私にだけは分かる
製菓室から遠ざかる暗い廊下。
涼香は、自分の足音だけが響く中、胸の奥の動揺を抑えきれずにいた。
頭から離れないのは、崩れ落ちて泣いていた百合の姿。
そして、その前に繰り広げられていた、総支配人・冴子の無自覚なスキンシップ。
(百合さんは、総支配人を……)
そこまで考えて、涼香は脳内で言葉を言い直した。
仕事の肩書なんて関係ない。一人の女性として。
(……いや、冴子さんのこと、あんなに好きなのか……)
胸が苦しくなる。涼香は歩みを止め、窓の外の夜景に視線を落とした。
(でも、冴子さんは違う。百合さんのことを誰よりも信頼して、大切にしてるけど……それは、きっと恋愛としてじゃない。戦友として、部下として、完璧なチーフパティシエとして。
だから言えないんだ。言ったらその全部が壊れてしまうから……)
そう、百合が自分の気持ちを1ミリも外に出さないのは、臆病だからじゃない。冴子を困らせたくない、今の特別な関係を守りたいという、痛いほどの覚悟があるからだ。
(それなのに、)
涼香は、ぎゅっと拳を握りしめた。
脳裏に焼き付いた、あの光景が蘇る。
(それなのに、冴子さんは、あんな風にもっともっと好きにさせてくる。無自覚に距離を詰めて、特別扱いして、優しくして……百合さんの心をめちゃくちゃにかき乱していく。想いを止められなくて、溢れちゃうに決まってるじゃない……。あんなの、残酷すぎる。)
いつも仕事では自信満々で、冴子のことを「最高の上司」だと慕っていた涼香。
けれど今夜ばかりは、冴子のあの完璧な紳士ぶりが、百合の心をじわじわと焼き尽くす「凶器」に見えて仕方がなかった。
(……私なんて、まだマシな方じゃん)
ふと、自分の想い人である玲の顔が浮かぶ。
玲は鈍感で、自分のアプローチをことごとくスルーしてくるけれど、少なくとも「好きにさせてくるような残酷な優しさ」で翻弄してはこない。ただ真っ直ぐに、友達として接してくる。
それに比べて、百合の置かれている状況はあまりにも過酷だ。
一番近くにいて、誰よりも特別で、だけど絶対に手が届かない。
「……あんな顔されたら、もう調子狂っちゃう……」
涼香はぽつりと呟き、誰もいない廊下で深くため息をついた。
昼間、ちょっとからかうように「今度美味しいお酒の店、教えますね」なんて言った自分が、恥ずかしくて、たまらなく申し訳なくなる。
次に百合の顔を見た時、自分は一体どんな顔をすればいいのだろう。
同じ痛みを、けれど自分より何倍も重い痛みを抱えている彼女に、自分は何ができるのだろう。
(そう言えば⋯⋯)
一つ、疑問がある。
(冴子さん、ただ気に入ってるだけの部下に、あんなことする?)
そう、先程のスキンシップ。
あれは明らかに———度を越しているような気がした。
(近くに居すぎる百合さんは気づいてないけど、
もしかすると、冴子さんの気持ちも少しずつ変わってるんじゃ⋯⋯)
「そうだったら良いんだけどな、あの総支配人だからな⋯⋯」
涼香は夜の静寂の中、答えの出ない問いを抱えたまま、ゆっくりとフロントへ向かって歩き出した。




