─捜査官 黒須─
──その瞬間、診察室の空気が目に見えて変質した。尻尾を失ったお婆さんの周囲で微弱な静電気が弾け、空間の電荷バランスが不気味に歪む。
待合室の隅で、ゆっくりと「漆黒のトレンチコート」が立ち上がった。包帯の隙間から覗く、漆黒と白磁色が混ざり合った髪──過去の落雷ルートに沿ってメラニンが焼き切れた『ライトニング・ストライプ』が、大気の歪みを拾ってピクピクと逆立つ。
割れた黒水晶のような二重の瞳が、ゆっくりとギャングの顔に固定される。黒須は真鍮のステッキを「コツン」と一度だけ床に突き、カサカサと乾いた、しかし異質なほど整えられた声で口を開いた。
「……私の理解が正しければ、という前置きをさせていただくのだがね」
「ああ……?」
「今、貴殿が行使されたその物理的な力……すなわち、無抵抗な高齢者に対する一方的な暴行行為は、敷島治安維持法第百四条、ならびに外国人特区管理令における『著しい不法行為』に明白に該当する。……さて、貴殿の法解釈と私のそれに、何か致命的な齟齬でもおありかな?」
「売るさいんだけど、包帯犬。消えてくんない?」
「『知らなかった』あるいは『手が滑った』といった初歩的な弁明を口にするかと思えば……なるほど、言葉による対話を放棄されるわけだ。結構。……貴殿に不必要な物理的衝撃を与えてしまう懸念がある。その点については事前に深く陳謝しておきたいのだが──手を後ろで組み給え。───現行犯だ」
「舐めてんじゃ───!」
最後通牒を無視し、ギャングは胸元からボウイナイフを抜き放って黒須へ飛びかかった。
──だが、黒須は一歩も動かなかった。ただポケットに手を突っ込んだまま、冷酷な眼差しでギャングの脚元──汗で濡れたブーツ、破損したお婆さんの尻尾から漏れ出る電荷、そしてギャングの絶縁服のひじ裏にあるわずかな「経年劣化の亀裂」を瞬時に演算した。
黒須が、真鍮のステッキの先端で地面を「コツン」と静かに叩く。刹那、等電位面が狂い、待合室の大気中に溜まっていた数万ボルトの余剰電荷が、水滴と汗を伝ってギャングの「唯一の絶縁の穴」へとなだれ込む。
───バリバリバリバリッ!!
閃光と激しい放電音。ギャングは金切り声をあげる暇すらなく、全身の筋肉を棒のように強直させ、白目を剥いてその場に卒倒した。指一本触れられることなく、環境の物理法則をハックした感電死だった。
「……罪人よ。貴殿に主の御言葉を授けよう。聖書、詩篇第2篇9節──『あなたは鉄の杖をもって彼らを打ち砕き、陶器師の器のように粉々に砕く』。……以上だ。これにて物理的刑の執行を完了とする」
「ふざけん……な……」
焦げ臭いオゾン臭が漂う中、黒須は一切の感情を見せず、黒い手袋の乱れを静かに整えた。懐から携帯用イオン・スプレーを取り出すと、シューッと周囲に高濃度の中和霧を吹き付け、空間を清めた。そして、呆然と立ち尽くす宏朔の方へと視線を向けた。
「……勇敢な敷島の男児よ。法の正当性を保ちつつ、事態を穏便に収束させようという君の試み……実に感心な対応であった。……ところで、私の不必要な推測でお気を悪くされたら恐縮なのだが、君はここの従業員かな?」
「いえ……従業員ではなく、わけあって隣に居候させてもらっています。鶴ヶ峰宏朔といいます」
「なるほど、鶴ヶ峰君。名乗りが遅れたね。私はこの外国人特区における治安維持および査察を一任されている、捜査官の黒須という者だ。不測の事態があればいつでも私に申し出るといい。同胞たる敷島人である君が、この地区に蠢く虫けらに遠慮や躊躇をする必要など、毛頭存在しないのだからね」
黒須が一歩足を踏み出した、その瞬間だった。 黒須の頭髪が、ピクピクと奇妙に逆立った。それと同時に宏朔も胸が苦しくなった。
黒須の「割れた黒水晶」のような瞳の奥で、銀色のひび割れがジジ……と青白く不気味に明滅した。
『くっ……この放電ノイズは一体……!?』
黒須は悪寒に襲われ、咄嗟に静かに一歩、宏朔から距離を取った。手袋をはめた手でスプレーをひと吹きし、心を落ち着かせるように一呼吸置いた。
「なんだ今のは……まあいいか。……ところで鶴ヶ峰君。君のその右手……実に精妙かつ過剰なまでの構造を持った、素晴らしい義手とお見受けする。失礼でなければ、私に少々詳しく拝見させてはいただけないだろうか」
黒須は黒い手袋越しにでも、宏朔の手が義手だと一瞬にして見抜き、彼の右手をしっかりと握った。その時宏朔の脳裏に、『これは盗品だから、ばれたら一発死刑』というミルツェラの言葉が思い出された。
「ジブンにそういう趣味は無いっスよ」
咄嗟に宏朔は黒須の手を払ったが、それだけでも黒須には十分な“接触”だった。
「おっと……なるほど。ハハ……余計な追及で君に心理的負荷を与える意図はないのだ、安心したまえ。“それ”の出自に関しては、私“は”管轄外だ。……だが、そうだ……君はミルツェラの連れでもあったな。ならば単刀直入に尋ねたいのだが───君は彼女から聞いたことがあるだろうか。〈アマテラス〉という名を」
その時、地面に倒れていたお婆さんの小さな唸り声が響き、正気に戻った宏朔は急いでお婆さんに駆け寄った。
「それよりもお婆さんを助ける方が先でしょうが!」
「……なるほど。負傷者の救護を最優先すべきという君の主張には、物理的にも人道的にも完全な妥当性がある。だが過度な懸念は無用だよ、鶴ヶ峰君。極めて幸いなことに、我々が今立っているこの場所は……まさに診療所なのだからね」
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