一途な百合への求婚
「百合さん、個室においでの仲野様が『作ってくれたパティシエにお礼が言いたい』とお呼びですよ」
サービススタッフにそう声をかけられ、私はサロンの結び目を整えてから、高級な夕食を提供するプライベート個室へと向かった。
本日のスペシャルディナーの締めくくりに、私が腕を振るった特製デセール。気に入っていただけたのなら、職人としてこれ以上の喜びはない。
「お気に召していただけて光栄です。」
トントンとノックして足を踏み入れ、私が深々と頭を下げた。
そこにいたのは、洗練された最高級スーツを完璧に着こなし、独特の静かな色気を纏った男性だった。
超がつく、高級ホテルの総支配人・仲野様。きっと、視察で来たのだろう。
年齢は冴子さんと同じくらいだろうか。一度離婚を経験されていると噂で聞いたことがあるけれど、年齢を感じさせない凛とした佇まいに、洗練されたスーツ、整った目鼻立ち。どこに行っても「イケメン」と謳われる彼に世の女性たちが群がるのも納得できるほど、確かに魅力的な男性だった。
「……君が、あの繊細で美しい一皿を作ったパティシエかい?」
「左様でございます。」
仲野様はスッと距離を詰めると、驚く間もなく、私の両手を固い手つきでギュッと握りしめてきた。
指先から伝わる熱と、男性特有の力強さに心臓が跳ね上がる。
「……百合さん」
「……え?」
「私は本気です。……私の妻になってくれませんか?」
仲野様は、実はぐいぐい寄ってくる女性が苦手なことだそうで、今回当ホテルに滞在中、私の作った新作デザートと控えめな接客に深く感銘を受け、一目惚れしてくださったのだという。
「もちろん、ただの求婚ではありません。君のパティシエとしての腕と気品に、私は心底惚れ込んでいます。我がホテルの製菓部門のトップとして迎え入れるとともに、人生のパートナーとして私を支えてほしい。条件は今の倍以上……いや、君の望む通りに用意します」
結婚の申し込みと、破格の条件での引き抜き。
握られた手に込められた強い熱量に、私は一瞬息を呑んだ。
世の女性なら、パティシエなら。誰もが羨むような夢のような提案だった。
けれど、私の答えは最初から決まっている。
私はそっと、でも拒絶の意を込めて彼の手から自分の手を引き抜いた。
「……身に余る光栄なお言葉、心より感謝申し上げます、仲野様。……ですが、申し訳ございません。そのお話をお受けすることはできません」
「なぜですか?私では……不満でしょうか
それとも、誰か好きな方でも?」
「⋯⋯仲野様は素晴らしい方です。ですが……私は、このホテルと、このホテルの総支配人を心からお慕いしておりますので」
仲野様は驚いたように目を見開いた。
しかしすぐに美しく苦笑し、諦める様子もなく私の頬のあたりに視線を送った。
「……なるほど。噂には聞いていたが、あの上品な総支配人殿は、本当に罪な人だな」
仲野様は惜しむように溜息をつくと、ポケットから1枚の名刺を取り出し、私の手にそっと握らせた。
「残念だな。でも、私は百合さんを諦めるつもりはありませんから。……君が慕っているらしいあの総支配人にとことん嫌気が差すことがあれば、是非連絡を」
「……仲野様……」
「失礼するよ。素晴らしいお茶と、お時間をありがとう」
そう言い残し、仲野様は優雅な足取りで応接室を後にしていった。
(……ふぅ……)
一人取り残された私は、深く溜息をついた。
(冴子さんには……このことは言わないでおこう。余計な心配をかけたくないし……)
私は名刺をそっとポケットにしまうと、気持ちを切り替えてトレイを持ち、部屋を出た。
◇ ◇ ◇
一方その頃、個室扉の陰で……
「うそ⋯⋯」
偶然、近くを通りかかり、開いたドアの隙間から一部始終を目撃してしまっていた涼香は、その場で文字通り固まっていた。
(いま……業界でも有名なあの仲野様が……百合さんにプロポーズした……!?しかも超破格の条件で引き抜きつきで…!!)
涼香は自分の両手で口を覆い、バクバクと鳴り響く心臓を押さえた。
(あんなに条件が良くて、ルックスも完璧な人なのに……百合さん、一瞬で断ったよね……!?
信じらんない、普通なら即決レベルの玉の輿&キャリアアップなのに……!!!)
理由は勿論知っているけれど⋯⋯百合のあまりにも一途すぎる選択に最早恐怖すら覚える。
「いっそのことあのバカみたいに翻弄してくる無自覚な総支配人なんか捨てて、受けちゃえばいいのに⋯⋯」
「なによ、涼香。私がどうかした?」
「ひっ」
振り返ると、総支配人の姿があった。
「バカとか捨てて、とか聞こえたのだけど」
「か、勘違いです⋯⋯っ失礼します」
涼香は激しい焦りと冷や汗を感じながら、誰にも言えない秘密を抱えてしまったことに、頭を抱えるのだった———




