第83話 本当の脅威。
リアの報告を聞いた俺はすぐさま医療マンションへと向かった。
エントランスを抜けた瞬間、鼻を突くのは消毒液と血の匂いが混ざった重たい空気だった。廊下にはストレッチャーが並び、シーツの上には顔色を失った負傷者が横たわっている。呻き声と、誰かの荒い呼吸音が絶え間なく響き、静寂という概念は既にこの場から消え失せていた。
「その人は、向こうのベッドに!!この人は軽症だからここで治療しちゃうわ!!」
「神崎さん!!もう、この人の呼吸がどんどん浅くなってます!!急いで治療しないとヤバいです!!」
「今、行くわ!!」
怒号に近い指示が飛び交い、医療班の動きには一切の無駄がない。神崎さんは片膝をついて倒れている男の胸に手を当て、呼吸のリズムを確認すると同時に、横にいる人間へ短く指示を飛ばす。
「気道確保!!顎を上げて、舌落ちしてる!!」
「はい!!」
「止血まだ!?圧迫を緩めるな!!血圧落ちてるわよ!!」
既に床には赤黒い血が滲み、包帯は次々と交換されていく。誰かがハサミで服を切り裂く音が響き、露出した傷口には裂けた皮膚と滲み出る血液が生々しく広がっていた。
俺も手伝いたい――だが、医療に関する知識がない状態で手を出せば、助かる命すら落としかねない。だからこそ無闇に踏み込むことは出来ず、代わりに原因を突き止め、二度と同じ事態を繰り返さないことが今の俺に出来る唯一の役割だった。
この状況でまともに話が出来る人間などいない――そう思ったが、その中に一人だけ、医療班の動きを補助している探索班の人間がいた。
そう――堂島さんだ。
「堂島さん!!」
声を掛けると、堂島さんは振り返り、顔を歪めたまま小さく頭を下げた。その頬には乾ききっていない血が筋となって残り、呼吸も僅かに乱れている。
「‥‥リーヴァ、すまない。俺のせいだ。」
「謝罪はいい。聞きたいのは原因だ。それと、お前は怪我をしていないのか?」
「俺は大丈夫だ。仲間の一人が庇ってくれたからな。」
その言葉に含まれる重さは、周囲の喧騒よりも強く胸に響いた。
「なら、ちょっとこい。訳を聞きたいし、それにお前がここに居ても出来ることはない。今は神崎さんたち医療班を信じて、俺達には俺達の出来ることをするぞ。」
「‥‥分かった。」
堂島さんは一瞬だけ医療現場へ視線を向けた後、歯を食いしばるようにして頷き、俺の後を追った。
◇
会議室に入り、扉を閉めた瞬間、外の喧騒が僅かに遠のく。それでも完全には遮断されず、かすかに聞こえる呻き声が、この状況の深刻さを否応なく思い出させた。
「それで何があった?ゾンビの襲撃を受けたのが原因じゃないよな。こっちの情報では怪我人は多くいるが、ゾンビに噛まれた者はゼロだと聞いている。つまり、原因はゾンビじゃなく‥‥人だろ?」
「‥‥そうだ。あれは――」
堂島さんはゆっくりと頷き、言葉を選ぶようにして語り始めた。
「拠点を出発してから、俺達はゆっくり確実に前へと進んでいた。道中のゾンビは数こそいたが、連携を崩さず一体ずつ確実に処理していたし、初めて探索に出る奴もいたから、無理はせず休憩を多めに挟みながら進んでいた。呼吸を整え、周囲を警戒し、音に神経を張り巡らせながら――な。
そして、時間を掛けて未探索エリアに入った。そこからはゾンビの数が明らかに増えたが、動きは単調で、囲まれないように位置取りを徹底すれば対処は出来ていた。前衛が牽制して足を止め、その隙に横から確実に頭を潰す。無駄な動きはせず、一撃で仕留めることだけを意識してな。」
堂島さんは拳を軽く握り、当時の感触を思い出すように言葉を続ける。
「物資の探索も並行して行いながら進んで――あの親子が言っていたホームセンターに辿り着いた。
そのホームセンターは、人が住んでいた形跡がはっきりと残っていた。窓は内側から板で打ち付けられて補強され、扉も同じように加工されていた。簡易的だが、防衛拠点として機能していたのは間違いない。
だから俺達は、生存者がいる可能性を考えて中へと入った。親子の話では、ゾンビの侵入を許して崩壊したと言っていたからな、普段以上に警戒して一歩ずつ進んだ。」
呼吸の音がわずかに荒くなる。
「中にはゾンビが残っていた。だが、狭い通路だった分、数の利を活かされることもなく、順に処理していった。誰も噛まれることはなかったし、連携も崩れなかった。
それでも――生存者はいなかった。」
短く吐き出された言葉の裏に、わずかな悔しさが滲む。
「逃げたのか、全員がやられたのかは分からない。だが、人の気配は完全に消えていた。だからせめて、残されていた物資を回収することにした。」
一拍の間。
「――それが、間違いだった。」
空気が一段重くなる。
「物資を集めている最中、外から車の音が聞こえた。エンジン音が複数だ。俺達は即座に動きを止めて、視線と手振りで合図を送り合い、静かに外へ出て状況を確認したが――その時にはもう遅かった。
既に、ホームセンターの周りは完全に囲まれていた。」
堂島さんの目が鋭く細まる。
「連中は位置取りが上手かった。こちらの逃げ道を潰すように配置されていてな、ただの生存者じゃないと直感した。危険だと、本能が警鐘を鳴らしていた。
それでも、一応は対話を試みようと前に出た――その瞬間だ。」
拳が強く握られる。
「風を裂く音がした。次の瞬間には、矢が一直線に俺へ向かって飛んできていた。」
言葉が一瞬途切れる。
「避ける判断が一瞬遅れた。間に合わないと理解した時には、もう身体が動かなかった。」
低く、押し殺した声。
「だが――仲間の一人が、俺の前に飛び出してきた。」
その光景をなぞるように、視線が落ちる。
「鈍い音と同時に、矢が肉に食い込む感触が伝わった。矢じりが深く刺さり、血が噴き出すのを目の前で見た。」
呼吸が僅かに乱れる。
「そこからは、考える余裕なんてなかった。全員で即座に撤退に切り替えた。撃たれる矢を避けながら、倒れた仲間を引きずり、互いにカバーしながら走った。振り返れば終わる、そう分かっていたから誰も後ろは見なかった。」
そして、静かに締める。
「――そうして、必死に逃げて‥‥ここへと戻って来たというわけだ。」




