あの頃の想い出
まだホテルが現在の体制になる少し前、冴子さんが副支配人として連日連夜の業務に追われていた頃のこと。
「……百合。この新作の試作品、いただいても良いかしら?」
深夜の厨房。勝手口のドアが静かに開き、疲労の色を滲ませた冴子さんが顔を出した。
私は手元のパティシエナイフを置き、いつものように穏やかな笑みを浮かべて迎えた。
「ええ、どうぞ。冴子さん、今日もお遅くまでお疲れ様です。」
切り分けたばかりのタルトを差し出すと、冴子さんは厨房のパイプ椅子に腰掛け、フォークを口へと運んだ。
ひとくち咀嚼した瞬間、彼女の整った眉根がふっと緩む。その表情の変化を見られるだけで、私の胸は甘く、痛いほどに跳ね上がるのだ。
「……素晴らしいわ。あなたの作るお菓子は、疲れた脳に一番効くわね。本当に、あなたをうちのパティシエとして招聘できて良かった」
「ふふ、冴子さんにそう言っていただけるなら、夜遅くまで試作を重ねた甲斐がありました」
そう言って微笑むと、冴子さんは満足そうに頷き、ふいに私の手元へすっと視線を落とした。
そして、何の前触れもなく私の右手を両手で優しく包み込んだ。
「……っ、冴子さん?」
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まりそうになる。
熱い体温が手の甲から伝わってきて、顔が火照っていくのが自分でも分かった。
けれど、冴子さんの美しい瞳に宿っていたのは、情熱ではなく、どこまでも澄み切った「職人への敬意」だった。
「この繊細な手から、あんなに美しい味が生まれるのね。……百合、私を助けてくれてありがとう。あなたが私の隣にいてくれることが、今の一番の救いよ。あなたなしじゃ、このホテルの立ち上げも、私の仕事も回らないわ」
まっすぐで、偽りのない感謝の言葉。
私の目をじっと見つめながら語りかけるその姿は、あまりにも誠実で、そしてあまりにも無自覚だった。
「私なしじゃ回らない」「私の隣にいてほしい」
そんな特別な告白のような言葉を、彼女は完璧な「最高の信頼する部下」への評価として、100%善意と信頼で口にしている。恋心なんて甘い感情は、彼女の頭の中に一片たりとも存在していない。
「……本当に、ずるいわ」
私の手の甲をぽんぽんと優しく叩いてから、冴子さんは「頼りにしてる」と爽やかな笑顔で手を離した。
冷めていく手のひらの余熱を感じながら、私は残ったケーキの生地を静かに捏ね直した。
完璧で、頼もしくて、私を誰よりも評価してくださる方。
でも、私のこの想いに対してだけは、呆れるほどに鈍感な方。
その罪深い無頓着さに、私はこれからも微笑みながら振り回され続けるのだろうと、密かに覚悟を決めた夜だった。




