冴子の楽しみ
「……はぁ」
業務終了後の事務室。備品チェックの合間に漏れ出た私の深い溜め息は、静かな部屋に思いのほか大きく響いた。
「あら、ずいぶん重たい溜め息ね。フロントのカウンターが吹き飛ぶかと思ったわ」
書類に目を通していた冴子さんが、眼鏡の奥の瞳をこちらに向けてくすりと笑った。その隣では、紅茶を淹れていた百合さんが「ふふ」と上品に微笑んでいる。
「冴子さん……からかわないでください」
「からかってなんかいないわよ。あなた、よく折れないわね。そこだけは感心するわ」
呆れたような、けれどどこか同情を含んだ冴子さんの視線が突き刺さる。
「今日も今日とて、玲に『一番の親友』って笑顔で言われて撃沈していたでしょう?バックヤードまであなたの哀愁が漂ってきたわよ」
「見てたんですか……」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
私がどれだけ玲に特別な視線を送ろうが、二人きりになろうと画策しようが、玲はすべてを「親友としての温かい好意」に変換して爽やかに打ち返してくるのだ。
「玲ちゃんのあの無頓着さは、ある意味才能ですね」
百合さんが淹れたての紅茶を私のデスクに置いてくれながら、優しく、けれど容赦のない言葉を添える。
「どれだけ涼香さんが熱いアプローチをしても、すべて友情の暖簾に腕押し……見ていて少し、かわいそうになってしまいます」
「百合さんまで……っ」
大人組からの生温かい哀れみの視線。観客席から高みの見物を決め込まれているのが分かっていても、言い返す言葉すらない。だって、二人の言っていることが100%事実なのだから。
「放っといてください……。好きでこんな苦労してるわけじゃないんですから」
不機嫌そうに紅茶のカップを手に取り、一口啜る。苦い。
「まあ、諦めないのは勝手だけど、あんまり一人で暴走して玲を困らせないことね」
「困らせるなんて……私、玲の前では完璧に『いい親友』を演じてますよ」
「それが一番イタいって言ってるのよ、バカね」
冴子さんに一蹴され、私はぐうの音も出なくなって黙り込んだ。
自分が一番知っている。どれだけ足掻いても、どれだけ傷ついても、玲の隣にいたいから「親友」の仮面を脱ぎ捨てられない自分の惨めさを。
そう言えば.....
「⋯⋯冴子さん、絶対玲のこと狙わないでくださいね。」
冴子さんは、男性ということ以外、玲のタイプにピッタリ合っているんじゃないか。独身だし。
「狙う?私が、玲を?」
「⋯だって、冴子さんが私のライバルだったら、私に勝ち目なんかないですから。」
「何言ってるの、狙うわけないじゃない。忙しくてこの30年恋愛なんかしたことないのよ。それに、これからも恋愛するつもりもない。
私はこのホテルに人生を捧げるって決めてるから。」
冴子さんにとっては、このホテルが恋人なの?
人生を捧げるなんて⋯⋯重すぎる。
「⋯⋯そ、そうなんですか?」
「そもそも私はあんなド天然に興味なんか出ないわよ。おこちゃまな恋愛をするような歳でもないし。」
「⋯⋯そうですか。」
「⋯⋯けど、私じゃなくても玲の相手なんか沢山いるのよ。だから、今の近さに慢心しないように。」
冴子さんのド正論はかなり効いてしまう。
「……応援してますから、頑張ってくださいね、涼香さん」
百合さんの優しい微笑みだけが、今の私には唯一の救いだった。




