2人だけの空間
大型台風が直撃した夜。ホテルは満室、トラブル対応で全員が不眠不休の総力戦。
ようやく夜が明け、外の暴風雨が去った午前4時。
静まり返った総支配人室で、冴子はデスクに書類を広げたまま、疲れた様子で自分の肩を揉んでいる。
ノックの音。入ってきたのは、トレーに温かいハーブティーを乗せた百合。
仕事中は常にピンと髪を結んでいる百合だが、この時間は少しだけ後れ毛が落ちていて、プライベートな空気が漂う。
「お疲れ様です⋯⋯総支配人。」
「⋯⋯百合。2人きりなんだから、”冴子”で良いのよ?」
「⋯⋯はい、冴子さん。」
誰もいない、二人きりの空間。百合は静かに「総支配人」ではなく「名前」で呼ぶ。
「わざわざ淹れてくれたの?ありがとう、生き返るわ」
「ハーブティーです。少しでも、お疲れが取れればと思って」
デスクの傍らに立ち、カップを置く百合。冴子はハーブティーを一口飲むと、本当にホッとしたように息を吐き、椅子に深く身体を預けて百合を見上げる。
「はぁ……。なんだか、百合の顔を見たら、急にホッとしちゃった」
そう言って、冴子は無防備な、優しい笑顔を浮かべる。そして、百合の顔に少し手を伸ばし、耳元の髪をそっと指先で払う。
百合の心臓が、ドクンと跳ね上がる。鼓動が耳の奥でうるさいくらいに響く。
「もしかして……」という淡い期待が胸をかすめた瞬間、冴子は爽やかに手を引く。
「あ、ごめん。ちょっと髪に、小麦粉がついてたから。徹夜明けで、お互いボロボロね」
「……ええ」
冴子にとっては、ただの親しい部下への、悪気のない無自覚なスキンシップ。
百合は切なさを堪えるように視線を落とし、消え入りそうな声で、だけど確かに呟く。
「……ずるいです、冴子さんは」
「ん?何か言った?」
「……いいえ。何でもありません。冷めないうちに、お召し上がりくださいね」
百合はそれ以上何も言わず、ただ穏やかに微笑んで、ハーブティーの湯気の向こうにある、愛しい人の横顔を見つめ続けた。




