Chapter 10
キヨシは雨でずぶ濡れになったまま、家の中へ入った。
髪から落ちた水滴が床にぽたぽたと落ちる。
靴を脱いだばかりのところで、居間から声が聞こえてきた。
母親の声。
大きく、怒っている。
「どうして今になって帰ってきたのよ?!」
キヨシは足を止めた。
見なくても分かった。
父親が帰ってきたのだ。
「私の子供たちに近づかないで!」
母親の声は怒りで震えていた。
そして、もう一つの音が聞こえた。
赤ん坊の泣き声。
サラだ。
「私のサラを返して!」
キヨシは玄関の近くで黙って立っていた。
何も言わなかった。
関わりたくなかった。
これは今に始まったことではない。
父親が帰ってくるたびに、家の空気は変わった。
温かさが消える。
会話は言い争いになり、
そしてキヨシは、いつも自分の部屋へ逃げ込みたくなる。
キヨシは静かに階段へ向かった。
階段を上りながら、一度だけ後ろを振り返った。
ほんの一瞬だけ。
ソファには、一人の男が座っていた。
片方の足をもう片方の足に乗せている。
その姿勢は落ち着いていて、どこか無関心そうだった。
膝の上に置かれた両手は、はっきりと分かるほど筋肉質だった。
階段からでは、父親の顔をはっきり見ることができなかった。
キヨシはすぐに目を逸らした。
そのまま二階へ上がっていく。
あぁ……
父さんが帰ってくるたび、いつも戦争みたいだ。
自分の部屋に着くと、キヨシはドアを閉めた。
ベッドに倒れ込む。
下の階から、まだ母親の声が聞こえてくる。
キヨシは天井を見つめた。
これが……
まぶたが重くなる。
……早く……
ゆっくりと意識が遠のいていく。
……終わればいいのに。
真夜中
家の中は静まり返っていた。
外の雨は止んでいる。
夜の空気は冷たく、時々、風で窓が小さく揺れた。
下の階には、夕方の出来事の跡がまだ残っていた。
割れた茶碗。
床に落ちたクッション。
言い争いの途中で倒された、いくつかの物。
暗闇の中にある居間は、いつもの家とは違う場所のように見えた。
サラの泣き声も、もう聞こえない。
声もない。
ただ、静寂だけが残っていた。
キヨシは半分眠った状態だった。
その時――
足音が聞こえた。
ゆっくりと。
静かな足音。
どこから聞こえているのか、キヨシには分からなかった。
彼の目が少しだけ開く。
寝室のドアが動いた。
誰かが入ってきた。
眠気でぼやけた視界の中、キヨシには人影が見えた。
その人影が、キヨシの隣に座った。
「……ん?」
視界がぼやけている。
「と、父さん……?」
人影はすぐには答えなかった。
一つの手が、キヨシへ伸びてくる。
そして、その手が優しくキヨシの頬に触れた。
温かい。
キヨシは予想していなかった。
父親の手は、温かかった。
部屋は静かなままだった。
父親が少しだけ身を寄せる。
キヨシには、その声が聞こえた。
けれど、その言葉は遠くから聞こえているようだった。
父親は、キヨシがまだ半分眠っていることを知っていた。
それでも、キヨシなら自分の言葉を理解できると思っているようだった。
「お前は……」
一拍。
「……してはいけなかった……」
キヨシの目が再び閉じ始める。
父親の声がさらに小さくなる。
「気を……」
キヨシは眠らないようにしようとした。
「……つけ……」
最後の言葉は、暗闇の中へほとんど消えていった。
「……あの……」
それ以上は聞き取れなかった。
キヨシの目が閉じる。
そして、再び眠りに落ちた。
ビーッ、ビーッ。
朝。
また、いつもの朝がやってきた。
ただ今回は――
鳥の声がなかった。
夜の間に雨は止んでいた。
しかし、雲はまだ空に残っている。
外の空は鈍い灰色で、時間のわりに朝が遅く感じられた。
キヨシは手を伸ばし、目覚ましを止めた。
そして、ゆっくりと起き上がる。
しばらくの間、何も思い出せなかった。
だが――
昨夜の記憶が、少しずつ戻ってきた。
父親の声。
あの警告。
気を……つけ……
キヨシは眉をひそめた。
「父さん……何を言おうとしたんだ……?」
最後まで思い出せない。
キヨシはベッドから起き上がった。
今日は日曜日。
サトとセイイチと会う約束をしていた。
昨日見つけた古い桜島高校。
そして何より、何年も前に長野町で何が起きたのかを調べるためだ。
二階でシャワーを浴びたあと、キヨシは着替えて出かける準備をした。
そして階段を下りる。
足音は静かだった。
一階に着くと、キヨシは意識的に居間の方を見ないようにした。
昨日の後に何が残っているのか、見たくなかった。
だが――
家そのものが、いつもとは違っていた。
暗い。
静か。
静かすぎる。
カーテンは閉じられていて、灰色の朝の光が薄く部屋の中へ入っている。
昨夜壊れた物も、まだそのままだった。
椅子は少しずれたまま。
小さな物がテーブルの下に転がっている。
そして玄関の近くで――
キヨシは足を止めた。
床には何もなかった。
昨日まで父親の靴が置かれていた場所。
そこにはもう、靴はなかった。
父親は帰ったのだ。
キヨシは静かに居間の方を見る。
一瞬、何かが聞こえた気がした。
待つ。
何も聞こえない。
「母さん……」
返事はない。
もう一度呼ぶことはしなかった。
昨日のことがあったから、母親を起こしたくなかった。
キヨシは玄関のドアを開けた。
「今日は出かけてくるから。」
少し間を置く。
「遅くなるかもしれない。」
それでも返事はなかった。
キヨシは外へ出た。
ドアが静かに閉まる。
キヨシがサトの家に着いた頃には、二人はすでにサトの部屋で待っていた。
サトがドアを開ける。
「キヨシ!遅いぞ!」
キヨシは眉を上げた。
「何だよ?」
部屋へ入る。
「まるで学校みたいに言うなよ。」
中からセイイチが笑った。
サトはすぐにドアを閉めた。
そして――
カチッ。
鍵をかけた。
セイイチはそれを見て、目を丸くする。
「え、ちょっと……」
「なんで鍵なんかかけるんだ?」
サトは答えなかった。
ただ、その場に立っている。
「……」
セイイチは目を細めた。
「サト?」
突然、サトが振り返った。
「うるさい!バカ!」
(セイイチは、サトが自分に何かするんじゃないかと思った。)
キヨシはため息をついた。
三人はいつもの場所に落ち着いた。
サトはベッドに座る。
セイイチは壁にもたれる。
キヨシはその近くに座った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがてセイイチがキヨシを見る。
「それで……」
その表情が少し真剣になる。
「昨日、何があったんだ?」
キヨシは視線を下げた。
「父さんが家に来た。」
サトとセイイチが顔を見合わせる。
「あぁ……」
「突然だった。」
キヨシは少し間を置いた。
「両親が喧嘩してた。」
床を見る。
「でも……」
少し迷ってから続ける。
「いつも両親が喧嘩すると、聞こえてくるのは母さんの声だけなんだ。」
セイイチは眉をひそめた。
「父親は?」
キヨシは首を横に振った。
「まるで……一度も話してないみたいなんだ。」
サトは黙って聞いていた。
キヨシは続ける。
「昨日、父さんは俺の部屋にも来た。」
二人がキヨシを見る。
「何か言ってた。」
「何を?」
「分からない。」
キヨシは目をこすった。
「半分寝てたから。」
「何か……」
キヨシは少し考える。
「『気をつけろ……ヴィ……』みたいなことを言ってた気がする。」
セイイチは眉をひそめた。
「気をつけろ……?」
「うん。」
キヨシはため息をつく。
「ちゃんと聞こえてたのかも分からない。」
静寂――。
サトが何か言おうとした。
その時、セイイチが突然話を遮った。
「それより!」
セイイチがサトを指差す。
「もっと重要なことがある。」
サトの目が大きくなる。
「おい!」
セイイチは腕を組んだ。
サトは誇らしそうに背筋を伸ばした。
まるで、とんでもないことを成し遂げたかのような顔でキヨシを見る。
「新聞を手に入れた。」
サトは部屋の隅へ手を伸ばした。
そして、古い新聞の束を二つ取り出した。
キヨシはそれを見る。
「本当に手に入れたのか?」
サトの顔が一気に誇らしげになる。
「もちろんだ。」
新聞は何年も保管されていたらしく、紙は黄色く変色していた。
端は少し丸まっていて、古い紙の匂いが部屋に広がった。
サトが床に置く。
簡単に手に入れたように見えるが、実際はそうではなかった。
古い店を経営している年配の女性は、最初、新聞を渡すことを断った。
サトが父親は警察官で、調べ物のために新聞が必要だと説明すると、彼女はしばらくサトをじっと見つめた。
そして、ようやく店の奥へ消えていった。
その店は六十年以上も前から存在していた。
その女性は、そのほとんどの期間をそこで過ごしてきたらしい。
彼女は古い新聞を捨てずに保管していた。
だからこそ、今サトはその新聞を手に入れることができた。
サトは最初に新聞をセイイチの家へ持っていった。
そこから二人で、サトの母親に気づかれないように、すべてをサトの部屋まで運んだ。
サトは二つの束を見つめる。
明らかに達成感に満ちた顔をしていた。
セイイチがそれに気づく。
「そんなに誇らしげな顔するなよ。」
サトの笑顔が消えた。
「うるさい。」
彼は新聞を指差した。
「お前ら、まだ中を見てないのか?」
セイイチは首を横に振る。
「うん。」
「お前を待ってたんだ。」
キヨシは二つの束を見る。
そして、少し笑った。
「よし。」
サトの顔が再び明るくなった。
彼は最初の束を手に取った。
三人は新聞の周りに集まった。
サトが紐をほどく。
古い新聞がぎっしりと束ねられていた。
長い年月によって、紙は黄色く変色している。
ところどころ端が破れている。
別のページは、長い間触られてきたせいで柔らかくなっていた。
サトが最初の束を開く。
目の前には、二つの分厚い古新聞の束が並んだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
サトは誇らしげに腰へ手を当てる。
しかし、最初の新聞へ手を伸ばした瞬間――
その笑顔が、ゆっくりと消えていった。
黄色くなった古いページ。
それを見ているだけで、なぜか不安になった。
理由は分からない。
古い写真のせいかもしれない。
上部に印刷された日付のせいかもしれない。
それとも――
この新聞のどこかに、
長野町で何が起きたのか、その答えがあるのかもしれない。
そして、もしかすると……
森の中に捨てられた学校が、
なぜ自分たちの学校とまったく同じ名前を持っているのか。
その答えも――
この中にあるのかもしれなかった。




