伝えられない想い
ホテルの創立記念日パーティが、大盛況のうちに幕を閉じた夜。
ゲストも他のスタッフも退出し、静まり返った最上階のメインバー。
遮光カーテンが開け放たれた窓からは、都会のきらびやかな夜景が一望できる。
その誰もいないバーカウンターに、冴子と百合は二人きりで座っていた。
ドレスアップした姿のままの冴子は、いつもピシッと伸ばしている背筋を少し緩め、自らカウンターの奥から最高級のブランデーのボトルを取り出した。
二つのロックグラスに、琥珀色の液体がトクトクと注がれ、丸い氷がカランと音を立てる。
「はい、百合。本当にお疲れ様。今日の記念デザート、過去最高に出席者からの評判が良かったわ。さすがね」
「ありがとうございます、冴子さん。無事に終わって、私もホッといたしました」
グラスを合わせる。チリン、と繊細な音が夜のバーに響く。
お酒を一口含んだ冴子は、「はぁ……」と深く息を吐き、カウンターに片肘をついて百合の方を向いた。その表情は、いつもの完璧な総支配人のものではなく、どこか子供っぽく張り詰めた糸が切れたような、無防備な顔だった。
この顔を知っているのは、世界中で自分だけ。百合の胸に、甘い愛おしさがじわりと広がる。
「本当に、百合がこのホテルにいてくれて良かったわ。……ううん、ホテルだけじゃない。私が総支配人になってから、あなたがずっと隣で支えてくれた。あなたなしのこのホテルなんて、私には考えられないわ」
少し酔いの回った、熱を帯びた冴子の声。
その真っ直ぐな、嘘偽りのない瞳が見つめてくる。
「あなたなしの人生なんて」と言われたわけではない。
これは、絶対的な信頼を寄せる部下への、戦友への言葉だと分かっている。
分かっているのに——百合の胸には、もう抑えきれないほどの感情が波のように押し寄せていた。
百合は、琥珀色にきらめくグラスの底を見つめた。氷が溶けて、自分の揺れる瞳が歪んで見える。
「……私も、です」
「ん?」
「私も……あなた以外の総支配人は、考えられません。冴子さんがいるから、私はここで、ずっとケーキを作り続けられるんです」
それは、忠誠心のフリをした、百合にできる精一杯の告白だった。
この気持ちを言葉にしてしまえば、今のこの、二人きりでグラスを傾けられる特別な関係すら壊れてしまうかもしれない。だから、この「信頼」という器に、自分の重すぎる恋心を全部閉じ込めるしかない。
百合は顔を上げ、いつものように穏やかに、だけど少しだけ潤んだ瞳で優しく微笑んだ。
「ですから……これからもずっと、お側にいさせてくださいね」
「ふふ、何言ってるのよ、水臭い。当たり前じゃない。これからも頼りにしてるわよ、私のチーフパティシエ」
冴子は嬉しそうに笑い、自分のグラスを百合のグラスに再び軽くコツンと当てた。
百合は微笑み返し、ゆっくりとブランデーを口に含む。
喉を焼く熱さと、鼻に抜ける甘い香り。
それは、切なくて、もどかしくて、だけど世界で一番愛おしい味だった。




