固まった。
「……え?」
目を大きくする。
「なんで分かるんだ?」
初めて、キヨシの声に恐怖が混じった。
女はただ笑っていた。
キヨシは瞬きをした。
一度。
二度。
女が――
消えた。
「……え?」
キヨシは周りを見る。
何もない。
隣にいたはずの場所も空っぽだった。
木々は静かに立っている。
風が葉の間を通り抜ける。
「どこ……?」
キヨシは森を見回した。
すると、何かが目に入った。
学校の門だった。
キヨシはゆっくりとそちらを向く。
女が立っていた。
学校の敷地の中に。
さっきまでいた場所から、何メートルも離れたところに立っている。
キヨシの身体が完全に固まった。
女が歩いていくところを見ていない。
足音も聞いていない。
いつ移動したのかさえ分からない。
ただ――
そこに立っていた。
待っているように。
二人の距離が、突然とても遠く感じられた。
キヨシは唾を飲み込む。
「……どうやって?」
女は笑った。
そして、口を開く。
「また会いましょう……」
その声が、誰もいない敷地に静かに響く。
「……あなたが本当に勇敢になった時にね」
キヨシは女を見つめる。
「どういう――」
小さな笑い声が聞こえた。
「ふふ……」
大きな声ではない。
狂ったような笑いでもない。
むしろ、優しい笑いだった。
それなのに――
なぜか、そのほうが怖かった。
キヨシの身体が冷たくなる。
女はゆっくりと古い学校のほうへ向き直った。
「ありがとう……」
キヨシの目が大きくなる。
「……ありがとう?」
何に?
自分は何もしていない。
何も――
キヨシはもう一度、瞬きをした。
そして、彼女を見た。
息が止まった。
何かがおかしい。
女の身体が変わっていた。
もう普通の人間のようには見えない。
その姿は暗くなっていた。
ただ影に覆われているわけではない。
黒い。
ほとんど完全な黒。
人間の形だけは、なんとなく残っている。
だが、身体の細かな部分は闇の中へ消えていた。
そして――
ただ一つだけ、はっきりと見えるものがあった。
笑顔。
顔があるはずの場所に、細く、不自然な笑みが浮かんでいる。
キヨシは動けなかった。
目を大きく見開く。
心臓が激しく胸を叩く。
*……何だ、あれ?*
その黒い姿は、学校の敷地の中で静かに立っている。
キヨシを見ている。
笑っている。
ついに、キヨシの恐怖が身体を突き動かした。
「あ……」
頭で考えるより先に、身体が動いた。
キヨシは振り返り、走り出した。
道のことも考えなかった。
学校のことも考えなかった。
何も考えなかった




