─診療所の異変─
いつもなら昼に一度は戻ってくるリシェルが、今日は邸に姿を見せなかった。
「リシェル先生、お昼も戻らなかったっスね」
「あいつ、忙し過ぎて食べるの忘れてるかも。しょうがないわね。約束どおり、持って行ってあげて」
ボルシチを食べたばかりの膨れたお腹を擦りながら、ミルツェラはソファの上で横になった。視線の先にあるのは、レコード台の上に据えられた立方体の水晶。その中で、愛くるしく転がる猫や犬が映し出されている。食後はお昼の動物番組を見ながら気絶するのが、彼女の幸せの形らしい。
「よくそれで、体型維持できるっスね」
「アタシも太れるもんなら太ってみたいもんだわー」
ジャージの袖から細腕をひらひらと挙げて、欠伸を噛み殺すミルツェラ。行ってらっしゃいの合図だった。
「冷めないうちに渡しなさいよー。……続きは、帰ってきてからだからね」
宏朔はタッパーを手に、診療所への扉を開けた。
開業前の静寂とは打って変わって、消毒液の匂いに咳や吐息が混じる院内。老若男女問わず、リシェルの診察を受けようと大勢の患者が押し寄せていた。二十席ほどの待合室は全て埋まり、一人出ればまた一人が入ってくる状況だ。
そんな菌の温床で、受付のクラリスに声を荒げるチンピラが一人いた。
「早く薬出せよ。はい、三千円」
「順番を守ってください」
気丈に振る舞うクラリスの声が待合室に響いた。診察を終えて薬の処方を待っていたものの、時間が経って痺れを切らした客が、立ち上がったらしい。
「オマエじゃ話になんないわ。女医だして。早く」
怒りを隠そうともしない男を一目見て、宏朔は何かしらの薬物をやっている人間だろうと見立てた。落ち窪んだ瞳、気だるい表情、ガリガリのスキンヘッド、特徴的な訛り方。
ヘロインかオピオイド系の常習者で、どこかのギャング。そこまで読めてしまう自分をちょっと不思議に思いながら、彼はタッパーを抱えてバックヤードへ向かおうとした。
すると、
「ちょっと待ちな、兄さん」
突然、肩を掴まれる宏朔。振り返ると、受付で癇癪を起こしていた若者が立っていた。
「どうしたんスか?」
「アンタ、リシェルって女医と知り合い?」
「知り合いっスよ。命の恩人っス」
「丁度いいわ。連れてって。そこのボンクラじゃあ、話にならんし」
受付で震えるクラリスを見て、宏朔は眉を上げ、男に訊いた。
「診察っスか?」
「詮索すんな。黙って行けよ、オッサン」
ピリピリとするギャングらしき男。宏朔は『オッサンって誰のことっスか?』とキレかけ、若造を地獄へ送ってやろうかとも思ったが、笑って大人の余裕を見せることにした。
「そうカリカリするなって」
宏朔が笑うと、男はそれを見下しと受け取ったらしく、すぐさま胸倉を掴もうと手を伸ばした。しかし宏朔は、タッパーを左手に持ったまま、右手で男の手首を掴んで軽く捻り上げた。ボルシチは、一滴もこぼさなかった。
「イデッ!」
「大丈夫、大丈夫。痛くない痛くない。お前さん、もう少し待ってな。ちゃんと薬は出されるだろうから」
男を通路に待たせた宏朔は、強張った顔クラリスに手招きされて受付へ近寄った。
「どうしたの、クラリス」
「あのお客さん、強い鎮痛剤を大量に欲しがってるんです……!」
「出してやったらどうっスか。それともなんか事情が?」
「いつもなら断るか適量出すんですけど、今日は……ほら、後ろを見てください」
クラリスが怯えた視線を向ける先───待合室の隅の長椅子に、年齢不詳の男が座っていた。
漆黒のスーツの上に、黒真鍮とタングステンを密に織り込んだ完全ファラデーケージ仕様の重厚なトレンチコート。全身は包帯と高圧絶縁被覆で覆われ、黒い手袋の手は、真鍮製の電位センサー付きステッキを静かに握りしめている。その一角だけ、咳も話し声も吸い込まれたように静かだった。
「な……なんスかあの激ヤバなオッサン⁉」
ギャングの若造にも泰然としていた宏朔が、明らかに動揺して、耳打ちでクラリスに説明を求めた。クラリスは焦った表情のまま、その全身包帯男の素性を端的に告げた。
「彼はこの外国人特区の番犬……黒須捜査官です。あっちの馬鹿ギャングはともかく、こっちが違法な薬を渡したら、あの捜査官にしょっ引かれちゃいます!」
「なるほど……! リシェル先生が出てこないのはそういうことか! 理解承知納得合点!」
とんでもない化物が見張っていると知り、宏朔はすぐさまギャングの若造にもそのことを教えてやることにした。
「のぉ、何コソコソ喋ってんの。早く薬出してよ。聞こえてない?」
診察室へ続く通路から受付へ戻ってきた男を、宏朔はまた通路へ引っ張り込み、耳打ちをした。
「お兄さん、よく聞いてくれ。君があそこでもめ事を起こすと、後ろに座っている捜査官がジブンたちを捕まえに来る。互いに長生きしたければ、少し待っていてもらえるかな?」
「ああ? なんで?」
遠回しでは通じない。宏朔は言い方を変えた。
「今薬を渡したら、捕まるってことだ。暴力を振るったり、揉め事を起こしたりすれば、奴らの思うツボだぞ」
「言っとくがな。俺は怖くねぇ。このタトゥーを見ろ。PSのタトゥーだ。俺に喧嘩を売るってことは、PSに喧嘩を売るってことだぞ。分かってんのか⁉」
彼は新米か、あるいはそのPSという組織は警察組織よりも上の立場なのか。宏朔には分からなかったが、どちらにせよ、この男に退く気がないことだけは確かだった。
「その組織だって、わざわざ捜査官の目を引きたいわけじゃないだろう。ここで暴れてみろ、ボスに殺されるぞ。薬は渡すから今は待つんだ。それが一番、アンタにとってもメリットに───」
「あーもう、アンタも話になんないわ。てか、オッサンマジ誰?」
宏朔の説得にも耳を貸さず、癇癪を起こすギャング。その前に、待ちくたびれた高齢の女性患者が立ちふさがった。
「アンタ達ねぇ! みんなの迷惑になっているのが分からないの⁉ いいから出てって!」
「あぁ⁉ うるせえんだよババア!」
苛立ちが頂点に達したギャングは、力任せにお婆さんを突き飛ばした。
「ヒャァッ……!」
ガシャン、と硬い破壊音が響いた。お婆さんは床に倒れ込み、腰に着けていた接地誘導器───尻尾が、根元からへし折れて転がった。
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