隣にいるのに
梅雨時の、ある休日。
百合は私用の買い出しへと、ホテルの勝手口近くのロビーを通りかかった。
外はバケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨。
グレーのシックな私服に身を包んだ冴子が、エントランスで足を止め、
「あら、ひどい雨ね……」
と、困ったように外を眺めている。
「冴子さん?お出かけですか?」
「あ、百合。そうなの、ちょっと近くの美術館まで。そっちは買い出し?ご苦労様」
冴子はロビーの傘立てから、ホテルロゴの入った大きな黒い置き傘を1本引き抜くと、慣れた手つきでパッと広げた。
「1本しかないけど……駅まで行くんでしょ?はい、入りなさい」
「えっ、でも、申し訳ないです。私はここで雨宿りを……」
「いいから。風邪ひかれたら、うちの厨房が回らなくなるわ。」
「⋯ですが⋯⋯」
「ほら、おいで」
有無を言わせない大人の包容力で、冴子が傘を差し出す。
百合は少し躊躇したあと、「……すみません」と、その傘の下へ一歩足を踏み入れた。
激しい雨音が、傘の布地を叩く。
バサバサという雨音のせいで、二人の世界は急に狭くなり、お互いの声しか聞こえなくなる。
「濡れてない?もっとこっち寄りなさいよ」
冴子は当然のように、自分の右肩が雨に濡れるのも構わず、傘を左側の百合の方へと大きく傾ける。
百合のすぐ隣に、冴子の高い肩がある。ふわりと香る、冴子がいつもつけている上品な香水の匂い。
百合は嬉しさと同時に、胸がズキリと痛む。
(冴子さんは、きっと誰に対してもこうして紳士的だから……)
そう分かっているからこそ、この近さが苦しい。
その時、歩道の水たまりを車が跳ね上げ、激しい水しぶきが二人に迫った。
「っと、危ない!」
咄嗟に冴子が長い腕を伸ばし、百合の肩を抱き寄せるようにして自分の体の方へ引き寄せた。
ドクン、と百合の心臓が大きく跳ねる。
冴子の体温が、衣服越しにじんわりと伝わってくる。ほんの数センチの距離に、冴子の美しい横顔がある。
息が止まりそうなほどの愛おしさが百合の胸に溢れ、思わず冴子の服の袖を掴みそうになる——。
けれど、車が通り過ぎると、冴子はすぐに「大丈夫だった?」と何事もなかったかのように手を離し、爽やかに笑いかけた。
百合は、掴みかけた手をそっと下ろし、自分の服の裾をぎゅっと握りしめる。
そして、あえて一歩、横に足を踏み出した。
二人の間に、再び20センチの正確な距離が戻る。
「……はい。大丈夫です。ありがとうございます」
「よかった。でも百合、そんなに離れたら濡れちゃうじゃない。もっとこっちに来ればいいのに」
「いいえ。冴子さんのお洋服が濡れてしまいますから。私は、ここでちょうどいいんです」
いつもの穏やかな、一歩引いた微笑み。
百合は、冷たい雨の雫が自分の左肩を少しずつ濡らしていくのを静かに受け入れながら、縮まることのない距離をただ見つめていた。




