第89話 お見舞い。
新たな作戦を決めた俺達は、その足で医療マンション――通称、病院棟へと向かった。
建物の中は消毒液の匂いと、どこか張り詰めた空気に満ちており、ここが前線から切り離された“休息の場”でありながら、同時に戦いの延長線上にある場所なのだと、改めて実感させられる。
ここには深手を負った者達が今も入院しており、俺はこの場所の責任者として、出来る限り毎日足を運び、全員の顔を見て回るようにしていた。大丈夫かと声を掛けながら、少しでも気が紛れるようにと軽く食べられる菓子を手渡していくその時間は、戦いとは別の意味で気を張る時間でもある。
――誰一人として、欠けさせない。
そんな想いを胸に抱きながら、一人一人の様子を確かめ終え、最後に向かったのは医療班のリーダーである神崎のもとだった。
「それで‥‥もうじき退院できそうか?」
そう問いかけると、神崎は手元の資料に目を落としながら、小さく息をついてから答える。
「そうね。現状の回復具合を見る限り、あと二週間はこのまま安静にしてもらう必要があるわ。その後はリハビリに移行して、徐々に体を慣らしていく形になるでしょうね。」
淡々とした口調ではあるが、その一つ一つの言葉には医師としての確かな判断が込められているのが分かる。
「全部合わせると、どれぐらいになる?」
「リハビリの進み具合にもよるけど‥‥そうね、順調にいったとしても最低一ヶ月は見ておいた方がいいわね。」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で組み上げていた作戦の時間軸が、わずかに軋む音を立てた。
「じゃあ、全員が現場に戻れるのは夏に入った頃、ってところか。」
「えぇ、無理をさせない前提なら、そうなるわね。」
――遅い。
喉元まで出かかったその言葉を、俺はかろうじて飲み込む。
今回の作戦は、出来る限り早く動く必要がある。もしあの親子が裏切り者だった場合、その間ずっとこちらの情報を抜かれ続けることになる以上、時間を掛けるという選択肢そのものがリスクになり得るが、同時に無理に動かして誰かを失うことだけは絶対に許されないという思いも、確かに胸の奥にあった。
そんな葛藤を抱えたまま沈黙していると、神崎がふとこちらを見上げた。
「‥‥もしかして、何かあったの?」
その問いは探るようなものではなく、純粋にこちらを気遣う声音だった。
俺は一瞬だけ言葉を選び、背後にいる祈達へと視線を向ける。確認するまでもないが、それでも意思を共有するように視線を交わすと、三人は静かに頷いた。
――話しても問題ない、ということか。
「何かあった、というよりは‥‥こっちから動きたいと思っている。」
「動くって‥‥どういう意味?まさか、戦争でも始めるつもり?」
わずかに冗談めかした響きを含ませながらも、その瞳は真剣そのものだった。
「いや、そういう話じゃない。ただ――拠点の内情を、一度しっかり把握しておきたいと思ってな。」
そこで一拍置き、言葉を選びながら続ける。
「誰が味方で、誰が敵なのかを。」
その瞬間、神崎の表情が僅かに強張るのが分かった。
「それは‥‥拠点内に、裏切り者がいるかもしれないってこと?」
「可能性の話だがな。ただ、もし最初から向こう側の人間だったとしたら、“裏切り”って表現は正確じゃない。どちらかと言えば――スパイ、だな。」
「‥‥スパイ。」
その言葉を繰り返した神崎は、ゆっくりと息を吐きながら視線を落とした。
「あなたがそこまで言い切るってことは、それなりの根拠があるってことよね。」
「‥‥まだ不確定だ。だからこそ、確定させる必要がある。」
はっきりと言い切った上で、俺は続ける。
「本当は探索班に早めに復帰してもらって動きたかったんだが‥‥この状況を見る限り、それは難しそうだな。」
「そうね。医師としては許可できないわ。無理をさせて取り返しがつかなくなったら、本末転倒でしょう?」
きっぱりとしたその言葉に、迷いはない。
「だろうな。俺としても、無理に動かして死なせるわけにはいかない。」
そう答えながら、胸の奥に溜まっていた焦燥を静かに押し殺す。
「ありがとう。人手についてはこっちで何とかする。神崎は、自分の仕事に集中してくれ。」
「えぇ、それはもちろんよ。」
頷いた後、神崎は一瞬だけ言葉を選ぶように視線を泳がせ――そして、静かに口を開いた。
「それと、最後に一つだけいいかしら。」
「何だ?」
「堂島さんと、ちゃんと話してあげて。」
その言葉の意味は、説明されるまでもなく理解できた。
あの事件以来、堂島は自分を責め続けている。誰よりも前に立ち、誰よりも動き、休むことなく体を酷使し続けているその姿は、もはや“責任感”という言葉だけでは片付けられないものになっていた。
訓練中の動きにも余裕はなく、鬼気迫るというよりも――どこか自分を追い詰めるような危うさが滲んでおり、このまま続ければいずれ身体か心のどちらかが先に壊れるのは目に見えていた。
神崎が言いたいのは、それを止められるのは俺しかいない、ということだろうと理解しながら、ほんの僅かに目を伏せ、俺は小さく息を吐き出す。
「あぁ‥‥分かってる。今から話をするつもりだ。」
そう答えると、神崎は安心したようにわずかに頷き、その反応を見届けた俺は静かに踵を返す。
向かう先は一つ――今にも壊れそうなまま立ち続けている、あの男のもとへと。




